2022.8.17ダニエル書 9 章 1~27 節 「荒廃の終わりまで定められた 70 年」
- CPC K
- 2022年8月20日
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牧師 松矢龍造
起
先日、日本で最も大きな教会の先生から、「日本の霊的な復興の為に、必要なことは何ですか」と問われました。私は、先生が分らなければ、私に分かるはずがありませんと前置きをおいて、次のように答えました。
「ご聖霊の油注ぎ、悔い改め、祈り、信仰、神学、人間学、一致、器、神様の時、あとは神様の御心にお委ねする他にありません。」そうしたら「猛暑の中、お元気で、闘ってください」との返信でした。
創造主なる神様は、預言者ダニエルを通して、イスラエルの民の回復は、定められた通り、70 年と悟らせました。このバビロン捕囚からの解放の年は、預言者エレミヤを通して、すでに語られていたことでした。エレミヤ書 25 章 11~13 節「この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。
七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する、と主は言われる。そして、そこをとこしえに荒れ地とする。わたしは、この地についてわたしが語った言葉、エレミヤがこれらすべての国々について預言し、この巻物に記されていることを、すべて実現させる。」
さらに 29 章 10 節「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」
承
預言者ダニエルが悟った年は、ダレイオスの治世第一年のことであるとなっています。バビロン帝国が崩壊して行くことが見えてきた年です。ダレイオスは、メディア出身で、クセルクセスの子です。
9 章2節 3 節「さて、わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように七十年という年数のあることを悟った。わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。」
預言者ダニエルは、エルサレムの荒廃が 70 年で終わると悟るや、罪の告白、とりなし、主に信頼し、悔い改めて、主の御言葉に聴き従うことを告げています。4 節 5 節「主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。」
ダニエルは、先祖イスラエルの罪を、私たちとして、自分を含めて認罪と罪の告白の祈りを捧げました。今日は8月 17 日ですが、先日の8月 15 日に、終戦記念日として、平和の鐘を鳴らして、祈りの時を持ちました。過去に犯した、日本がアジア侵略においてなした行為は、ロシアがウクライナに侵攻したことに似ています。その罪を、私たちの罪として認め、告白することは、後の子孫として、またキリスト者として、ふさわしいことです。
6~15 節「あなたの僕である預言者たちが、御名によってわたしたちの王、指導者、父祖、そして地の民のすべてに語ったのに、それに聞き従いませんでした。主よ、あなたは正しくいます。わたしたちユダの者、エルサレムの住民、すなわち、あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべてが、今日のように恥を被っているのは当然なのです。
主よ、恥を被るのはわたしたちであり、その王、指導者、父祖なのです。あなたに対して罪を犯したのですから。憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。あなたの僕である預言者たちを通して与えられた、律法に従って歩むようにという主なる神の声に聞き従いませんでした。
イスラエルはすべて、あなたの律法を無視し、御声に耳を傾けませんでした。ですから、神の僕モーセの律法に記されている誓いの呪いが、わたしたちの上にふりかかってきたのです。あなたに対して罪を犯したからにほかなりません。わたしたちにも、わたしたちを治めた指導者にも告げられていた主の御言葉は成就し、恐ろしい災難が襲いました。
エルサレムに下された、この災難ほど恐ろしいものは、いまだ天下に起こったことはありませんでした。モーセの律法に記されているこの恐ろしい災難は、紛れもなくわたしたちを襲いました。それでもなお、わたしたちは罪を離れて主なる神の怒りをなだめることをせず、またあなたのまことに目覚めることもできませんでした。
主はその悪を見張っておられ、それをわたしたちの上に下されました。わたしたちの主なる神のなさることはすべて正しく、それに対して、わたしたちは御声に聞き従いませんでした。わたしたちの神である主よ、強い御手をもって民をエジプトから導き出し、今日に至る名声を得られた神よ、わたしたちは罪を犯し、逆らいました。」
創造主なる神様の審判は正しく、主の裁きは、正しいことだと認めて、ダニエルは、憐れみの神様に嘆願の祈りを続けます。先祖の罪は、他の偶像の神々に従い、預言者の警告を無視し続け、主でなく、諸外国と同盟を結んだ不信仰と不従順の罪です。神様が臨在される故に、聖なる山エルサレムと呼ばれていた場所ですら、指導者と民が、背き逆らい、罪を犯し続けて、破壊されました。
