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2022.8.21 ヨハネによる福音書 9 章 24~34 節 「どちらが霊的に、目が見えない人なのか」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年8月20日
  • 読了時間: 9分

牧師 松矢龍造


ある大学教授が、一人の無学な人に向かって「君は、キリストが、いつ生まれた人だか、知っているか」と尋ねると、無学の人は「知りません」と答えました。「それでは、どこの国でか」と問うと、また「知りません」と言いました。「キリストを生んだ母の名は」「知りません」。「父の名は」「知りません」。「どんなふうに生まれたか」「知りません」。「いくつまで生きられたか」「知りません」。

「それでは君は、キリストについて何を知っているのか」と問うと、「何も知りませんけれど、ただわたしは、前には大酒飲みで、仕方のないヤクザ者でありましたが、キリストを信じて後の今は、心を入れかえることができ、心がしっかりと定まって、幸せに生きられるようになりました。それだけを知っております。」

私も、十代の時に、キリストに出会い心を変えて頂いた一人です。入退院を繰り返す母によって、私は病と死に怯えて生きていました。しかしキリストに出会い、死の解決を得て、平安を頂くことが出来ました。

ユダヤ人の指導者たちは、物乞いであり、生まれつき目が見えなかった人を、もう一度呼び出して、キリストについて問いました。9 章 24 節「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

彼は答えました。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

他の人にキリストのことを話すために、答えを全て知っている必要はありません。キリストが、あなたの人生を、どのように変えてくださったのか、それを伝えることが最も重要です。

イエス様が、罪人であると主張するユダヤ人指導者に対して、かつては肉眼の目が見えませんでしたが、今は見えるようになった事実が、繰り返し主張されています。

ファリサイ派のユダヤ人たちは、ことあるごとに失敗を重ねます。主イエス様の信用を失墜させようと図るのですが、その度に、イエス様の栄光が、余計に帰される結果となります。それ が、人間の思考の、浅はかさです。

これに対して、生まれながら目が見えなかった人の信仰と霊性は、成長し続けました。イエス様に対して、「あの方は預言者です」から始まり、「あの方は罪人ではない」そして「神をあが め、その御心を行う方」となり、さらに「あの方が神のもとから来られた方である」と変化して行きました。

先ず「あの方は預言者です」とは、旧約時代に、主によって奇跡をなすことに用いられた預言者エリヤやエリシャと同様の預言者と認めました。生まれつき、目が不自由な者を癒して奇跡を与えてくださったお方が、イエス様であると悟ったのです。

次に 24 節をもう一度「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。

『神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。』」

「神の前で正直に答えなさい」あるいは「神に栄光を帰しなさい」とは、ユダヤ人の宣誓の決まり文句です。そして「栄光が帰せられるお方は、神であり、イエスではない」と言わせようと圧力をかけて来たのです。

この目が見えるようになった人が、再びユダヤ人の指導者に呼び出されて、イエス様のことを罪人と認めるように説得されました。しかし応じないことを見たユダヤ人の指導者たちは言いました。28 節「そこで、彼らはののしって言った。『お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。』」

「ののしって」と訳された言葉は、「罵倒する」「悪口を浴びせる」「侮辱する」という意味でもあります。相当、なじられ、侮辱されたのです。証拠がない時には、原告を罵倒することだという常套手段に沿っているのが見て取れます。

彼らは、目が開かれた人に対して、お前は、イエスの弟子だが、我々はモーセの弟子だと言いました。モーセの弟子とは、モーセの律法を守る人々という意味です。しかし彼らが、モーセの律法である、心を尽くして創造主なる神様を愛し、隣人を自分と同じように愛することを、完全に行っているとはいえません。

ましてや父なる神様から遣わされた、神の御子イエス様を信じることなく、侮辱し、信じる人をも罵るのでは、モーセの律法を守っているなど、言い難いです。

目が開かれた人は、30 節 31 節「彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。」

イエス様が、神をあがめ、その御心を行っている方なので、罪人ではないと主張してゆきま

す。32 節「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。」目が開かれた人は、旧約聖書に預言されていたメシアが来られたなら、盲人の目を開かれるということに、信仰の目が開かれて行きました。

