2022.7.24 ヨハネによる福音書 8 章 48~59 節「主イエス様は永遠なる神様」
- CPC K
- 2022年8月3日
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起
2000 年前に、神であるお方が、人となって地上に来られました。この時、ユダヤ人の指
導者たちは、イエス様のことを、汚れたサマリア人であるとか、悪霊に取りつかれていると言ったり、冒涜罪で石を投げつけて殺そうとしたりしていました。
私自身は、初めて教会の礼拝に出て、イエス様のことを聞いたのは、17 歳の時でした。そして三日後の中高生クリスマス伝道集会に出席して、その集会後に、イエス様を信じて、初めてイエス様の御名によって祈りました。この時、神の言葉である聖書の御言葉に対して、抵抗することがまったく、信じることが出来たことは、奇跡であり、ご聖霊なる神様の助けと導き以外の何ものでもないでしょう。
主の憐れみと助けがなければ、私もユダヤ人指導者たちのように、イエス様に石を投げる者となっていたでしょう。まさに今あるは、神様の恵みです。
承
初代教会最初の殉教者であったのはステパノでしたが、このステパノが迫害されて石打の刑で殺される時に、これに賛成していたのがサウロ、後の使徒パウロでした。過去の出来事に対して、自分が赦され、使徒とされたのは、ただ、神様の恵みの他ないと告白しています。コリントの信徒への手紙一 15 章 8~10 節「そして最後に、月足らずで生まれたようなわ
たしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」
転
それでは今日の御言葉をもう一度 8 章 48 節 49 節「ユダヤ人たちが、『あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか』と言い返すと、イエスはお答えになった。『わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。』」
ユダヤ人たちが、イエス様のことをサマリア人と罵りました。当時、サマリア人とは、どういう人だとユダヤ人は見ていたでしょうか。北イスラエルが、不信仰を重ねてBC722 年に、アッシリア帝国によって滅ぼされたことがありました。その後アッシリアやカナンから来た異邦人たちが、残っているユダヤ人と結婚して、生まれた子孫が、首都サマリア周辺に暮らしていました。
彼らは、自分たちの神殿を建て、独自の祭司を選び、律法を独自に解釈していました。イエス様の時代、ユダヤ人たちは、サマリア人は汚れた民族であり、イスラエルの神に忠実ではなく、敵と考えていました。イエス様が、ユダヤ人として生まれたのに、ユダヤ人たちは、イエス様は、汚れたサマリア人だと言って、イエス様を非難しました。
加えて、悪霊に取りつかれているとも言っていました。イエス様がなさっていた数々の奇跡や不思議は否定できないので、悪霊の業とするしかなかったということでしょう。すなわち悪霊の権力下にあるので、奇跡を行うとしか彼らは、イエス様を糾弾出来なかったのです。ユダヤ人たちは、イエス様を重んじませんでした。重んじないと訳された原文の言葉は「正
当な価値を認めない」「はずかしめる」「面目をうしなわせる」「あなどる」「侮辱する」「軽蔑する」という意味でもあります。
続いて 50 節 51 節「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
イエス様の言葉を信じて守るなら、その人は決してしなないと言われたのは、肉体の死のことではなく、霊的な死のことです。しかしイエス様は肉体的な死にさえ、やがて復活によって打ち勝つことになります。そして、主イエス様は、ご自身を信じる者は、永遠の死を免れ、地獄の苦悶にあることが決してないということも言われているでしょう。
52 節 53 節「ユダヤ人たちは言った。『あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、【わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない】と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。』」
アブラハムは、偉大な先祖であり、信仰の父です。しかしアブラハムは、誰をも霊的な死から救ったことはないどころか、自分自身でさえ、霊的な死から、自分では救い出すことが出来ませんでした。このことは、預言者も同様です。
54 節 55 節「イエスはお答えになった。『わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、【我々の神だ】と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。』」
神の御子イエス様が、人間として生まれながら、真の神であるのは、初めから父なる神様と共に、存在しておられるからです。ですから、父なる神様を知っておられます。そして、その言葉を守って、十字架にかかり、復活を通して、父なる神様が、栄光をイエス様において表されます。
56 節「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
アブラハムは、父なる神様の約束が、どのように成就されるかを見ようとしていたイエス様は言われました。そして主イエス様は、御自身こそが、アブラハムが、待望していたメシア・救い主であると言われます。アブラハムの信仰は、メシア・キリストの到来を土台としていました。
アブラハムが、モリアの山で、全焼のいけいえとして、自分のイサクを捧げよと言われたとき、神様が死者をよみがえらせるのではないかと思ったとあります。
ヘブライ人への手紙 11 章 17~19 節「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。
アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」
このことから、メシア・救い主の死と復活を、信仰によって理解したのではないかと言われています。そして、メシア・救い主によって、永遠の天の都に、永遠の命を頂いて、入れていただける日を、楽しみにして、信仰によって見て、喜びました。
ヘブライ人への手紙 11 章 13 節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」
続いて 57 節 58 節「ユダヤ人たちが、『あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、【わたしはある。】』」
主イエス様は、天地万物が造られる前から、すなわち永遠の昔から、父なる神様と共におられました。主イエス様は、アブラハムが生まれる前からおられる、永遠の神様です。
これを聞くとユダヤ人は、イエス様がご自身を神だと言われたので、冒涜罪として石を投げようとします。59 節「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」
神様の時がまだ来ていないので、イエス様は、身を隠して、神殿の境内から出て行かれました。しかしユダヤ人たちは、皮肉にも、神の御子イエス様に石を投げようとして、これによって、彼らこそ、御子を遣わされた父なる神様を冒涜する者となってしまいました。
結
イエス様は、世の始まる前から、すなわち天地万物が創造れる前から、存在しておられる永遠のロゴスです。私たちは、真の人生の目的は何かを問うものです。別の表現では、最上の善は何かと問うものです。そしてその全ての答えは、4500 年前のアブラハムが生まれる前から、「わたしはある」という創造者なるイエス様によってのみ、その答えを得ることが出来ます。
そしてアブラハムに与えられた、全世界の祝福の基となる使命は、メシア・救い主なるイエス様によって実現してゆきます。アブラハムの子孫であるイエス様は、御自身の十字架の死と復活、そして救いを提供することによって、すべての人々を祝福されます。
私たちも、主イエス様の救いと祝福を頂いて、祝福の基、復活の証人、そしてキリストの平和の使者として、御聖霊の力を頂いて、歩んでいきませんか。お祈り致します。

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