2022.9.18ヨハネによる福音書 11 章 1~16 節「死んだ者が命を与えられる」
- CPC K
- 2022年9月17日
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牧師 松矢龍造
起
ある種の病気は、その人が不摂生を繰り返すことによって病み、そして死に至る場合があります。しかし病気というものは、時に、神様をあがめ、神様を愛している者のところにも、入り込んでくることがあります。その時の病気は、神様が助けをお与えになる機会や場所を提供しま す。また神様の栄光の為に、病や肉体の死が用いられることがあります。
クリスチャン詩人の一人に河野進さんがいますが「病まなければ」という有名な詩があります。「病まなければ、捧げ得ない悔い改めの祈りがあり、病まなければ、聞き得ない救いの御言葉があり、病まなければ、負い得ない恵みの十字架があり、病まなければ、信じ得ない癒しの奇跡があり、病まなければ、受け得ないいたわりの愛があり、病まなければ、近づき得ない清い聖壇があり、病まなければ仰ぎえない輝く御顔がある、おお、病まなければ人間でさえあり得なかった。病まなければ、聞き得ない慰めのみ言葉があり、病まなければ、捧げ得ない真実な祈りがあり、病まなければ、感謝し得ない一杯の水があり、病まなければ、見得ない奉仕の天使があり、病まなければ、信じ得ない愛の奇跡があり、病まなければ、下り得ない謙遜の谷間があり、病まなければ、登り得ない希望の山頂がある」
承
今日の御言葉の冒頭は「ある病人がいた」と始まります。「病気である」訳された原文の言葉は「無力である」「力ない」「弱々しい」という意味でもあります。人間の側では、無力であり、力ない状態のことが強調されています。神様は、あえて、無力で、弱々しいことになることを、私たちに許される場面があります。
ニューヨーク州立大学病院リハビリテーションセンターの壁には、大変有名な詩が書かれています。作者は不明ですが、心も体も傷ついたベトナム戦争帰還兵の若者であるという説や、ここに入院していた神父という説もあります。いずれにしても、「病者の祈り」というタイトルでも知られる詩です。
「苦難にある者たちの告白」「ある患者の詩」「大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く、従順であるようにと、弱さを授かった。
より偉大なことができるように、健康を求めたのに、より良きことができるようにと、病弱を与えられた。
幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。
人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるように、命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた。私はあらゆる人の中で、最も豊かに祝福されたのだ。」
転
今日の御言葉で取り上げられている病人とは、マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア出身で、ラザロという名で、この姉妹たちの弟でした。ベタニアという村は、エルサレムの東、約 3.2㎞にある小さな村で、オリーブ山の斜面にあります。
このべタニア村に暮らしていたラザロの墓が、現在もまだあると言われています。その名にちなんで、エル・アザリエとしても知られている場所です。
2 節「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。」マリアは、イエス様が十字架につけられる前に、高価な香油をイエス様に塗りました。その理由の一つは、弟ラザロを、死んだ状態から、よみがえらせていただいたことへの感謝であると受け取ることが出来る御言葉です。
3節「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」
イエス様が、ラザロの病気を知らされたのは、ヨルダン川の東岸にいた時であり、そこで伝言を受けました。その前に、エルサレムにいて、殺される場面であったのですが、時がまだ来ていなかったので、一時、ヨルダン川の洗礼を受けた場所、公生涯を始められた場所に、退かれた時でした。
4節「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」
かつて生まれながらの盲人の時には「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が、この人に現れるためである」と言われたことに通じます。
この病が死で終わるものではなく、神の栄光の為であると言われています。神の民、すなわちキリスト者の、病と死は、そのことを通して、神様が栄光を表される。それは私達にも適応される御言葉です。
星野富弘さんが首から下が麻痺して動かなくなったことも、クリスチャン作家である三浦綾子さんが、生涯病のデパートとのようであったことも、ゴスペルシンガーであるレーナ・マリアさんが、生まれながら足と手に障害があることも、皆、神様の栄光が現れる為です。
5節「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」イエス様が愛しておられることと、家族や本人が病気であることは、決して矛盾してはいないということです。神様に愛されていた、使徒パウロも、愛弟子テモテも、宣教の協力者であるエパフロデトが病を抱えていたことも、愛されていることとは矛盾しないということです。
