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2022.7.17ヨハネによる福音書8 章 31~47 節「真理であるキリストが、あなたを自由にする 」

牧師 松矢 龍造


先週は、参議院の選挙でしたが、かつて日本で最初の衆議院議長を勤めたのは、中島信行という人でした。この方は、最初は、禅などをやった人でしたが、ある時、同志社大学の初代学長であった、キリスト者である新島襄氏から次のように言われたことがありました。 「あなたが、いくら政治上の自由を昌道せられても、その霊魂が、罪の奴隷となっておったのでは、役に立たない。それゆえまず心の自由を求めた上で、進んで国民に、まことの自由を与えるために、尽力されたがよいでしょう。」 このように言われるのを聞いて、中島氏は、感悟するところあって、熱心に聖書を研究して、間もなく、まじめなクリスチャンとなられたと言われています。 教会に来たり、クリスチャンになったりすると不自由になるでしょうと言われる方がいます。むしろ逆です。教会に来て、イエス様によって救われるなら、罪の奴隷から解放されて自由となります。 自由には二面性があります。一つは、何々からの自由という面と、もう一つは、何々への自由という二面性です。罪と死、悪魔と虚無から自由とされることと、神様の栄光と、神と人への愛へと自由に向かうことが出来る。その両方が自由であります。 使徒パウロは、キリスト者の自由を次のように言われています。ガラテヤの信徒への手紙 5 章13 節 14 節「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」 宗教改革者の一人マルチン・ルターは、キリスト者の自由について次のように言われています。「キリスト者は、全ての者の上に立つ、自由な主人であって、だれにも服しない。」同時に「キリスト者は、全ての者に仕える僕であって、誰にでも服する。」まさにキリストにある自由な王の性質と、人々に愛を持って仕える僕としての性質の両方が自由と言われています。 今日の御言葉では、三つの対照的な概念が展開されています。一つは、真理と偽り、二つ目に、奴隷と自由、そして三つ目に、神から出た者と、悪魔から出た者です。 それでは、もう一度ヨハネによる福音書 8 章 31 節「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。』」イエス様を表面的に信じているユダヤ人に対して、イエス様は、「わたしの言葉にとどまるならば」と言われました。 イエス様にとどまるとは、キリストの教えの中に身を置き、キリストから離れて行かないことです。本当の信仰には、永続性があります。そして私たちは、キリストの言葉にとどまるから、救われるのではなく、救われているので、キリストの言葉にとどまるということを忘れてはなりません。

