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2022.9.25 ヨハネによる福音書 11 章 17~44 節「主イエス様は復活であり命」

牧師 松矢龍造


主イエス様は、死人をよみがえらせる奇跡を何度も行われました。先ずはヤイロの娘をよみがえらせました。マルコによる福音書 5 章 41 節 42 節「そして、子どもの手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。」

またナインのやもめの息子をよみがえらせました。ルカによる福音書 7 章 12~15 節「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。

そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」


福音書の中では、今日の御言葉が三度目にあたり、ラザロをよみがえらされたことが記されています。この奇跡は、一方では、人々の信仰をさらに呼び起こしました。しかし一方では、ユダヤ人指導者たちに対して、決定的な亀裂へと事態を発展させるものとなりました。それほど、ユダヤ人社会に、大きなインパクトを与えたのが三度目の、ラザロを、よみがえらせる奇跡でし た。

そしてこれは、ユダヤ人だけでなく、死の恐れにとらわれている全人類に対して、大きな影響を与えます。ある方がキリストの復活と命の故に、次のように言われます。「愛は死よりも強い。墓はキリストとその友との間を、隔てることができない。他の友人は、墓のかたわらまで見送って後、我らを見捨てる。しかしながら、生も死も何物も、我らをキリストの愛より引き離すことはできない。」


キリストが、三度、死人をよみがえらせた事が、福音書に記されているのは、それが強調されているからです。そして私たちにとって、キリストにある永遠の命は、二面性を持っています。それはすでに私たちの内に霊的に永遠の命が、キリストと御聖霊の内住によって与えられています。そしてもう一つは、いまだ永遠の体は、与えられておらず、それは肉体の死後に与えられるものです。

ですから、イエス様は、一方では、永遠の命を未来的なこととして語られますが、他方で、イエス・キリストにおいて、現在化されているものとして語られています。

それでは、ヨハネによる福音書 11 章 17 節をもう一度。「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」イエス様は、あえてラザロの所に行くことを、死んで墓に葬られてから 4 日たった時に行かれることを、よしとされました。災害が起きた時、人間の生死の限界は 72 時間とされています。それは三日です。その三日を越える4日というのは、完全に死んだことを意味し、蘇生という現象ではないことを物語っています。

18 節 19 節「ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。」1 スタディオンは約 200mですから、15 スタディオンとは、3 ㎞位です。エルサレムから 3 ㎞であるならば、弟ラザロの死のことで悲しむマルタとマリア姉妹たちのところに、慰めに来る人々は多いと言える距離です。3 人兄弟しか名前が出てきませんから、もう両親がいなかったのではないでしょうか。

イエス様が来られたと聞いてマルタは迎えに出てきました。イエス様は、そのマルタに言われました。23 節「あなたの兄弟は復活する。」するとマルタは答えます。24 節「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」マルタは、明らかに死後の生を信じていました。

死後には、先ず最後の審判があります。すべての人は肉体の死後、創造主なる神様が、最後の審判をなさいます。

ヘブライの信徒への手紙9章 27 節 28 節「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」

続けてイエス様はマルタに、そして全人類に向けて語られます。25 節 26 節「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていて、わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」

これは私達人類の一人ひとりに対して、永遠の滅びと、永遠の命を分ける、絶大な問いです。これにどう答えるかで、永遠の滅びと永遠の命、地獄と天国を分けるのです。神の御子イエス様を信じる者は、復活して永遠の命を得て天の御国に入れられます。

マルタは答えました。27 節「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」イエス様がメシアであるということは、ユダヤ人にとっては、イエス様こそが、イスラエルを治める為に父なる神様が選ばれた者であることを指します。マルタ

は、主イエスを、神の御子、メシアと信じていました。

マルタが、マリアに対して、イエス様が来られて、あなたを呼んでいると耳打ちしました。するとマリアがイエス様のところに来て言いました。32 節「イエスを見るなり足もとにひれ伏し、

『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。』」

イエス様は、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われました。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』」。するとイエスは涙を流されました。

イエス様は、この後、ラザロをよみがえらせることを知っておられました。なのに何故、イエス様も涙を流されたのでしょうか。

一つは、ラザロを深く愛しておられたからです。二つ目に、罪の為に死が、人類の中に入って来たことへの憤りが含まれるでしょう。三つ目に、悲しむ者と共に悲しまれるイエス様の共感の姿です。イエス様は、人間の憂いや患い、苦悩や悲しみに対して、涙さを流されるお方なので す。

ヘブライの信徒への手紙 4 章 15 節 16 節「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

36~40 節「ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。

イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。」

イエス様には、罪を赦す力だけでなく、命と死を支配する力があります。

40~44 節「人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』

こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。

イエス様は、ご自身が「よみがえりであり、命である」ことを証明なさいました。そしてイエス様を信じる者は、今、その場で、永遠の命を賜り、そして彼らを終わりの火に復活させることを保証するしるしとなりました。イエス様は、命の創造者であるので、よみがえりも、復活も与えることが、お出来になられます。

しかし死者をよみがえらせる奇跡をなされる時、人間の側に、墓の石を取りのけることや、包帯を顔からほどくこと命じられました。人間の側にできることは、させた上で、その及ばぬところのみを、神様は御力によってなさいます。


キリストを信じる者には、誰でも、肉体の死によって征服されることのない、霊的な命が、すでに与えられています。ローマの信徒への手紙 8 章 11 節「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

創造主なる神様は、かつて旧約時代、枯れた骨に、命の御聖霊の息を吹きかけて、民族的な再生を預言されました。しかし新約時代は、イエス・キリストによって幻を、現実に見えるような奇跡を、個人の肉体に置いて見せてくださいました。

エゼキエル書 37 章 1~10 節「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。

そのとき、主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです。』そこで、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。

わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。』わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。

主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。』わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」

神様に愛されている皆さん、霊的に死んでいる私たちに対して、命の御言葉と、キリストの復活と、ご聖霊の命の息吹が与えられる時、私たちの内にも霊的に永遠の命がすでに与えられま す。そして肉体の死後、永遠の魂に対して、永遠の体が与えられます。その確かな望みを、キリストの復活を信じて預かり、キリストにある永遠の命と復活の証人として、ご聖霊によって用いられてゆきませんか。

お祈り致します。


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