2022.7.3 ヨハネによる福音書 8 章 21~30 節「罪赦されて天の御国に行ける人」
- CPC K
- 2022年7月9日
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牧師 松矢龍造
起
スイスの宗教改革者にツヴィングリと言う方がおられました。この方が「心を低くすとき、信
仰が回復する」という真理を、山羊を通して悟りました。ある日、彼がスイスの山の上を歩いていたとき、狭い山道で二匹の山羊を見ました。一匹は、その狭い山道を上に上がろうとし、もう一匹の山羊は、下に下りようとしていました。
ところが、そこには二匹の山羊がすれ違うことができないほど狭い道でした。二匹の山羊は、今にも争いそうな様子でしたが、驚くべきことが起こりました。上って行こうとしていた山羊 が、その場に、しゃがみ込んだのです。すると、上から下ろうとしていた山羊が、座り込んだ山羊の体を踏んで、先に下って行き、それからもう一匹の山羊が立ち上がって上って行きました。
ツヴィングリは、その姿を見て、神様と人との前で、先にひざまずく人が、恵みによって高く上げられるということを悟ったと言われています。心を低くするところで、天の声を聞くことが出来ます。神様の御前で、悔い改める人、自分の限界と罪を認めてひざまずく人、神様の御心と恵みを求める人が、神様の救いを頂き、御心にかなった歩みをなすことができます。
承
今日の御言葉には三度「自分の罪のうちに死ぬ」と言われています。21 節と 24 節に二度です。原文では「自分の罪のうちに死にかけている」「自分の罪の中で死のうとしている」「自分の罪の中で瀕死の状態である」とも訳せます。神様の御前で、自分の限界と罪を認めてひざまずかない人、悔い改めない人、神様の恵みと救いを求めない人。これらの人々は、自分の罪の中で死にかけ、死のうとして、瀕死の状態の人々です。
イエス様は、上から来られた方ですが、へりくだって、私たちの罪をその身に負われました。このイエス様の御前で、自分を低くしない、自分の方が上だと思っていたファリサイ派の人々 は、まさに死にかけている人々でした。私たちはどうでしょうか。
新約聖書フィリピの信徒への手紙 2 章 6~11 節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
転
それでは 21 節をもう一度「そこで、イエスはまた言われた。『わたしは去って行く。あなたたちは、わたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。』」
イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって十字架に付けられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に復活され、天に昇られます。すると人々が、地上でイエス様を捜しても、イエス様は天の御国におられるので、見ることはできません。そして自分の罪の中で死ぬ者は、天の御国に来ることはできず、地獄に行きます。
22 節 23 節「ユダヤ人たちが、『【わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない】と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか』と話していると、イエスは彼らに言われた。『あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。』」
イエス様は、このヨハネの福音書の冒頭では、「ロゴス」と表現されていました。ギリシア語の「ロコズ」は、日本語では「言」と訳されています。ロゴスとは、全宇宙を創造され統治されているお方。また父なる神様と、真の人間の姿を伝えられるお方。そして神様の御心を伝えるお方のことです。ですから、イエス様は上なる天に属していて、人間は、地上の下のものに属しています。
24 節「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
イエス様は「わたしはある」・ギリシア語で「エゴー・エイミー」と言われました。旧約聖書では、「わたしはある」と言われたのは、創造主なる神様でした。出エジプト記 3 章 14 節「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。【わたしはある】という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」
「わたしはある」それは真の実在者、永遠の実在者であるということです。また父なる神様と等しいお方と言うことです。そして万物の創造者であり、全知全能の永遠者ということです。
この「わたしはある」と言われる神の御子にして創造者を信じないなら、私たちは誰でも、自分の罪のうちに死ぬことになります。
永遠に罪を持ったままなら、神なく、キリストなく、望みなく、死ぬということです。それは何と恐るべきことでしょうか。イエス様抜きにしては、罪の赦しを得る方法は、他にまったくありません。
25 節~27 節「彼らが、『あなたは、いったい、どなたですか』と言うと、イエスは言われた。
『それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。』彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。」
イエス様は、父なる神様から聞いたことを、世に向かって話しているロゴスです。しかしファリサ派をはじめ、心高ぶる人は、イエス様を信じようとしないのです。初めから話しても、受け取ろうとしないのです。ルター派の神学者であるメランヒトンは言いました。「キリストの福音を、なおざりにするくらい、恐ろしき罪と罰を、人にもたらすものはない。」
28 節「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、【わたしはある】ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。』」
イエス様は、ここでまたしても、未来を完璧に、ご存知であることを示されています。イエス様は、御自身が、十字架につけられ、復活し、天に昇られた時、彼らはイエス様が神様であることが分かるだろうと言われています。イエス様の真のメシア性・救い主であることは、十字架と復活と昇天を通してのみ、正しく理解され得る事柄です。
そして、イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって十字架につけられた時と、死から私たちの為に復活された時の、両方を通して、十全な栄光を受けられます。
29 節 30 節「『わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。』これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」
父なる神様は、御心を行う者と、共にいてくださいます。主イエス様は、父なる神様に栄光を帰することに熱中しておられました。父なる神様をあがめ、この父を喜ばせ、この神様の御心を行い、この神様の愛に生きることが、イエス様の生涯の熱望でした。そして私たちも同じ歩みこそ、人間の本分です。コヘレトの言葉 12 章 13 節「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」
しかし父なる神様に喜ばれることを行いたいと、完全に生涯、心が占有されている人は、イエス様以外にはいないのではないでしょうか。ですから、誰もが、父なる神様と御子イエス様の御前で、心を低くする必要があります。
結
人は、そのままでは、時間と感覚でとらえられる現実以上のことが分かりません。御言葉と、ご聖霊なる神様の助けがあって、はじめて悟る者とされます。そして私たち人間は、イエス様を信じて真の命を持つか、罪の中で死んで行くか。この二つのうち、どちらか一つを選ぶように迫られます。
「わたしはある」と言われるイエス様を、神の御子・救い主と信じない者は、神が与えられる赦しと救いに預かれません。イスラエルは、かつてエジプト、アッシリア、バビロン、ペルシ ャ、ギリシア、ローマに隷属して来た歴史があります。しかしイスラエル人だけでなく、全ての人類は、そのままでは、自分の罪のうちに死ぬ者、すなわち霊的には、罪と死とサタンに隷属しています。
ユダヤ人たちは、信心深いふりをしていましたが、実態は、不正直、不敬虔で、殺人すら行おうとしていました。この状態から、救い出されるのは、心を低くして、救い主なるイエス様を信じて、永遠の命を受けることだけです。そうするならば、人は罪の奴隷という状態、律法主義の状態、迷信の状態、悪魔崇拝の状態、死と滅びの状態から解放されます。
イエス様こそ、神の御子と信じることが、罪からの解放と、永遠の命と、真の人生をもたらします。あなたは、表面的な信仰ではなく、生活を通して、表れる深みの信仰に向かって行きませんか。
最後に、6月 17 日に、日本中会の教職者であった生島睦伸牧師の葬儀礼拝が行われました。
93 歳になるまで、主と人々の御前で、心を低くして、福音宣教の御業に大きく用いられた牧師でした。私は、40 年以上も前に、最初の神学校で、生島先生の牧会に関する講義を聞きました。その後、高座教会で二年間、生島先生ご夫妻のもとで、研修する機会が与えられました。
コリントの信徒への手紙二 4 章 7 節に「土の器」というキリスト者の姿を使徒パウロが記しています。この「土の器」として、へりくだって、キリストと福音という宝を輝かした牧師を、他に見たことがあるだろうかと思いました。そして神学校でも、高座教会でも、この「土の器」という奨励題で、当時、お話したこと思い出します。
主と人々の御前で、欠けだらけの土の器である。しかしこの土の器に、宝なるキリストが入って下さったら、その土の器の欠けたところから、キリストの福音の光が、世の人々に届けられ る。その生きた証人でした。その出会いを感謝し、葬儀礼拝で、主の御名を崇めました。そし て、ご聖霊様によって、私も「土の器に宝を入れて頂いた者」として歩みをなさせて下さいと祈りました。皆さんも、この祈りを共にしてゆきませんか。お祈り致します。

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