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2022.8.17コロサイの信徒への手紙 3 章 20 節~4 章 1 節

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年8月19日
  • 読了時間: 10分

松矢 龍造 牧師


前半 3 章 20~21 節「主を信じる子どもと親」

一般的なキリスト者の家族は、主を信じる者にふさわしく歩むなら、次の 8 つのことを大切に

すると言われます。

一つは、家庭に霊的な祭壇がなければならないということです。すなわち毎日、家族が聖書朗読や祈りの為に集まる時間を持つということです。

二つ目に、父親は、家庭において、主にあって権威ある立場を持つべきであり、主にある知恵と愛をもって、この権威を用います。

三つ目に、妻であり母である者は、神様と家族に対する第一の責任が、家庭にあることを意識しなければなりません。一般的に妻が外の働きに出ることは賢明ではありません。特に子どもが小さい時です。もちろん例外的な場合もあります。

四つ目に、夫と妻は、神様を敬う模範を、子どもに示さなければなりません。これは必要があれば、子どもの躾の為に折檻することについても考えることです。

五つ目に、家族という単位が維持されなければなりません。仕事や社交生活、そしてクリスチャンとして奉仕にさえ熱中し過ぎて、子どもたちが、親の愛情に飢えたり、人との交わりや教育が足りなかったりするために、損害を被る可能性は大いにあります。

六つ目に、子どもの躾に関して三つのルールが提案されてきました。怒りながら罰してはならない。不公平に罰してはならない。必ず理由を説明したうえで罰する。

七つ目に、子どもが「若い時に頸木を負う」ことが必要です。仕事や責任を引き受ける訓練、お金の価値を学ぶことは良いことです。

八つ目に、主に仕えさせることを覚えさせます。私たちの言動は、主によって支配されるべきです。

コロサイの信徒への手紙 3 章 18 節から夫婦、親子、奴隷と主人との関係と三つの関係が取り上げられています。その際に、三つとも弱い立場の方が先に来ています。すなわち、夫婦では、「妻たちよ」。親子では「子どもたちよ」。主人と奴隷たちでは「奴隷たちよ」となっています。先に注目することで、弱さに対する配慮を見ることが出来ます。

20 節「子どもたちよ、どんなことについても、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。」子どもが親に従うのは、親が何か秀でたタラントを持っているからとか、世襲的な階級身分制などの考えに立脚して言われているのではありません。

それは創造主なる神様が、両親に子どもを訓練する責任を委ねられたからです。ですから、両親は、神様の代理人として立つべく、召し出されている者と考えられています。それ故に、親として固有な権威を託されています。すなわち創造主なる神様を恐れ敬うので、「父母を敬いなさい」と命じられています。

「従いなさい」と訳された原文のギリシア語は、「聞き従う」あるいは「聴従する」とも訳せます。神様の教えに基づく親の教えに、聴き、従うのです。

次に 21 節「父親たち、子どもをいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」とあります。他の聖書訳では「父親は、子どもがしょげ返って、やる気をなくすほどに、がみがみ、しかってはなりません」とあります。

「いらだたせる」は、「怒らせる」あるいは「激昂させる」とも訳せます。のべつ間もなく非難するなら、子どもは、いじけてしまいます。他にも、「意欲を失う」「気落ちしてしまう」「やる気をうしなう」とも訳せます。若者の教育的な病は、失望であるといわれます。

父親は、確固とした指導を、子どもに与えますが、隷属させるのではありません。子どもも、親も、行動の動機は、主イエス様を思うことです。あるいは主に喜ばれることです。主に喜ばれることなしに、家族関係の中に服従や従順のみであるなら、結局支配や服従だけで、愛のない関係をもたらすことになります。

ですから主に対する愛に動機づけられた、尊敬と服従とが期待されています。ならば、親の側が絶えず目指すのは、子どもから尊敬されるに値する者として、成長し続けることです。子どもの成長を願い行動することは、親もまた成長し続けることが、主から期待されています。

その面では、親も子も、共に、一人の主イエス・キリストの僕であることをわきまえます。父親も、キリストの愛と知恵なくしては、子どもに対して、正しい態度をとることはできません。

子どもを、いらだたせてはなりませんが、逆に親が、あまりにもだらしなく、安易な生き方をするなら、子どもは、訓練を受けないまま成長し、人生に立ち向かえなくなってしまいます。

励ましと訓練は、両方必要です。喜びなくしては、真の全き服従に至ることは出来ません。かつて宗教改革者の一人マルチン・ルターは、父親が、あまりにも厳しかったので、「神様に対して「われらの父よ」と祈る事がむずかしかったと言われています。むしろこう言います。「鞭を惜しめば子どもを損なう。それは真実である。しかし鞭の側に、良いことをした時に与えるリンゴを用意しておきなさい。」

訓練と共に励ますことの両方が必要です。主と交わり、主なる神様から、力と愛と教えを頂かないと、訓練や鞭ばかりに傾くか、励ましや甘やかしてしまうだけに傾くか、どちらかになってしまいます。

現在の親子関係も、厳しさと、甘やかしさ、どちらかに傾く傾向は同じです。どの時代も、どの場所や文化においても、主に結ばれ、主の御言葉に基づいて、親子関係も確立してゆくことが重要です。そして教会では霊の家族としても同様です。

最後に親の反省を踏まえた祈りを取り上げます。「子どもの母親である妻を、もっと愛する。子どもといっしょにもっと笑いあうものとなりたい。よい聞き手になる。もっと子どもの前で正直でありたい。子どもでなく自分を変えて下さいと祈る。家族といっしょの時間をもっととる。子どもたちに励ましを与えること。小さなことに、もっと気をくばる。親が間違ったら、素直に謝る。子どもの為に祈り続ける。ほめる。愛をもって真剣に向き合う。」


