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2022.8.14ヨハネによる福音書 9 章 13~23 節「霊の目を開けてくださるお方」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年8月19日
  • 読了時間: 9分

松矢 龍造 牧師


かつて日本銀行の 5 千円札の肖像とされ、東京女子大学の初代学長となった、新渡戸稲造という方がおられました。この新渡戸稲造氏が米国で留学中、ある学生が彼にむかって「ぼくはキリスト教を捨てた。もはやキリスト教など信じない」と言いました。

キリスト教徒であった新渡戸氏は、その学生に対して、「それは君が、何かキリスト教を信じていられないような、行いをしたからではないか。」静かに、この学生に問いただすと、彼は隠しかねて、「実はこれこれで」と言って、その非行を懺悔したというのです。

ヨハネによる福音書 3 章 20 節に「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」とありましたが、その通りでした。それは霊的に目が不自由な人、その者のあり方です。


前回、生まれつきの盲人を、主イエス様が癒されたことを受け留めました。その際に生まれつき目が見えないことは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が、この人に現れるためである」と言われて、目を見えるようにされたことの続きです。

人々は、前に盲人であったこの人を、ファリサイ派の人々の所へ連れてゆきました。ファリサイ派の人々とは、モーセの律法の中で、特に安息日や断食、さらに施しを行うことや、宗教的な清めを強調する人たちのことです。

イエス様が、土をこねて目を開けられたのは、安息日のことでした。ユダヤ教の安息日は、金曜日の日没から始まり、土曜日の日没に終わります。以前イスラエルに研修旅行に行った際に、ホテルでも入り口に、金曜日の日没から土曜日の日没まで、蝋燭の火が灯されていました。

ツアーガイドの方が、特別にそのホテルにおられたユダヤ教徒にお願いして、私たちが、金曜日の夕飯を食べる前に、ユダヤ教徒がしている祈りを捧げてくださいました。とても厳かな祈りでした。今でも、安息日を大切にされていることが良く分かりました。


律法では、ユダヤ人やユダヤ人の奴隷が、安息日に働くことが禁じられていました。出エジプト記 20 章 8~11 節「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。

あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

出エジプト版のモーセの十戒では、安息日において、仕事を休んで、天と地を造られた創造主なる神様に礼拝を捧げることを命じていました。それが人間の本分であり、創造主の創造のリズムに従って、祝福と聖別を得る幸福論の一つでした。

一方、申命記版のモーセの十戒では、5 章 12~15 節「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。

あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。

あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」とあります。

出エジプト版が、安息日において、仕事を休んで、創造主なる神様に礼拝を捧げることを命じたのに対して、申命記版では、エジプトで奴隷であったのに、解放して下さった、救い主を覚えて、礼拝を捧げよと加えられています。

いわば、安息日において、創造主にして、救い主なる神様に礼拝を捧げることは、ユダヤ教徒もキリスト教徒も同じです。ただし、キリスト教徒は、安息日を、土曜日ではなく、創造者であり、救い主であるキリストが復活された日曜日としていことが違います。

15 節「そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。『あの方が、わたしの目に、こねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。』

父なる神様が、安息日には仕事を休んで、礼拝を捧げよと言われた際に、神様が決して、憐れみや、思いやりの行為まで禁ずるために、安息日を定めたわけではありません。ですから、イエス様が、安息日において、生まれつき目が不自由な人を癒されたことは、むしろ安息日におい て、神様の祝福と聖別を頂く日として、ふさわしいと言えます。

にもかかわらず、律法の表面的なことだけを理由に、ファリサイ派の一部の人々は、盲人を癒した時、イエス様は、安息日規定に違反したと非難したのです。

16 節「ファリサイ派の人々の中には、『その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない』と言う者もいれば、『どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか』と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。

「意見が分かれた」と訳された原文の言葉は、「意見が真っ二つに分かれた」という意味や「分裂」という意味でもあります。ですから、単に分かれたというより、非常に大きな裂け目となったということです。なぜなら、一方のファリサ派の一部の人々は、偏見や無知や嫉妬で、イエス様を拒否する人たちです。そしてもう一方の人々は、旧約時代から、盲人を見えるようにする人がいたら、その人がメシア・救い主と書いてあるとして、罪ある人間が出来るはずはないと言う人たちです。