6 節「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」私たちの思いは、愛しておられるなら、一刻も早く、病人のところに駆けつけるだろうと思います。しかし主イエス様は、愛しておられるので、遅れて行かれるのです。このことを「遅延祝福局」と言われる人がいます。主の栄光の為に、あえて、遅れて行かれるのです。病は、神様の御心を学ぶ、大切な時です。
7節 8 節「それから、弟子たちに言われた。『もう一度、ユダヤに行こう。』弟子たちは言った。『ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。』」
イエス様にとって、ヨルダン川の西側、そしてエルサレム付近に行かれるということは、死の危険を意味していました。ですから、イエス様にとって、苦い杯を飲み干し、十字架にかかる決意なしに、イエス様が、ラザロをよみがえらせるために歩んで行かれることはなかったといことです。
9節 10 節「イエスはお答えになった。『昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。』」
ここで昼間とは、神様の御心と神様の導きに信頼することを象徴しています。逆に夜とは、神様のいない暗黒のことであり、つまずく恐れがあることを象徴しています。
11 節~15 節「こうお話しになり、また、その後で言われた。『わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。』弟子たちは、『主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう』と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。』」
イエス様が、「ラザロが眠っている」と言われたのは、ラザロの肉体が死んでいることを意味していました。しかしもう一つの意味は、イエス様は、ラザロを死からよみがえらせて、ラザロを起こすことを示しています。
15 節 16 節「『わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。』すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』」と言った。」
イエス様は、御自身が、死と生を支配している御力を持っておられことを証明される為に、ラザロが死んだと言われたのです。弟子たちには、この時、理解がありませんでしたが、空元気だけはありました。後日、復活されたイエス様と出合い、ご聖霊降臨によって力を受けて、初め て、イエス様の為に、殉教してゆくことが出来ました。
結
私たちは、病や弱さの中で、先ずマリアとマリアのように、病の癒しをイエス様に求めることが重要です。そこで、人や医療が用いられるか、直接癒されるか、魂の癒しのみかは、神様の御心しだいですが。イエス様に病の癒しを求めるなら、必ず、魂の癒しが与えられ、御心に沿っ て、肉体と精神と社会性の癒しが与えられます。
またイエス様にある聖徒にとって、死ぬことは、眠ることです。肉体の死と言う眠りの後に、復活という朝に、目覚めさせて頂けるのです。
そして神様は、私たちの一人ひとりに対して、その死と復活に関して、完全なご計画と目的と時を持っておられます。そのことを覚えて、信頼を持って、主に生と死を委ねることを教えられます。
最後に、ダニエル・キムという方の「永遠の命は『改善』ではない」という内容を受け留めます。「私たちは、『改善と』と『新生・永遠のいのち』の違いについて、はっきりと知らなければなりません。
私たちは、イエス・キリスト以外のもので、栄光の恵みに与ることができると思い違いをすることがあります。イエス様のもとにやって来た金持ちの青年も、自分が何をすれば、永遠の命を受け継ぐこときができるかと尋ねました。
私たちも、主に対して、このような過ちを犯しがちです。『何をすれば満たされるでしょうか。何をすれば、私は霊的に成長できるでしょうか。私がもっと尊い存在になるためには、何をしたらよいでしょうか。』という具合です。このような質問は、すべて『改善』を意味します。しかし何かもっとすれば、救いに近づけると考えることは、間違っています。
『新生』は『改善』ではありません。永遠の命を得ること、すなわち新生することは、自分の現状に何かを足して、自分の自我をアップグレードさせることではありません。むしろ、十字架の上で死ぬことです。改善ではなく、死んでもう一度、生まれ変わることが、永遠のいのちなのです。
恵とは、私たちの人生の足りない部分を埋めるためのサプリメントではなく、土の器のように、弱くて取るに足りない私たちの人生を、すべて覆ってくださる神様の御力なのです。
天の栄光に満ちた家族に加えられることは、ただ神様の恵みによる奇跡なのです。神の御子であるイエス様と一つになるという名誉ある招きを謙遜に受け入れ、天の都へと進んで行くこと が、私たちの務めです。」
主に愛されている皆さん、病や弱さを抱えた私たちの力では、どんなに改善したとしても、永遠のいのちを得ることは出来ません。私たちの罪の為に十字架にかかり、復活されたイエス様にすがるのみです。恵みのみです。新生は、信仰によって、イエス様の真実に預かるのみです。
このイエス様による救いと新生に預かり、ご聖霊によって、この新生の恵みの素晴らしさを、隣人に対して、証してゆきませんか。この恵みによる新生は、どんな病や弱さをも超えて行くものです。むしろ病と弱さを通して、神様の御栄光に預かってゆきませんか。お祈り致します。

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