2022.8.28ヨハネによる福音書 9 章 35 節~10 章 6 節「真の救い主の声を聴き分ける」
- CPC K
- 2022年8月31日
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松矢 龍造 牧師
起
ヨハネによる福音書が記されていた時代は、この世では、ローマ皇帝が、「救い主」と呼ばされていた時代でした。またイエス様が地上に来られた時は、ユダヤ人にとって羊飼い、すなわち指導者とは、ファリサイ派の指導者たちを指すのだと自任していました。
現代では、無神論者、異端、異教など、様々な人たちの声が、この世の人々に対して、自分こそが、民を導く指導者であると言っています。私たちは、どの声に、聴き従うのでしょうか。真の救い主、まことの羊飼いの声を聴き分ける為には、神の言葉である、聖書に絶えず、耳を傾けて行くことが重要です。
この世の指導者は、皆、自分こそ、民の必要が見え、未来が見えると言い張るかもしれません。けれど、本当に見えている、真の知恵者とは誰なのでしょうか。
承
ローマ帝国の政治家で、哲学者であり、詩人でもあるルキウス・アンナエウス・セネカが次のように言ったと言われています。「自分に知恵があると思わなければ、智者となりえる人が多数である。」
哲学者ソクラテスも、「無知の知」言い、自分が無知であることを知っていることが真の知恵であると言っていました。
旧約聖書イザヤ書 5 章 21 節「災いだ、自分の目には知者であり、うぬぼれて、賢いと思う者は。」
使徒パウロも言います。コリントの信徒への手紙一 8 章 2 節で「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」
そして今日の御言葉で、イエス様が言われています。41 節「イエスは言われた。『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、【見える】とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。』」
私たちには、見えていないのに、見えると思い込んでいるファリサイ派の人々と同じ心がないでしょうか。
転
それではもう一度 9 章 35 節「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。」
生まれながら目が見えなかった人が、肉眼の目も、霊的にも信仰的にも目が開かれてゆきました。そしてイエス様のことを「神のもとから来られた方」と証言したことによっ て、ユダヤ当局から、破門されてしまいした。
するとイエス様は、その人が追い出されたと聞くや、主イエス様ご自身が、彼を歓迎されました。私たちも、もしイエス様を告白して迫害されるなら、主イエス様ご自身が、私たちを歓迎してくださいます。
続いて、肉眼の癒しに加えて、魂の癒しを与えるべく、イエス様は、彼に問いました。
「あなたは、人となられた神の御子・救い主を信じますか。」
36 節~38 節「彼は答えて言った。『主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。』イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。』彼が、『主よ、信じます』と言って、ひざまずくと、」
目が開かれた人の信仰告白です。そして彼はひざまずきました。原文では「ひざまず
く」は、「礼拝する」という意味でもあります。主イエス様を、神の御子・救い主として、礼拝の姿勢で、信仰告白をしたことを表しています。
39 節「イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』」
神の御子キリストは、救いの為に来られましたが、キリストを拒むなら、神のさばきは避けられない結果となります。キリストの福音が語られると二つの結果が表れることになります。一つは、自分が霊的に盲目であると認めて目が見えるようになる人々と、もう一つは、主イエス様なしで、完璧に見えると主張する人々に分かれます。もし後者なら、霊的な目は閉じたままで、救いがたいものとなり、それが結果的に、さばきとなってしまいます。
40 節「イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、
『我々も見えないということか』と言った。」
イスラエル民族の正当な牧者・羊飼いである主張していたファリサイ人たちでした。彼らは、自分たちは、見えると思い込んでいました。ある方が言われます。「よく物を知ると思う自負心ほど、人の上達を妨げるものはない。」
またある方もこのように言われます。「わたしは愚かな者であると考える人がいなくなった時は、キリスト教会が痛ましき状態に陥った時である。」
イエス様は言われます。41 節「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
目が見えると思っていたファリサイ派の人々は、かえって霊魂上の盲目であることが発見される場合となってしまいました。見えると自分を誇る。それこそ盲目の証拠となります。
エレミヤ書 9 章 22 節 23 節「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」
さらに使徒パウロは、誇ることは、主と自分の弱さであると言っています。コリントの信徒への手紙二 10 章 17 節「誇る者は主を誇れ。」12 章 5 節「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」
そして 12 章 9~10 節「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
誰でも、霊的傲慢、頑固と愚かさに陥るなら、霊的な盲目に陥ってしまいます。
続いて、イエス様は、「羊の囲い」の譬え話をなさいました。10 章 1 節「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。」
ここで羊の囲いとは、神の国や教会をたとえています。また羊や羊の群れは、神の民の象徴です。イスラエルでは、羊を夜中に安全に守る為に、柵で囲んだ場所に入れておきます。
2節 3 節「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」
羊の囲いの中に入る者を決めるのは、門番です。門番は、時に羊飼いが兼ねる場合もあります。羊飼いは、朝になると羊の名を呼んで連れ出し、夕方になりますと、囲いに羊を入れる時に、頭数を数えます。この門番のいる門だけが、囲いの中に入る唯一の門です。 良い羊飼いは、キリストであり、門番は、ご聖霊なる神様とも言えます。インドでのこ とです。一匹の羊を争う、二人の男がいました。この一匹の羊が誰のものであるか、裁判官は、試みに、彼らを法廷の右と左に立たせました。そして双方から、羊を呼ばせると、羊はすぐに真の持ち主の方に行きました。それで、どちらの言い分が正しいかは、たちま
ち、あきらかになりました。
4節5節「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
目が癒された人は、キリストの声を知っていて、ファリサイ派の人々の声には、ついてきませんでした。主イエス様は、神の救いの門です。御自身を、羊飼いと信じる者を、囲いの中に入らせ、悪魔から守られます。そしてイエス様は、父なる神様に近づく唯一の道です。
10 章 6 節「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」自分は目が見えると言いながら、霊的な無知のうちに留まるファリサイ派の姿が描かれています。この姿は、自らを正しいとするファリサイ派の人と、罪の赦しを乞う徴税人のたとえに似ています。
ルカによる福音書 18 章 9~14 節「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。【神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。】
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言っ た。【神様、罪人のわたしを憐れんでください。】言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』」
結
イエス様は、私たちが、霊的に盲目でも、真理なるキリストを受け入れるなら、罪人でないと言われます。しかし律法に基づくことを理解しているとファリサイ派の人々は主張していますが、イエス様を信じない人々は、罪人であるとイエス様は言われます。
その違いは、救い主イエス様の御声を、ご聖霊の助けを頂いて、聴き分けることです。その為には、日々、本物の主の声を、聖書を通して、ご聖霊によって、聴き続けることです。日々の黙想、また祈祷会や小グループで、そして毎主日礼拝ごとに、神様の御言葉を聴き続けてゆきませんか。そして聴くだけでなく、聴き従って、救いと平安、神様の栄光と、愛の実を結んで行きませんか。
最後にペトロの手紙二 3 章 18 節を拝読して閉じます。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。」お祈りいたします。

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