後半 3 章 22 節~4 章 1 節「全ての人間関係は主にあって」

夫婦の関係も、親子の関係も、社会や職場の関係も、全て主にある関係でこそ、最も幸いな関係となります。妻たちに対しては「主を信じる者にふさわしく」とありました。子どもたちには「主に喜ばれること」とありました。そして奴隷たちにも「主を畏れつつ」「主に対してするように」とあります。主にあって生きるのでなければ、幸せな人間関係を築くことが出来ません。

妻と夫の関係、子どもと親の関係、そして奴隷と主人との関係について使徒パウロは展開しています。その中で、最も多くの紙面を割いているのは、奴隷たちに対してです。その理由は、当時の教会にとって、奴隷問題は、深く憂慮すべき問題であったこと。またコロサイ教会と関係のあった逃亡奴隷でありながらクリスチャンとなったオネシモ事件が起こっていた為でもありました。

そしてもう一つも重要な理由です。それは、当時の社会では、最も関心が低いのが奴隷に関してでした。ですから使徒パウロは、社会的に最も低いところにあった人々に対して、最も多くの関心を寄せていることが表されているということです。すなわち使徒パウロは、人間社会から重要視されていない人たちを無視していない。いや最も関心を持っていることを示しています。

22 節「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。」「人にへつらおうとして」と訳された原文のギリシア語では「人のご機嫌取り」という意味でもあります。

22 節を分かりやすいリビングライフ訳では「主人が見ている時だけ、気に入られようと一生懸命に働くのではなく、陰日向なく仕えなさい」となっています。

それは単に人間の視点で、誰かの許で働いているだけでなく、主に対してするように、魂を打ち込んで働くように言われています。いわば平面的で人間中心的な労働ではなく、立体的に、創造主の御前で、救い主を中心に労働するように命じています。

もともと創造主が人類を創造された時から、神様は、私たちに、なすべき働きを与えられています。創世記 2 章 15 節「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」

労働は、主から委ねられたものであり、最終的には、父なる神様に対して、地上での働きをすべて説明する責任があります。もし労働が、地上の人々に対してよりも、主なる神様に対してなされたことを意識することが強いなら、労働は次のようになります。

第一に、もし私たちが、自分の働きを、神様への礼拝や奉仕の行為と見なすことが出来るなら、私たちの態度は、自分の働きから退屈さを、いくらか取り除くでしょう。

第二に、もし私たちが、仕事上の問題を、主の弟子であることに伴う犠牲と見なすなら、不満を言ったり、憤慨したりせずに働くことが出来るでしょう。

第三に、キリスト者が働く理由は、最終的には賃金の為でも、欲望の為でもなく、あるいは地上の主人を満足させる為でもなく、第一にキリストに仕える為に働きます。いわば神様の為に、神の国の為に、あらゆる業はなされるのです。

ですから 23 節「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」とあります。

ここでフィレモンへの手紙でも確認しましたが、コロサイ書の中でも、使徒パウロが、なぜ直ぐに奴隷制度を廃止することをしなかったのか。その理由を確認しておきたいと思います。

一つ目は、使徒パウロは、世の終末が近いという意識を持っていました。ですから社会改革よりも、霊的な開放を優先させたということです。

二つ目に、奴隷解放を急激になすなら、血なまぐさい戦いになってしまうことです。

三つ目に、当時の社会は、奴隷たちは主人に仕えて生活が成り立っていました。たとえ奴隷としての身分から解放されても、就職問題を解決しなければ、真の解決になりません。奴隷でなくなった瞬間、職場や生活の糧を失ってしまうのです。

これらのことから、創造主の御前で、誰もが平等であるという意識改革から、始める必要がありました。

次に 24 節「あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」当時の奴隷は、資産を持つことができませんでした。しかしキリスト者になる時、神の資産を受け継ぐ者とされます。

そして 25 節「不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。」究極的には、神様に対する服従の心でなされるときに、初めて、主の御心にかないます。そして服従には、誠実が求められ、忠実に対しては、天での報い、報酬があります。しかし逆に不義を行うなら、主から不義の報いを受けます。

続いて、前のところで、妻に対して、夫への責任があったように、また子どもに対して親の責任があったように、奴隷に対しても、主人の責任がありました。4 章 1 節「主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」リビングライフ訳では「あなたがたも天に主人がいて、その行動は全部見られていることを、忘れてはなりません」となっています。

旧約聖書でも、主を恐れ敬って、労働者を苛酷に扱ってはならないことが命じられています。レビ記 25 章 43 節「あなたは彼らを過酷に踏みにじってはならない。あなたの神を畏れなさい。」天におられる主は、全ての点で公平で義なるお方です。ならば、地上の主人たちも、天の主なる神様同様に、全ての点で公平で義なることがもとめられます。搾取や偏見などによって、報酬を誤魔化してはならないわけです。主が全てを見て、裁かれるのですから。

誰かのもとで働く者たちも、誰かを雇用している者たちも、皆、最終的に喜ばせたいと思うべき方は、天におられる、あなたがたの天の父です。そのことを忘れてはなりません。たとえ人が見ていなくても、主が全てを見ておられる意識で、忠実と誠実に基づいて働きをなせますように。

さらに人がやりたくない仕事であっても、進んでなす。トイレ掃除や、責任を負う働きなどが考えられます。そして不平を言わず、出来るだけよい仕事をするのは、社会や家庭において、キリストの為の証しとなります。天の父は今でも、全宇宙で働かれ、神の御子が、全てをなげうってくださった御業を覚え、ご聖霊の助けを頂いて、主を恐れ敬い、主に対してなされる働きとなりますように。お祈り致します。

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