top of page
  • 執筆者の写真CPC K

2022.7.31ヨハネによる福音書 9 章 1~12 節「神の業がこの人に現れるためである」

牧師 松矢龍造


皆さんは、災難が起きた時、その原因は何であろうかと問われるのではないでしょうか。多くの災難が、罪の報いとして、人に落ちて来るというのは、一面の事実です。さりとて、全ての災難が、皆、残らず、その人か、またはその親かの罪の報いとして、襲い来るように考えるのは、大いなる間違いです。

旧約聖書の義人と言われたヨブにも、大いなる災難が訪れました。また新約時代の使徒パウロは、肉体の棘が生涯あり、悩みが許されました。さらにクリスチャン作家であった三浦綾子さんは、病のデパートと、ご自身が言われるほどに、生涯病との闘いがありました。

さして三重苦で知られるヘレン・ケラーが遺された言葉の一つに「わたしは絶望のどん底に陥り、くらやみが全てを覆える時代があったが、愛が来りて、私のたましいを自由にしたと」と言われています。

ムーン式の凹凸点字を開発したのは、少年時代に失明したムーンという方でした。後の盲人の大恩人となったムーン氏は、次のように言われています。「わたしが、少年の時に失明したことは、災難ではなく、神様の恵みでした。神様は、わたしの目が見えないことを元手として、その御栄を現わされました。」

旧約時代、メシアが来られたしるしの一つは、盲人の目を開かせる奇跡を行われるとありま す。イザヤ書 35 章4節 5 節「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。」

今日の御言葉には、生まれつき盲人であった人を癒されたイエス様のことが記されています。それは、イエス様が、神の御子であり救い主・メシアであることの、もう一つの印でした。そしてこの生まれつき目が見ないことは、物理的に目が見えないことを通して、霊的に盲目である、私たちの人類の、生まれながらの姿を象徴するものでもあります。

イエス様一行が、神殿の境内から出て行かれると、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。この当時、盲目の人は、本人や両親の罪の為に、神に罰せられたと信じられていました。

2節「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』」ここで、弟子たちは、先ず、この生まれつき目が見えない人の癒しを、どうしてイエス様に求めなかったのでしょうか。

憐れみの心よりも、好奇心の方が先だってしまう。人間の弱さと罪の姿があります。先ず癒しを求めない、弟子たちの心の危険は、私たちにも、常に付きまとっているのではないでしょう か。目の前に入る人の痛みよりも、神学的議論にのめり込んでしまう危険が、ファリサイの派の人々の中にもあることが、後に記されています。

するとイエス様は、この生まれつき目が見えない原因よりも、このことの目的について語られました。3節「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」

生まれつき目が見えないことには、神様の深い思し召しがあり、神様の深い御旨があるということです。ある親子の例ですが、生まれつきハンデッキャップがあるのは、親が悪いと言われ続けて来ました。しかしクリスチャンの精神科医の人と出会って、このヨハネによる福音書の 9 章3 節から、「本人が罪を犯したのでもなく、両親が罪を犯したからでもない。神の業が、この人に現れる為である」と言われ、本当に救われる思いでしたと言われていました。

4節5節「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」

だれも働くことが出来ない夜とは、どんな夜のことなのでしょうか。夜は、暗黒の場所のことで、理解が及ばないことの象徴です。イエス様は、この夜のことに関して、後のご自身に対する不正な裁判の時と共に、御自身の死を暗示していると見られます。

しかし同時に、この夜に対して、御自身こそ「世の光である」と言われています。イエス様 が、この地上におられる間は、世の光であり、私達人間の霊と心と肉体の目を見えさせることが出来るお方であると示されたのです。

私たちも、生まれながら誰でも、原罪をもって生まれて来ていますから、霊的に盲目な者で す。罪と死、悪魔と虚無という闇の中にあり、自分の生まれながらの肉の力では、この闇を光の世界に変えることは誰にもできません。イエス様こそ、唯一、生まれつき暗闇の中にある私たちの世の光です。