32 節「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」真理と訳された原文の言葉は、神様の真実が、イエス様の中に啓示されていることを意味しています。ですが、そもそも真理とは、先ず神の御子イエス様ご自身のことです。ヨハネによる福音書 14 章6節「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも、父のもとに行くことができない。』」 イエス様は、真理の源であり、正しいことの完全な基準です。別な表現では、真理は、父なる神様によって与えられる啓示としての真理のことであり、イエス・キリストは、神の言葉とし て、最高の啓示者です。 罪を犯す者は、罪の奴隷です。罪の奴隷とは、具体的には、飲食の奴隷、肉欲の奴隷、金銭欲の奴隷、名誉欲の奴隷、権力欲の奴隷、利己心の奴隷、弱者の為に語ることを恐れる奴隷のことです。他にも、罪の奴隷とは、無知、過ち、迷信、律法主義、悪魔礼拝などに、束縛されている状態のことです。 イエス・キリストこそ、本当の自由をお与えになるお方です。自由とは、奴隷でない、束縛や制限を受けない、解放されていることです。 ユダヤ人たちの民族的な誇りが、イエス様の言葉に、耳を塞がせています。イエス様は、御自分を殺そうと企んでいる彼らが、真のアブラハムの子孫ではなく、悪魔から出た者であると指摘されています。 父なる神様が、アブラハムを選んだので、アブラハムの肉の子孫であるユダヤ民族は、神様に特別に選ばれていると信じていました。ユダヤ民族は、かつてエジプトで奴隷状態にありまし た。その後も、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャからの隷属の歴史がありました。そしてこの当時は、ローマ帝国に支配されていました。 それでも、ユダヤ人たちは、アブラハムの子孫であるあるから、誰にも隷属されていないと信じていました。しかしいくら、先祖に立派な人物があったとしても、本人がその子孫たるにふさわしい人物でないなら、何になるでしょうか。アブラハムの子孫の中には、モーセの兄アロンの息子たちがいましたが、異なった火を焚いて、裁かれ殺されてしまいました。また預言者サムエルの子らも、不信仰の故に裁かれました。そしてダビデの子孫も、不信仰と不従順の子らが多かったです。 当時、イエス様に反対していたユダヤ人の実際は、罪の奴隷であり、悪魔を父としていまし た。サタンとも呼ばれる悪魔は、神様と神の民に敵対する勢力の指導者です。父なる神様が、神の御子イエス様を、この地上に遣わされた理由の一つは、悪魔の働きを、滅ぼすことでした。 ヨハネの手紙一 3 章 7 節 8 節「子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」 悪魔は、人の頑固さ、自尊心、偏見を利用して、イエス様を信じないようにしようとします。この悪魔の誘惑と攻撃に打ち勝ち、罪から解放される為には、主イエス様の救いを頂く他にありません。不正直、不敬虔、殺人の罪を犯すユダヤ人たちです。そのようにならない為には、イエス様によって罪から解放され、光の中を歩み、神のご聖霊に導かれる必要が、誰にでも必要です。 イエス様は、イエス様の御言葉に留まれない姿を、四つの場所に蒔かれた種の譬えをなさいました。種は神様の言葉をたとえていますが、一つ目は、道端に落ちた種を、カラスがもってゆくうに、悪魔が、その種を奪います。二つ目の種は、石や岩のところに蒔かれた種のように、苦しいことが起こると、芽が出ても根が少ないので、耐えられずに、実を結びません。そして三つ目の種は、最初は伸びますが、周りの茨や誘惑で、塞がれて、実を結ぶことか出来ません。

四つ目の種は、良い畑に蒔かれたので、多くの実を結びます。心が、ご聖霊によって耕され、悔い改めの実を結ぶ状態でこそ、主イエス様の言葉を聴き、その言葉に留まります。そして多くの愛と栄光の実を結びます。私たちの心の状態は、どれにあたるでしょうか。

最後に、キム・ジョンソクと言う方が「私は日々死んでいる」という内容を受け留めます。「祈りの究極とは、何でしょうか。それは『神様と一つになること』です。神様の御心と、あなたの考えが、同じになることであり、神様の感動周波数が、あなたの感動周波数と一致することです。

多くの人が、10 年、20 年祈っても、聖なる変化がないのは、彼らが祈りの中で、『聞く』ことなく、話してばかりいるからです。ひざまずいて、自分の考えを脇に置き、神様の御心を知ろうと集中するとき、『ご聖霊によって』求めるようになります。

『神様の御心に従います。私は何を放棄し、あなたに聴き従うべきでしょうか』と尋ね求めて切に祈るなら、『私は日々死んでいるのです。』

コリントの信徒への手紙一 15 章 31 節『兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。』という使徒パウロの告白が、自然にあなたの口から出てくることでしょう。

パウロは、いつも神様の目的とは、反対の自分の欲望や、利己的な考え方に気づかされていました。それで、人間の方向と、神様の方向は、根本的に異なるのだと悟り、自分を捨てようとして、『私は日々死んでいる』という告白を、嘆願するように、心から、しぼりだしていのです。

おそらくパウロは、死ぬまで離れない、しつこい自己愛に、うんざりしていたことでしょう。そして、しつこい運命のような紐を、日々、切り捨てようと、もがいたことでしょう。それが

『ご聖霊によって』求める祈りです。その祈りの道で、私たちは神様に出会うことができます。そうすれば、罪と死の泥沼のように人間の心も、聖なる神様の目的を収める器へと変えられるのです。」

神様に愛されている皆さん、日々、罪の奴隷となることなく、聖なる器として、ご聖霊の実を結ばせて頂ける歩みを求めて行きませんか。真理なるイエス様と、その真理の言葉に、日々、ご聖霊によって預かり、神様と人への愛の実を結んでゆきませんか。

お祈り致します。



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