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2022.9.11ヨハネによる福音書 10 章 22~42 節「主イエスと父なる神さまとは一つ」

牧師 松矢龍造


日本では、イエス様を信じる人たちは、1%にもみちませんが、お隣の韓国では、戦後、歴史的な霊的復興が興り、一番多い時は、国民の三分の一がクリスチャンとなり、現在世界中の教会の中で、宣教師を送る数では一番となっています。

また中国では、世界中の教会の中で、最もクリスチャンが多く、一億人から一億五千万に位いるとも言われます。そして、かつては日本と同じくらいのクリスチャン率であったお隣の台湾にも、霊的復興・リバイバルが興り、首都台北は、10 パーセントのクリスチャン率と言われています。

イエス様が地上に来られた際に、主イエス様を信じる人達と、拒絶した人たちがいました。かつても今も、二つに分かれてゆきます。今日の御言葉は、イエス様が公生涯に入られて、間もなく三年後の地上での最後の時が近づいて来ている時のことが記されています。

季節は、冬であります。秋に行われた仮庵の祭りが過ぎ、12 月の雪が降って来る季節あり、エルサレムで、神殿奉献記念祭、別名、宮清めの祭りが行われていた時です。

この祭りは紀元前・BC165 年に溯ります。ユダ・マカバイが、セレウコス王朝アンティオコス4 世エピファネスによって汚された神殿を取り戻して、神殿をきよめたことを記念して、それ以来、毎年行われてきました。

かつて異邦人であったエピファネスは、エルサレムと神殿を占拠するや、神殿の中に、ギリシアの偶像神ゼウスを祭ったり、自分を神として自分の像を建てたりして、神殿を汚しました。すると創造なる神様は、ユダヤ人たちを用いて、圧制的なシリアの王から、エルサレムと神殿を奪還させて、その支配から解放させました。

そして神殿の宮清めをなして祭りをもうけました。この祭りはユダヤでは、ハヌカーとも呼ばれ、宮清めの祭り、更新祭とも呼ばれました。ユダヤ歴でキスレウの月、西暦では 11 月~12 月にあたる時であり、8 日間祝われました。

この祭りの時に、イエス様もエルサレム神殿に行かれ、神殿の境内であるソロモンの回廊を歩いておられました。ソロモンの回廊とは、神殿の東側と南側にあります巨大な石柱で作られており、公共の場でした。

24 節「すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

「気をもませる」と訳された原文の言葉は「殺す」「消す」「奪い去る」「取り除く」という意味でもあります。イエス様を、殺して取り除く時が来たことを示しています。それほどにユダヤ指導者たちの間に、イエス様を殺そうと殺気立っていたことが表されています。

25~29 節「イエスは答えられた。『わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。』」

イエス様を信じるクリスチャンは、一つ目に、キリストの声を知り聴き分けます。二つ目に、キリストは、クリスチャンを知っています。三つ目に、クリスチャンは、キリストに服従しま す。四つ目に、キリストは、クリスチャンに、永遠の命を与えます。そして五つ目に、父なる神様は、クリスチャンを保護して、誰も父なる神様の手から、奪うことは出来ません。

しかしイエス様を拒む者たちは、信じないので、神様の羊ではなく、悪魔の支配下の中で滅んで行きます。

30 節「わたしと父とは一つである。」父なる神様と、御子なるイエス様は、同じ人格ではありませんが、本質において一つです。またキリストと父は、権能において同一です。そして三位一体の神です。

37 節 38 節「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

イエス様の業を見れば、父なる神様と一つでなければ、このような奇跡やしるしは出来ませんから、御子と父は一つであることが、素直に見れば分かります。イエス様と父なる神様が一つであるから、これらの奇跡が、お出来になられます。

31~36 節「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。『わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。』

ユダヤ人たちは答えた。『良い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。』そこで、イエスは言われた。『あなたたちの律法に、【わたしは言う。あなたたちは神々である】と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、【神々】と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、【わたしは神の子である】と言ったからとて、どうして【神を冒涜している】と言うのか。』」

