2022.6.26ヨハネによる福音書 8 章 12~20 節「主イエス様は世の光です」
- CPC K
- 2022年6月27日
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牧師 松矢龍造
起 イギリスにあります、ある海の灯台の標語には、次のように書いてあると言われています。「光を与え、いのちを救う」。嵐で真っ暗な闇の海にあります船にとって、灯台の光 が、いのちを救う光となります。同じように、私たちの人生の闇から救い出せるのは、世の光であるイエス様のみです。 イエス様が「私は世の光である」というのは、偉大な宣言です。この世には、罪と死と悪魔と虚無という暗闇があります。私たちの内にも闇があります。さらにこの世には、無知と生きる目的の喪失と言う闇があります。皆さんの抱えている闇は、どのようなものでしょうか。どのような闇や暗黒であっても、世の光なるイエス様の光が必要です。 世の光なるイエス様を離れていては、人生の道筋を照らす真の光はありません。またイエス様を離れて、人生に真の意味を知ることは出来ません。そしてイエス様を離れては、永遠に関することを知ることは出来ません。 承 旧約時代、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民が、解放されて荒れ野にありましたとき、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、神様はイスラエルの民を導かれました。仮庵の祭りは、このイスラエルの民が、荒れ野において、神様の助けがいかに大きかったかを覚える祭りです。渇いた喉に水を与える奇跡を与えてくださったことを覚えて、イエス様ご自身が、真の命の水の源であることを示されたのが、前回の聖書の御言葉でした。 続いて、今日の御言葉は、荒れ野において、イスラエルの民を導かれた火の柱を覚え て、イエス様ご自身が、私達人類の光であることが示されています。荒れ野における火の柱は、神様のご臨在と、保護と、導きを表しています。同じように、世の光なるイエス様は、神様のご臨在と、保護と、導きを示しておられます。 転 それでは 12 節をもう一度拝読いたします。「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」 イエス様が世の光であると言われたことの意味は深いです。第一に、まず原文で「光」と訳された言葉は、霊的な意味で、人に生命を与えるものであり、隠喩的には、暗黒の中で、人を照らすもののことです。そしてこの光とは、神様及びメシアについて言う言葉でもあります。 第二に、ヨハネによる福音書において、イエス様は何度も「わたしは、何々である」と言われています。それは旧約時代に、御自身の名を表された「わたしはある」という方と同一のお方であることを示しておられます。イエス様は、「わたしはある」。それは永遠に存在されて、万物を創造されたお方であるということです。 第三に、光は命と結びついています。旧約聖書、詩篇 36 編 10 節「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」主イエス様が、世の光であるとは、イエス様こそ、真の命の光をお与えになるお方であるということです。 第四に、イエス様は、イスラエルの民だけでなく、異邦人の光でもあると言うことです。旧約聖書イザヤ書 42 章 6 節「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。」 私達日本人も、中国人も、他のアジアの人達も、皆異邦人です。イエス様こそ、諸民族の光です。そしてこの光を受けて、全ての諸民族に為に、私たちも地の塩、世の光となるように召し出されています。 第五に、主イエス様が世の光と言われるのは、御自身の考えと教えが、真実であるということです。13 節 14 節「それで、ファリサイ派の人々が言った。『あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。』イエスは答えて言われた。『たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。』」 イエス様は、神様であるので、その証言は真実です。そしてイエス様は、義の太陽です。マラキ書 3 章 20 節「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。」 第六に、世の光なる主イエス様の最初の来臨は、裁かず、救うためでした。7 章 15 節16 節「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」 人間は、外面的で、人間的な基準や世の基準で人をさばき、罪に定めます。しかしイエス様のさばきは、私たちの内面まで見通し、天の基準で、真で真実なさばきをなさいま す。