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  • 執筆者の写真CPC K

2022 年4 月12日 受難週祈祷会 火曜日

ヘブライ人への手紙12 章1~3 節 ヨハネによる福音書18 章28~40 節

「信仰の創始者であり完成者であるキリストとピラトの尋問と死刑判決」


2021 年に東京オリンピック、パラリンピックが開催され、また今年は冬期北京オリッンピック、パラリンピックがありましたが、メインスタジアムをどうするかということが課題となっていました。以前ローマを訪れた際に、コロシアムという円形劇場に行く機会がありました。古くから巨大なスタジアムがあったことに驚かされます。

今日の御言葉であるヘブライ人への手紙では、信仰者の歩みを、競技者にたとえて語られています。そこで競技をしているのは、私たちであり、観客席にいるのは、歴代の信仰者たちです。12 章1 節では、「おびただしい証人の群れに囲まれている」とあります。原文のギリシア語では、「おびただしい」とは「雲のような」という言葉が使われています。ですから雲のような証人というふうに訳している聖書訳もあります。

雲のようにとは、軍勢に対する優れた古典的な慣用語であり、巨大な群衆とか多数の人々を表します。旧約時代のアベル、エノク、アブラハム、イサク、ヤコブ、新約時代のパウロやペトロ、マタイやヨハネ、あるいは、カルヴァンやルター、ジョン・ウエスレーなどの人々が証人として、観客席に座って、後の時代の信仰者の信仰の走りを、かたずを飲んで、見守っています。

先のローマの円形劇場でありますコロシアムでは、オリンピックやパラリンピックのような健全なスポーツだけがなされていたわけではありません。ローマ帝国がキリスト教を迫害していた時代、ローマの市民が、観客席に座って、キリスト者が迫害されて殺されてゆくことを見ていた時もありました。動物の毛皮をクリスチャンたちに被せて、猛獣が解き放たれ、かみ殺される様子を見世物として見ていたのです。

ヘブライ人の手紙の最初の読者たちは、迫害の中で、信仰の歩みにプレッシャーや圧力がかけられ、自分に定められている競争に対して、忍耐できなくて、背教の危機に直面していました。その際に、ヘブライ書の著者は、信仰の競争を忍耐強く走り抜くために、信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストを見つめよ、目をそらすな、よく考えなさいと励ましています。

私たちが信仰生活を忍耐強く最後まで走りぬく為には、今日の御言葉から6 つのことを、ご一緒に受け留めていきたいです。第一に、信仰生活には、決勝点があります。競技をする者は、やみくもに走るわけではありません。目標とゴールがあります。決勝点に向かって、ひたすら走り続けるわけです。信仰の競技の目標は、天の御国で神様と共に住むために招かれることです。使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙3 章12 節以降で、目標を目指して走ることを次のように言っています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」私たちの信仰生活には、目標と決勝点があります。やみくもに走っているのではなく、信仰のゴールが天にあるのです。

第二に、信仰生活には、励ましがあります。雲のような、おびただしい信仰者が応援しています。サッカーは11 人で一チームの競技ですが、12 人目がいて、それは応援するサポーターであると言われます。応援や励ましが、選手に力を与えます。それは選手が11 人ではなく、12 人いるようなものだと表現されます。同じように、雲のような、おびただしい証人が、私たちにエールを送っています。

第三に、信仰生活には、障害物があるということです。12 章1 節の後半に「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」となっています。すべての重荷とは、それ自体は罪ではありませんが、習慣、娯楽、人間関係、落胆や悲嘆という重荷があります。落胆や悲嘆によって、聖潔と奉仕から引き離そうとする重荷があります。

加えて障害物として、絡みつく罪があります。罪を犯すとは、神様に背き、神の律法に従わないことです。誘惑に乗ったり、限度を超えた欲望に走ったり、そして妬みや傲慢など、絡みつく罪をかなぐり捨てる必要があります。競技をしている人の服装は、実に軽装です。物を沢山持っていません。すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨ててこそ、走り続けることが出来ます。

第四に、信仰生活には、推進力があります。それは困難を克服してゆく信仰による忍耐力です。忍耐とか辛抱は、自分の信仰の場に固く踏みとどまることです。さらに言えば信仰の競技を走り続けることです。単に肉の力による忍耐ではなく、信仰による忍耐です。コリントの信徒への手紙一13 章7 節で使徒パウロは、愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と言っています。忍耐の忍と耐の間に、すべてを信じ、すべてを望みと入れています。忍耐というハンバーガーのように外側のパンの中に、すべてを信じ、すべてを望みという中身を入れたサンドイッチのようになっています。

ただ単に忍耐なら、ただのパンだけで、霊的なハンバーガーやサンドイッチになりません。キリストを信じ、キリストにある望みこそ、ご聖霊が私たちに与える忍耐です。

かつて旧約時代のモーセは、肉の力で、民を救おうとして失敗しました。しかし40 年後、荒野で燃え尽きることがない柴に出会いました。ご聖霊の火で歩むことこそ、燃え尽きずに継続できます。ご聖霊によって、信仰と望みに生き、耐え忍ぶのです。ローマの信徒への手紙5 章3 節以降「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

