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2022.7.24NGW_エフェソの信徒への手紙 2 章 8 節

『救いは神様の恵みによる』

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」


牧師 松矢龍造


どんな人が、神様によって救われるのでしょうか。人に親切にした人。罪をまったく犯さない人。良く勉強をする人。人々を助けた人。日曜日に教会の礼拝に出ている人。祈っている人。献金をしている人。自分の財産を困っている人に与えた人。どれも大切なことですが、それで、神様から救われて、罪が赦され、永遠の命が与えられ、死んだ後も天国に行けると、神様は言われているでしょうか。 ある人生の最後の場面で、恐がっている人がいました。その人は、病の苦しみだけでなく、自分が過去に犯した罪が思い出されて、罪責感に苦しんでいました。また死んだら地獄に行くのではないかと恐れていました。 自分が、今まで行ってきたことで、誰が、私は罪赦されて、永遠の命が与えられ、天国に行くことが出来ると、言えるでしょうか。この方は、イエス様を、この後、信じて、罪が赦された平安と、天国の希望を持って、天に召されてゆきました。 あの人と比べて、私は正しい。あるいは、別の人と比べて、私は正しくない。そんな人と比べて、確信をもって、私は神様から救いを頂くことが出来ると言える人は、本当は誰もいません。もし言う人がいれば、そう思い込みたいだけで、何の根拠も、理由もありません。 今まで、人に何かをしなさい。これはしてはなりません。そう言ってきたと思います。親は子に、夫婦は互いに、そして友達や知人や隣人に対して、「これはしてはいけない。これはこうすべきです。」でも語ってきた自分自身は、完全にそのことを行って来たでしょうか。正直に、自分の心に問えば、完全に出来ている人は、誰もいません。 神様は聖書を通して、神様の御前に、完全な「義人はいない。正しい人はだれもいない」と言っています。そして罪を犯したなら、その報酬は死であると言っています。行いや努力や、人間的な立派さでは、誰も神様からの救いを得られる人は、誰もいません。 それでは、誰が救われるのでしょうか。今日の御言葉には「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」次の聖句でも加えると「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」とあります。

初代教会では、ユダヤ人でクリスチャンになった人が、モーセの律法の中で、特に割礼を受けないと、救われないと言う人たちがいました。割礼とは、男子の性器の先の包皮を切り取ることです。ユダヤ教では、ユダヤ人でない人が、ユダヤ教徒となる為には、割礼を受けてユダヤ人とならなければならないと言っていました。 では、イエス様を信じてクリスチャンになる為には、割礼を受けなければならないのでしょうか。ユダヤ人でクリスチャンになったユダヤ主義キリスト者が、ユダヤ人でない異邦人たちに、強制してきました。 すると異邦人が沢山いますアンティオケヤ教会にいたパウロさんとバルナバさんは、それは聖書が告げている救いではないと主張しました。すなわち外見上の割礼というしるしは、神様の民となる為には、必要がないと主張しました。 それで、パウロさんとバルナバさんたちは、エルサレムにいる使徒たちや教会の長老たちと相談して、会議をする為に、ピシディアのアンティオキから、エルサレムに上って行きました。とても大切な会議です。キリスト教が、ユダヤ教の単なる一派となるのか。それとも、全世界的な宗教になるのか、分かれ目となる、分岐点となる、重要なエレサレム会議です。 この会議で、使徒ペトロさんが言いました。神様は私達を、ユダヤ人でない異邦人の百人隊長であるコルネリオさんの所に遣わされました。この異邦人に、イエス様の福音を語ると、家族全員が信じて、洗礼を受けました。そして異邦人にも、割礼を受けなくても、御聖霊が与えられましたと証言しました。 またバルナバとパウロさんたちも、異邦人が沢山いるアンティオケア教会での出来事を証言しました。神様が、自分たちを通して、異邦人の人々が割礼を受けていなくても、不思議な業や、奇跡の業を行ってくださいました。 そしてエルサレム教会で、指導者であったイエス様の兄弟であるヤコブさんが発言しました。イエス様の兄弟であったヤコブさんは、イエス様と暮らしている時は、イエス様が神の御子・救い主と信じていませんでした。 しかしイエス様が十字架にかけられ、死にて墓に葬られ、三日後に復活されて、天に昇られ、御聖霊が降ると、兄であったイエス様が、神の御子・救い主であることが、信じられるようになりました。そして、洗礼を受けて、成長してから、エルサレム教会の指導者の一人となっていました。 このヤコブさんが、最後に会議をまとめました。「皆さん、色々な意見がありますが、神様の御言葉である聖書は、どういっているでしょうか。旧約聖書のアモス書で、神様が言われています。『わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。』 神様が聖書を通して言われているのに、神様に立ち返る異邦人を悩ませはなりません。ユダヤ人の中で一緒に暮らしている異邦人クリスチャンであっても、割礼を受けなくてもよいです。けれど、偶像に供えて汚れている肉を食べたり、みだらな行いをしたりせず、また絞め殺した動物の肉と血を避けて、ユダヤ人クリスチャンを、つまずかせないように、愛の配慮をしてください。」

そしてこのことは、アンティオキア教会に、伝えられました。ただ救いは恵みにより、キリストを信じることによってよみ与えられます。行いではありません。神様からの賜物です。そして救われた後には、愛の配慮をしてください。

救いは恵みによりますが、救われた後には、神様から備えられた、良い行いをしてゆくことが続きます。エフェソの信徒への手紙 2 章 10 節「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」

私たちが、神様から救われるのは、行いや、しきたりを守ることではなく、神様からの恵みと賜物と信仰によります。あめがままで、そのままで救われます。ただし、救われたなら、隣人に対して、つまずかせないように、愛の配慮は必要です。

16 世紀に、人の罪が赦される為には、イエス様を信じるだけでは足りません。免罪符というお札を買ってくださいと、偽りの教えが教会になされた時がありました。

これに対して、マルチン・ルターさんや、ジャン・カルヴオンさんたちは、人が救われるのは、恵みのみ、信仰のみ、キリストのみです。そして救われたなら、愛によって働く信仰によって、救われた人としての歩として、愛の業をしてゆきましょうと、宗教改革をなして、プロテスタント教会が誕生して行きました。

あなたも、恵みによって、イエス様を信じて、神様から救いを頂きませんか。そしてキリストの福音によって救われたなら、恵みの人、憐れみの器となって、イエス様の愛を分かつ人々に、あなたもなってゆきませんか。

お祈り致します。


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