父なる神様から、神の言葉を受けた人々が神々と呼ばれることがあります。旧約聖書詩編 82 編6 節「わたしは言った『あなたたちは神々なのか。皆、いと高き方の子らなのか』と。」

ならば父なる神様から特別な使命を受けて、この地上に遣われさたイエス様が、自らを神の子と言っても、父なる神さを汚すことにはなりません。

他にも出エジプト記 4 章 16 節「彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。」あるいは出エジプト記 7 章 1 節「主はモーセに言われた。

『見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。』」

父なる神様からの啓示と御心を受けて、民に語る人々を、神の代わりと何度も呼ばれていま す。ですから、イエス様が、ご自身を神と言ったとしても、それで聖書が廃れることもなく、神を冒涜したということでもありません。

39 節「そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。」イエス様が十字架につけられる時はまだ満ちていませんでしたから、ユダヤ人の指導者たちは、イエス様を捕えることが出来ず、イエス様は彼らの手を逃れて、去って行かれました。

40 節「イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。」ヨルダンの向こう側は、既成のユダヤ教社会の外にあり、排斥の地でした。同時に、イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられた場所は、イエス様が公生涯を始められた場所です。主は最後の時が近づいて来るにあたり、公生涯を始められた場所に行かれました。主イエス様の 3 年間にわたる驚くべき言葉と御業の終わりを告げようとしていました。

41 節 42 節「多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。』そこでは、多くの人がイエスを信じた。」

バプテスマのヨハネは、奇跡を行いませんでしたが、彼が証言したイエス様のことは、全て本当でした。私たちも、素晴らしい奇跡を行うことも、世間の注目を集めることも、出来ないかもしれません。しかし少なくとも、主であり救い主であるイエス・キリストに対する、偽りのない証しをすることは出来ます。それこそ、神様の御前において、バプテスマのヨハネ同様、大きく価値あることです。

主イエス様の側につくことを選び、世から排斥され、憎まれ、あざけられても、神の御子との甘美な交わりを享受する残りの民・レムナントが、常にいます。私たちが、イエス様を信じて敬虔深く生きていても、世から排斥されるなら、私たちも残りの民として、父なる神様が、私たちを保護し、残りの民としてくださいます。私たちを、神様の愛から引き離すものは何もありません。

最後に、チャン・チャンスという方の「中間ゾーンの不安の解決法」という内容を受け留めます。「クリスチャン精神科医のポール・トゥルニエの著書『人間の場所』に『中間ゾーンの不安』という用語が出てきます。これは、人々の心の中の戸惑いや不安のある部分を指します。

ポール・トゥルニエは、サーカスの空中ブランコにたとえて、この中間ゾーンについて説明しています。二人の人が、両サイドから空中ブランコにぶら下がり、中央に向かってブランコを大きく揺らします。ある瞬間、一人がブランコから手を放して、空中で宙返りをして、もう一人の手を掴みます。

ここで、自分のブランコから手を放して、相手の手を掴むまで、何にも拠り頼む対象がない空中に浮かんでいる間が、まさに中間ゾーンです。ところで、このとき、掴んでいたブランコから離れて飛ぶ人よりも、反対側から飛んで来る人の手を掴もうと待っている人の方が緊張するそうです。

彼がタイミングを正確に合わせてこそ、安全に曲芸を終えることができるからです。観客たちは、空中ブランコから飛んだ人に感嘆して拍手を送りますが、最も注目すべき対象は、反対側 で、手を掴む人なのです。

私たちは、いつも失敗する不安を抱えています。しかし、私たちは、すでに、ブランコを掴んでいた手を離しました。私たちに残されていることは、反対側で、私たちを安全に、掴まえてくださる神様を信じることだけです。今、手に掴んでいるものがないからといって、不安になる必要はありません。私たちのタイミングよりも、神様のタイミングの方が正確だからです。」

神様に愛されている皆さん、御子イエス様と天の父なる神様は、一つです。父なる神様から私たちを奪うものは誰もいません。この三位一体の神様に、ご聖霊によって、信頼してゆきませんか。ローマの信徒への手紙 8 章 35~39 節「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

『わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。

死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」お祈り致します。



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