これは迫害に対して、忍耐することばかりではありません。信仰生活は忍耐です。忍耐の過程・プロセスを経ずに信仰を持ち続けた人は、一人もいません。忍耐は愛であり、忍耐は、待ち望むことでもあります。相手の失敗や咎、隣人の欠けや弱さに対して、主にあって忍耐して受け入れる。またやがて成長することを主にあって、忍耐して待ち望みます。そして最終的に待ち望むものは、天の御国、天の都です。

第五に、信仰生活には、模範があります。それは信仰の創始者であり完成者である主イエス・キリストです。主御自身は、前にある地上的な喜びを捨てて、恥をいとわないで、十字架の死を耐え忍び、父なる神の右の座にお座りになりました。私たちが気力を失い疲れ果ててしまわないように、イエス様御自身が罪人たちの反抗を忍耐されたことを忘れてはなりません。反抗した罪人の中に、私たち一人一人が入っています。私たちが忍耐する前に、イエス様が、私たちの罪を忍耐してくださっています。私たちは、自分が隣人に対して忍耐していると思っていますが、しばしば自分も他の人から忍耐されていることを忘れがちです。ましてや、イエス様が、私たちの罪と未成熟に対して、愛ゆえに忍耐しておられることを忘れてはなりません。さらに言えばイエス様の忍耐は、私たちを罪と滅びと悪魔から救い出す為でした。ある方のポイム・詩です。「われらがすべての望みの消えゆく時、われらの手は人のために、働き続けることこそよけれ。そは忍耐の力は、義務遂行の中に見出される。他人を喜ばすために生くることを学ぶ人は、自らの心の痛みを、癒し得る最善の人なり」主は忍耐を持って走り続ける最善の模範であり、その忍耐は、神の御心に沿って、隣人を愛し、救うためでした。その模範であるキリストに、ご聖霊の力と愛の実を祈り求めて、倣ってゆきます。

第六に、信仰生活には、同伴者がいます。キリストは、復活された後に、父なる神の玉座の右、すなわち栄誉と権力の場に座って、天と地を支配されています。そのキリストが、ご聖霊によって、信仰者である私たちの同伴者として、共にいてくださいます。このお方が共におられるのに、その重荷を自分だけで背負っていませんでしょうか。あなたの重荷を同伴者なる主イエス様にお委ねしませんか。主イエス様は、共に、その軛を負ってくださいます。

この主イエス様と共に、くびきを負います。あなたの重い荷を、共にいてくださる同伴者なる主に委ねませんか。マタイによる福音書11 章28 節以降「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

キリストは、神でありながら人となられて最大の謙遜、謙卑と恥辱の中を歩まれました。その後、最大の高挙と栄誉を受けられました。このお方から、目を離さず、よくこの方を黙想し続けましょう。キリストの生涯、その愛と教え、御業と人格、贖いの死と復活、そして天の座を仰ぐように。

それはキリスト以外のものから目を離すことです。ボンヘッファーという牧師が、主に従うことは、キリスト以外のものを見ないということであると言っています。主イエス様にのみ目を向けて、主の愛に引かれて走る者は、平安の約束があります。その平安は、謙遜、忍耐、愛、永遠を得ることにつながってゆきます。すなわち闇から光へ、悲嘆から喜びと歓喜へ、呪いから祝福へ、地から天へと導かれてゆきます。

あるケアーホームの理事長の証です。「若いときは、自由に憧れていました。自分がどこにでも羽ばたいて行ける。誰からも、何からも、親とか、先生から束縛されたくない。自分の意のままに生きたい。そんな学生時代、『聖書に従って生きる。神様に従って生きる』などトンデモナイことでした。歳をとってくると、自分の人生が如何に縛られていることが分かりました。自分の成功体験、自分の納得している知識、自分の信念、思い込み、好き嫌い、自我、家族、社会、仲間、そんなものに、がんじがらめにされて生きていることに気付きました。そんなものが自分にとって『真実であり、それが自立していること、大人になった証拠である』と思っていました。ところが、それが自分の行動を制約している壁でした。壁を壊して自分の可能性を拡大しようと自由を求めてみると、自由はつくづく寂しいものだとわかりました。

今、天地を造られた神様、神様の言葉である聖書に従って生きること、神様がなさろうとしている計画の中に生きようとしている自分が、自由で安心の中に居られることを感謝しています。

絶対的真理に従って生きる、神様の大いなる愛の中に生かされている、安心感、温かさを感じることができるようになりました。

目に見える物、触れるもの、聞こえるもの、味わえるもの、自分に感じるもの以外のものが存在していることが、分かるようになってきました。科学的に証明できない、理屈でわからない、神様が存在している。とてつもない大きく、広く、深くその大いなる力によって私が生かされていると思えるようになりました。」

ポンテオ・ピラトからの尋問の中でも、黙々と私たちの救いと苦難の為に、まっすぐに十字架の受難に向かって行かれたイエス様です。このキリストを見つめ黙想しながら、キリストに似た者として、ご聖霊によって、造り変えられ続けて頂けますように。そして神様の御心を、ご聖霊の力に預かって成し遂げ、信仰の競争を忍耐強く走り抜いて行きませんか。

お祈り致します。

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