16~18 節「主よ、常に変わらぬ恵みの御業をもってあなたの都、聖なる山エルサレムからあなたの怒りと憤りを翻してください。わたしたちの罪と父祖の悪行のために、エルサレムもあなたの民も、近隣の民すべてから嘲られています。
わたしたちの神よ、僕の祈りと嘆願に耳を傾けて、荒廃した聖所に主御自身のために御顔の光を輝かしてください。 神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。」
預言者ダニエルが祈れるのは、私たちが正しいからではなく、神様の深い憐れみの故です。今も同じです。私たちが、神様に嘆願の祈りを献げることが出来るのは、主の深い憐れみの故です。
19 節「主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください。わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。あなたの都、あなたの民は、御名をもって呼ばれているのですから。」
かつて出エジプトにおいて、イスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷状態であったのに、主によって解放されました。そのことによって、主の御名は、世界中に高くあげられました。同じように、バビロン捕囚から解放されることによって、神様の御名が高められますように嘆願しました。ダニエルの祈りには、自己の利害は全くありません。神様の御名と御国への深い関心と祈りです。
ダニエルが、このようにして訴え祈っていますと、先の幻で見た天使ガブリエルが飛んで来て近づき、ダニエルに触れました。天使ガブリエルは、知恵と悟りを与える存在として、新約時代も、バプテスマのヨハネの父ザカリアに、また救い主イエス様を、ご聖霊によって胎に宿す恵みに預かったマリアに対しても現れました。
天使ガブリエルは、ダニエルに対して告げます。22 節~27 節「ダニエルよ、お前を目覚めさせるために来た。お前が嘆き祈り始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。お前は愛されている者なのだ。この御言葉を悟り、この幻を理解せよ。
お前の民と聖なる都に対して、七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ、最も聖なる者に油が注がれる。これを知り、目覚めよ。エルサレム復興と再建についての、御言葉が出されてから、油注がれた君の到来まで七週あり、また、六十二週あって、危機のうちに広場と堀は再建される。
その六十二週のあと油注がれた者は、不当に断たれ、都と聖所は、次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり、終わりまで戦いが続き、荒廃は避けられない。彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」
エルサレムと神殿は再建されますが、油注がれた者が殺されて、また荒廃の時が来ると言われています。26 節に、油注がれた者が不当に断たれるとありますが、原文では、絶たれる、殺されるという意味です。この油注がれた者とは、ペルシアの王クロスという説。さらに大祭司オニアス三世か、ダビデの末なるゼルバベルという説。そしてもう一つは、救い主キリストの十字架の死であるという説です。もしかしたら、二重預言、三重預言であるかもしれません。
また迫害する存在としては、第一の説は、BC168 年から 167 年に、アンティオコス4世エピファネスによる神殿の冒涜がなされること。二つ目の説は、AD70 年に、ローマの将軍ティテトウスが、神殿を破壊し、100 万人のユダヤ人が殺害されること。三つ目の説は、未来における反キリストのもとで成就することです。これらも、もしかしたら、二重預言、三重預言であるのかもしれません。
結
いずれにしても、どの時代のキリスト者も、ダニエルのように嘆願の祈りを捧げる必要があります。その際に大切にしたいのは、第一に、神様の御言葉に基づいて祈ることです。主の祈り同様、神様の御言葉に基づいた祈りは、主の御心にかなった祈りですから、罪の告白と嘆願の祈りに、ふさわしいです。
第二に、愛する民の為に執り成すということです。この日本の愛する民の為に、世界の滅びゆく魂の為に、執り成しの祈りを捧げます。第三に、信仰に基づいた祈りであるということです。神様の約束の成就は、私たちの信仰を離れては、あり得ないのではないでしょうか。第四に、非常に謙遜な祈りであることです。先祖の罪を、自分も罪人の一人として祈ります。そして第五に、油注がれたメシアであるキリストの十字架の死と贖罪の故に、祈り得ていることを、弁えていることです。神様の赦しと憐れみがなければ、希望は生まれません。
宇宙の絶対的な統治者である創造主なる神様の御前で、主御自身の御名の為に、民の救いの為に、嘆願の祈りを、私たちも、ご聖霊によって、捧げてゆきませんか。
お祈り致します。

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