旧約時代のモーセは、生まれつき目の見えない人を見えるようにしたという事実は、一つもありません。そして 33 節「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」霊の目は完全に開かれました。

ところが、これに対して、ユダヤ人の指導者たちは 34 節「彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した。」「外に追い出した」とは原文では「追放した」という意味の言葉です。ですから、物理的に追い出しただけでなく、ユダヤ人の指導者たちは、イエス様を信じるようになった者を、ユダヤ人共同体と会堂から追放したということです。現在の言葉では、ユダヤ教から除名処分を下したということです。

現在でも、迫害を受けて、その社会から追い出されることがあります。しかし、あなたがイエス様に従う時、迫害が起こるかもしれませんが、イエス様が、あなたに与えられる永遠の命を、取り上げることは誰も出来ません。

むしろ、この目が開かれた人の変化を見て下さい。神殿の前で、物乞いで乞食であった者が、神様の御前に、豊かな人に変えられました。また宮の階段で見捨てられていた者が、宮で礼拝を捧げる人に造り変えられました。そしてユダヤ当局を恐れる民衆に対して、どうどうと主イエス様を神の御子・救い主・メシアと告白する者に、変えられて行きました。

むしろユダヤ人指導者こそ、霊的に盲目であることが証明されました。父なる神様から遣わされたイエス様を、拒絶することで、彼らこそ罪を犯したのです。ユダヤ人の指導者たちは、イエス様が、安息日に盲人の目を開くことをしたとして、律法を守っていないと判断して、罪人と見なしました。しかし彼らこそ、律法の精神を逸脱した罪人でした。

かつて 16 世紀の宗教改革者の一人、マルチン・ルターも、ローマ・カトリック教会から、破門されました。聖書に基づいて、信仰によって義とされるとこを訴えて、破門されたのです。8月は、第二次世界大戦と平和を深く考え祈る時です。ロシアによるウクライナ侵攻と同じようなことを、日本はアジアに対して行いました。その中で、非戦論を唱える人たちは、国賊として訴えられたり、投獄されたり、失職させられたりしました。

今も、ロシア国民が非戦論を唱えると、ロシア当局から罰せられ、投獄され、打ち叩かれています。香港の人々は、中国当局から弾圧され、信教の自由が奪われ、イギリスに亡命している 人々が増えています。

私たちの属するカンバーランド長老教会の信仰告白の中で 6.29 にこうあります。「この世の政治、そして公務に選ばれた者は、信仰と実践にかかわることに関して、教会を支配したり、管理したりすることがあってはならない。しかしながら、すべての人の信教の自由を守り、宗教団体が妨げられることなしに、集会を守る権利を擁護するのは彼らの義務である。」この根拠となています聖句は、歴代誌下 26 章 16~18 節です。「ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとした。祭司アザルヤは主の勇敢な祭司八十人と共に後から入り、ウジヤ王の前に立ちはだかって言った。

『ウジヤよ、あなたは主に香をたくことができない。香をたくのは聖別されたアロンの子孫、祭司である。この聖所から出て行きなさい。あなたは主に背いたのだ。主なる神からそのような栄誉を受ける資格はあなたにはない。』」

さらにカンバーランド長老教会の信仰告白 6.30 では「主なるキリストに治められる契約共同体は、神が創造の業において、人々のために意図した基本的な人間の尊厳を否定する政治的、経済的、文化的、人種的抑圧状況に反対し、抵抗し、変革を求めていくのである。」

根拠となっている聖句の一つは、申命記 15 章 7~11 節です。「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。

『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。

彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」

私たちは、イエス様によってこそ、生まれながらに霊的な盲目から、見える者に変えらて頂けます。そしてその信仰と霊性が成長するにつれて、様々に捕らわれている人々の為に、主にあって解放の業と平和の為に、仕える者とされてゆきます。あなたも、ご聖霊の力によって、和解の福音に仕えて行く者とされてゆきませんか。

最後にコリントの信徒への手紙二 5 章 16~21 節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」お祈り致します。


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