6節「こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」唾液の効用は古来より知られていました。ですから、唾液は当時の治療の一つの形でした。そして地面の土を用いられたことから、初代教会の人々は、創世記 2 章 7 節にあります、初めての人間であるアダムが、創造主なる神様によって造られる際に、土地の塵で造られたことを意識したと言われます。イエス様は、初めての人の体を形造るのに用いられた材料である土を意識しておられたのではないでしょうか。体全体を造られた創造者なるイエス様は、土を用いて、見える目に造り変える奇跡を起こされたのでしょう。

7節「そして、『シロアム【遣わされた者】という意味の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」

イスラエルに研修に行かせて頂いた時、神殿からシロアムの池には、バスで移動しました。その際に、目が不自由な人が、神殿の近くの場所から、シロアムの池に行く為には、相当の冒険を覚悟して移動しなければならないと強く思わされました。歩いて行くにも近くない距離です。長く歩くなかで、本当に歩いてシロアムの池に行っても、本当に目が見えるようになるのだろう か。疑いと希望の間を、心の中でいったり来たりして、一歩一歩歩いて行ったのではないでしょうか。

シロアムの池とは、旧約時代のBC6世紀頃の、ヒゼキア王の時代に、エルサレムの城壁の内部に作られた貯水池です。エルサレム神殿の南の谷にありました。現在は発掘されていて、その一端を見ることか出来ます。研修旅行に行った際に、このシロアムの池に降りて、このヨハネによる福音書の記事から、牧師の一人が説教をしてくださいました。

初代教会の人々は、この記事を通して、旧約聖書にあります預言者エリシャが、重い皮膚病であったナアマン将軍に、ヨルダン川で身を洗いに行くように言われた出来事を連想したと言われます。生まれながらの盲人である男性が癒されたと同様に、ナアマン将軍も癒されました。そして、イエス様は、今でも、盲人や、その他、全ての不具や病人の友でいてくださいます。

シロアムという池の意味は「遣わされた者」ということです。まさに遣わされた者とは、キリストのことです。あらゆる夜と暗黒を抱えた私たちの人間の為に、世の光として、遣わされた方が、イエス・キリストです。

8~12 節「近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、『これは、座って物乞いをしていた人ではないか』と言った。『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。

そこで人々が、『では、お前の目はどのようにして開いたのか』と言うと、彼は答えた。『イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、【シロアムに行って洗いなさい】と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。』人々が『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません』と言った。

イエス様は、この盲人に対して、「言って洗う」ということを通して、彼に信仰を求められました。そしてこの盲人は、信仰によって、最後までシロアムの池への道を行き、シロアムの池の水で、目を洗うことを通して、目が見えるようになりました。

ここで、イエス様に対する四つの反応が見られます。一つは、近所の人々たちは、驚きましたが、疑いを見せました。二つ目の人々は、ファリサイ派の人々であり、不信と偏見を示しまし た。そして三つ目の人々は、盲人の両親であり、信じましたが、破門を恐れて、黙っていまし た。そして四つ目の人は、癒された人であり、成長する信仰の姿を見せました。私たちは、この四つの反応の人々のどれにあたるでしょうか。

イエス様は、この生まれつき目が見えない人の癒しの為に、泥を用いられました。それは土の器なる私たちを用いて、主の御業をなされることの象徴でもあります。そして水による癒しときよめは、ご聖霊による霊的な癒しと聖別の象徴でもあります。

神様は、今でも、イエス様の言葉を信じて、従う人たちを求めておられます。イエス様の言葉を信じて従う時に、癒しの業が起こります。そして土の器なるキリスト者を用いて、救いの業 を、ご聖霊によって進めて行かれるお方です。

神様に愛されている皆さん、あなたも、イエス様の言葉を信じて、霊的な癒しと救いの業に、預かりませんか。またイエス様による救い御業の為に用いられる土の器になってゆきませんか。

お祈り致します。


閲覧数:1回0件のコメント
bottom of page