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2022.9.4ヨハネによる福音書 10 章 7~21 節「主イエス様は救いの門であり良い羊飼い」

牧師 松矢龍造


かつてアメリカの大統領にアブラハム・リンカーンがいました。彼はある時、どろ溝に落ち た、一匹の豚の子を見て、これをあわれみ、新しい衣服を汚してまでも、これを救いあげて去って行きました。 しかも彼が、このように、一匹の豚の子に忍びなかった心こそは、すなわち後年 200 万人の黒人が奴隷の境遇に生涯あるのを見るに忍びず、立ち上がって、黒人の救済のために奮闘したの と、同じ心であったと唱えられています。 アブラハム・リンカーン大統領は、後に暗殺されますが、主イエス様は、私たち人類が、羊のように滅びに向かっていることを忍びず、十字架で命を捧げて、救済の御業をなさいました。 主は良い羊飼いであり、良い羊飼いは、羊の為に、命を捨てられます。このイエス様から、私たちは、常に目を離してはなりません。 7節「イエスはまた言われた。『はっきり言っておく。わたしは羊の門である。』」門と訳された原文の言葉は「入口の扉」という意味でもあります。門と言うと、玄関に至る敷地の門というふうに、日本人は考えがちですが、イエス様が、羊の門と言われたのは、神の国の門、入り口であるということです。 このイエス様という門から入らなければ、誰も神の国に入ることが出来ず、また永遠の命に預かることは出来ません。そして悪魔に襲われずに守られることもありません。 8節「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」ここで盗人や強盗にたとえられているのは、一つは、神の民である羊や、その群れである人々に、神様が求める真理から遠ざける方法のことです。そしてもう一つは、律法を教える者たちのことを、イエス様は言及されています。 ユダヤ人指導者たちは、人々を神の民の群れから、悪魔の支配下に、盗み出す強盗だと言われています。 現在、日本においては、旧統一教会と政治家の癒着が連日、報道されています。統一教会は、キリスト教の異端であり、社会悪をもたらす集団です。人々の魂と財産を奪い取る、まさしく盗人であり、強盗です。その声に聞き従ってはなりません。 9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」イエス様のみ、神の国と永遠の命に至る門です。 旧約聖書、詩編 23 編1~4 節「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」 続いてヨハネによる福音書 10 章 10 節「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」 この世の現世利益や、呪いを解いて、盗人は、羊を滅ぼしてゆきます。これに対して、主イエス様は、地獄において、永遠に滅びることのない、永遠の命を与える為に天から、地上に来られました。しかもその命を豊かに受けるためです。主イエス様が与える命は、単に長く永遠に続くだけでなく、本来の神様の栄光を表す地上での使命に生かされ、罪と悪魔から切り離して、永遠の平安と喜びをもたらします。 私は 17 歳のクリスマスの時に、信仰告白の恵みに預かりました。その後この年まで、何十年にも渡って、真の命に生かされ、主の為に生きる人生を歩ませて頂いて来たことは、本当に喜びであり、豊かな命であたことを、最近良く思わされます。 11 節「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ユダヤの文化では、単に羊を飼う人々を羊飼いと呼ぶだけではありません。民や国民を指導する人達を、羊飼いと表現します。 良い羊飼いは、父なる神様から選ばれたメシア・救い主であり、悪い羊飼いではありません。旧約聖書のエレミヤ書に、悪い羊飼い、すなわち悪い指導者の対する言及が記されています。23 章 1~6 節「『災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは』と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。 『あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する』と主は言われる。『このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない』と主は言われる。 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる。」 続いて 12 節 13 節「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」 雇い人とは、イスラエルの指導者を指しているでしょう。重要なのは、自分の羊を持つ、真の羊飼いなるイエス様は、危険が迫っても、決して逃げ出さないということです。 イエス様が、ゲッセマネの園で、イスカリオテのユダの裏切りで、逮捕される時、イエス様は逃げずに、弟子たちを逃がしました。そして見捨てた弟子たちの為に、十字架に進んで行かれました。 14 節 15 節「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」 イエス様は、弟子たちの弱さも、愚かさも、醜さも、全部知っておられながら、この弟子たちの存在を、あるがままで、そのままで愛し、極みまで愛されました。イエス様は、弟子たちを知っておられ、弟子たちもイエス様の犠牲の愛を知っていました。 16 節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ほかの羊とは、異邦人である私たちのことです。イエス様は、イエス様に従う者たちが、違いを乗り越えて、一つの群れになるように導かれます。ガラテヤの信徒への手紙 3 章 26~29 節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」

17 節 18 節「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」イエス様が、父なる神様から受けた掟とありますが、原文では、掟とは命令や定めという意味でもあります。イエス様は、人類の贖いと救いの為に、ご自身が進んで、十字架命で命を捧げたお方です。そして復活されて、私たち羊にも、豊かな永遠の命と、天の御国での永遠の平安を与えてくださいます。

このイエス様に対して、ユダヤ人達の間に、また大きな対立が生じました。19~21 節「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。』ほかの者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。』」現代の私たちに対しても、主イエス様は、「わたしは永遠の救いの門である。良い羊飼いであり、あなたがたの罪の身代わりとして十字架で死んだ、良い羊飼いである。あなたは、私を信じるか。それとも耳を貸さず信じないか。」

最後に、ティム・チェスターという方の「結んだ実が語ってくれる真理」という内容を受け留めます。「わが家の倉庫には、いろいろな種類の種があります。今年の春に、倉庫を整理していたら、古くなって変質してしまった種がありました。私は、倉庫の中で、種を手に乗せ、しばらく眺めていました。きちんと分類していなかったので、どれがまだ芽が出る種なのか、分かりませんでした。だからといって、そのまま全部を捨てるわけにはいきませんでした。まだ芽を出す可能性があるからです。生命力のある種を見分ける方法は、ただ一つ、種を土に蒔いて、水やりをすることです。そのようにして観察してみると、芽を出して実を付けたものもあれば、育たないものもありました。種ではなく、実をつけることに意味がありました。種を見分ける労苦は、無駄ではありませんでした。

すべての働き人が、正しい福音を伝えるなら、どれほどすばらしいでしょうか。しかしサタンは、真理の中に、偽りを混ぜる戦略をよく用います。それによって、だれが神様に選ばれた働き人であるか分からなくなったとき、彼らの結んだ実を見ればよいのです。時間を置いて見守っていると、偽教師たちは、堕落した行いをさせる偽りの教理を教えていることが分かります。もしご聖霊によって与えられた命である人なら、言葉や生き方に福音が現れます。福音を聴いた私たちの目標は、ただ正しいことを信じることに止まってはなりません。信仰によって、敬虔な人生の実を結ぶところまで、行かなければなりません。私たち一人ひとりが、永遠のいのちの実を結ぶ、真理の模範にならなければならないのです。」

主に愛されている皆さん、主イエス様を、永遠の門、また良い羊飼いと信じて、ご聖霊によって、救いと、良き生活の実を結んで行きませんか。お祈り致します。

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