そして人となられたのは、人間を裁いて滅ぼす為ではなく、救うために来られたの で、だれをもさばかないと言われました。 真実なさばきをなさるおかたが、さばかれない。どうしてでしょうか。それは、イエス様ご自身が、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で負われるからです。ですから、御自身が、私たちにくだされるさばきを受けられので、さばかないと言われています。 第七に、イエス様は、私たちに父なる神様を示される世の光です。主イエス様は、父なる神様が誰であるかを民衆に理解させ、この父なる神様が、すべての人に、新しい命を授けようとされていることを宣べ伝えるために世に来られました。そしてイエス様と父なる神様は、お互いのことを証しをなさっておられます。 17~18 節「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」 イエス様が、神様を父と呼ぶのは、父なるか神様と特別な関係があることを示される為です。そして神の民に関して、権限を主張されるものでした。イエス様は、父なる神様のもとから来られ、そしてこの父なる神様のもとへ、世を統治される為に戻られるお方で す。イエス・キリスト、このお方を通して出なければ、誰も、父なる神様を知ることは出来ません。 第八に、イエス様が世の光であるのは、暗黒と邪悪を追放し、神の人への最終的な啓示の証しをする為でした。これに対して、もう一人の証人を示すようにという、ファリサイ派の人々の軽率な挑戦は、彼らの全く無知なことを現わすものです。 8 章 19 節「彼らが『あなたの父はどこにいるのか』と言うと、イエスはお答えになった。『あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。』」 ファリサイ派の人々は、救い主を拒絶してしまった為に、素直に神様を知り、神様を愛していると主張することが不可能になってしまいました。イエス様は、世の光として、この世に来られ、人々に罪を悟らしめ、真理を示し、真の命を与えるお方です。けれど心の頑なな人々が認めることの出来なかった光です。 しかしイエス様を信じて従うなら、悔い改めて、イエス様のもと来ます。またイエス様を主なる神様として信頼します。さらに自らの全生涯を、イエス様にお委ねします。そして死の向こう側に、はっきりとした明るい希望を持つことが出来ます。ならば、暗きのうちを歩まず、罪の生活を営みません。
ローマの信徒への手紙 13 章 12 節「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」そしてむしろ主にあって、光の道を歩みます。エフェソの信徒への手紙 5 章 8 節「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
結
仮庵の祭りの初日の夕刻に、神殿の婦人の庭にある四つの金の燭台に火が灯されまし た。そして仮庵の祭りが進められて行きます。同じように、私たちの人生も、世の光であるイエス様を、信じて受け入れてこそ、闇の歩でなく、命の光の道を行くことが始まります。そして世の光なるイエス様の光を受けて、私たちもまた世の光としてイエス様を証しする歩みとなりますように。
マタイによる福音書 5 章 14~16 節「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
最後に、牧師で心理カウンセラーである、堀肇先生の言葉を引用します。「生まれ直したい、別の親のもとで生まれたかったなどと思う人もいるでしょう。現に大きな問題を抱えた子どものためには、疑似家族が必要な場合さえあります。こんな問題を考えている時、思い出すのは、『たとえ女たち(母親)が忘れても、このわたしは、あなたを忘れない』イザヤ書 49 章 15 節という聖書の言葉です。
確かに人生早期の生育環境、特に母親との愛着関係は、人格形成に大きな影響をもたらします。しかしこの運命論的な響きさえ感じさせられる、人間の現実に向けてお伝えしたいのは、子どもの発達には望ましくない両親のもとに生まれたとしても、決して見捨てることのない神がおられること。また生まれ直すことができなくても、その心と魂が新しく生まれ変わることができる世界があることを知っていただきたいのです。」
父なる神様とイエス様から愛されている皆さん。父なる神様は、私たちを決して見捨てないということを示される為に、神の独り子なるイエス・キリストを、私たちの光とし て、世に遣わしてくださいました。このイエス様を信じて、心と魂が生まれ変わりませんか。そして、ご聖霊の力によって、この世の光なるキリストを証しする、世の光として、私たちも歩んでゆきませんか。
お祈り致します。

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