17 節「そこで、人々は盲人であった人に再び言った。『目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。』彼は『あの方は預言者です』と言った。」

ここで目を開けて頂いた人が「あの方は預言者です」と言った意味は、どういうことでしょうか。旧約時代、預言者エリヤやエリシャは、主にあって奇跡を行ったので、イエス様の奇跡を見聞きした人々は、旧約の成就を連想していたでしょう。そしてこれらの預言者は、時として、将来についての幻を見て語ったり、あるいは身の周りに起こる出来事を観察して、神様の啓示の言葉を伝えたりしました。

ですから、目が開かれた人は、霊的な目も開かれてゆき、奇跡をなしたイエス様が、旧約聖書の著名な預言者の再来のような人ではないか、という意味で、「あの方は預言者です」と言ったのではないでしょうか。

18 節の前半「それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。」ファリサイ派の一部の人は、霊的な目が開きかけましたが、他のはじめから霊的に盲目なファリサイ派の一部の人と同様に、霊的な目が閉じてしまいました。

18 節後半から 23 節「ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。『この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。』

両親は答えて言った。『これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。』

両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、『もう大人ですから、本人にお聞きください』と言ったのは、そのためである。」

この時、ユダヤ人指導者たちは、イエス様を信じるようになった者を、ユダヤ人共同体や会堂から追放すると脅していました。ですから、目が癒された人の両親は、イエス様について公言することを恐れて、息子に聴いてくださいと返答を避けたのです。

このヨハネによる福音書を最初に受け留めた読者は、ローマ帝国から迫害されていた初代教会の人々でした。これらのプレッシャーは、まさにユダヤ人指導者たちが、脅していた状況が、ローマ帝国からの迫害となったという点は違いますが、初代教会の人々に、かかっていました。その中で、イエス様を、神の御子キリストと告白する信仰を求めているものです。

今日の御言葉に登場する四者は、まさにイエス様が、言われた四つの心の土壌に蒔かれた神の種のたとえに当てはまります。ファリサイ派の一部の人は、証拠よりも妬みにかられて、イエス様が語られた言葉が、悪魔によって取り去られ、何も心に入ってきません。

二つ目は、ファリサイ派の一部の人は、「どうして罪のある人間が、こんなしるしや奇跡を行うことができるだろうか」と心を一時開き始めました。しかし岩地のように根がないので、すぐに枯れてしまいました。

三つ目の人は、目が開かれた両親のように、信仰の目が出始めましたが、いばらに塞がれて成長しないように、ユダヤ当局から脅されると、口をつぐんで、それ以上に、信仰が成長しませんでした。

四つ目の良く耕された土壌のような心は、イエス様から目を開けて頂いた人のように、脅されても、はっきりとイエス様について証言してゆきました。私たちの心は、この四人目の心のようでしょうか。


ある方がこんなことを言われていました。「あなたは、しばしば、大僧正、監督、長老の間においてよりも、かえって仕立屋、靴屋の間に、堅実にして、敬虔で信心深い信仰を見出すであろう。」まさに律法の専門家の多いファリサイ派の人々よりも、いっかいの目が不自由な人の方が、最も霊的な目が、主によって開かれていることを見い出します。

偏見や無知ではなく、確信と敬虔にいたるには、主イエス様の御前に、素直に自分の罪を認めて告白し、御言葉とご聖霊にすがって、霊的な目を開いて頂くことが、誰もが必要です。

私も、生まれながらに、霊的に盲目な人の一人でした。それが主の憐れみと恵みに預かり、キリスト者とされ、牧師とされていることは、神様の御恩寵の他、何物でもありません。

日本の国は、8月は特に戦争と平和を覚えて、平和を祈り求める大切な時です。明日は終戦記念日です。ロシアのウクライナ侵攻が続いています。その陰で、ミャンマーやアフガニスタンでは、国民への弾圧が続いています。そして日本の政治家が、異端でありトラブルを起こし続けている団体との癒着が明るみに出ています。

真実に、神様と人との平和は、神の御子キリストからのみきます。主の平和が、私たち自身 に、また隣人の中に、霊的な目が開かれて、浸透してゆくことになりますように。ご聖霊の力を求め、あなたも、置かれた場所で、祈りと愛と証しに生かされ、生きてゆきませんか。

お祈りいたします。


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