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2022 年4 月14 日 受難週祈祷会 木曜日

ヘブライ人への手紙12 章14~24 節 ヨハネによる福音書19 章6~16a 節

「すべての人との平和と聖なる生活とキリストの十字架」

牧師 松矢龍造


私たちを悩まし、隣人を汚し、神様からの祝福を妨げるものとは何でしょうか。その一つは苦い根です。「根」とは、原文では、根元、物事の源泉、先祖と訳せるものです。それが苦くなることです。物理的な苦い根は、よく放射能に適応されることがあります。ロシアのチェルノブイユ、福島原発からもれる放射能は、何十年にわたって、人間を苦しめます。さらに、もともと苦い根という表現は、旧約聖書の申命記29 章17 節からの引用です。「今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない。あなたたちの中に、毒草や苦よもぎを生ずる根があってはならない。」ですから、霊的には、苦い根とは、「偶像礼拝」あるいは「背教」のことです。そして先祖や家族との関係における苦い根にも適応されます。過去における先祖や親からの虐待などは、苦い根となって、私たちの内面と関係を蝕みます。物理的な苦い根、霊的な苦い根、家族との苦い根が、私たちを悩まし、隣人を汚し、神様の祝福を妨げます。

さらに私たちから希望を失わせるのは、一時的なものに固執することです。当時のヘブライ人たちが、ユダヤ教からキリスト教に回心すると、地上の神殿から締め出されました。その後ローマ帝国によって、エルサレムの都と、神殿は破壊されました。愛する都エルサレムと、神殿が地上から抹殺されてしまったのです。キリスト者たちは、これら二重のことによって、四散され、流浪し、寂しく、その歌声は、小さく、かすかなものとなりました。

もし地上のものに執着しているなら、彼らは地上の生活の中で絶望するだけです。旧約時代のエサウという人物の例が、今日の御言葉において取り上げられています。エサウは、目に見える地上の世を大切にするあまり、永遠の御国の嗣業を失ってしまいました。いわば、一時的なものと引き換えに、永遠のものを失ってしまいました。後にエサウは、自分が失った物のために、泣き悲しみました。しかし犯した罪の為に泣き悲しんだのではありませんでした。

地上のものに執着していると、失われた地上のものを見て、絶望してしまいます。しかしこのヘブライ人への手紙は、地上で消失した地上のエルサレムと神殿に対して「生ける神の都、天にあるエルサレムと神殿」を高く掲げています。地上における貧困と孤独の環境の中で、「無数の御使いたちの大宴会」が近づきつつあると励ましています。すなわち地上の生活の中で、天の御国をはっきり仰ぎ見よと、私たちを招いています。

神学校の同僚であった牧師が、天に召されることが少しずつ起きて来ました。葬儀礼拝などに出席しますと、地上での良い足跡と共に、天における希望が語られています。さらに富士霊園など様々な墓所で、納骨式を致しました。そこでまた、ご遺族と確認致しますことは、ここは人間の終わりの場所ではなく、天に至る門である。ここに来るたびに、復活の希望、天での再会の希望を、主イエス様の復活にあって、確信する場所としましょうと、お伝え致します。地上の平面だけの世界ではなく、信仰によって天への垂直の視点を加えて、立体的な思いを持って歩むように招かれています。日本全体が、エサウのように、この世の一時的なものだけを求める思想で動いていないだろうか。日本の人々が、垂直な、天の視点をさらに求める社会となりますように。

それでは、私たちを悩まし、隣人を汚し、神からの祝福を妨げるものに打ち勝つためには、どのような歩みがふさわしいのでしょうか。

第一に、すべての人との平和を追い求めなさいということです。私たちは、自分のことは受け入れて欲しいと思いますが、人を受け入れようとはなかなかしません。これでは平和はつくれません。「だれでも、自分自身に熱中しており、自分の習性は忍んでもらおうとし、他の人の習性には、合わせようとはしないものである。」そのように宗教改革者の人のジャン・カルヴァンは指摘しています。

葬儀礼拝と共に、冠婚葬祭では、結婚式もあります。多くの結婚式が、この礼拝堂で行われました。新しく主にある夫婦が、これからの結婚生活において、自分のことは受け入れて欲しいが、相手を受け入れようとしないなら、平和で幸せな結婚は営めません。むしろ自分よりもまず相手を理解し、主にあって受け入れることを互いに優先することを日々学ぶ場です。この学びが身につくほど、愛と平和が主にあって、家庭の中に流れてゆきます。さらに時々住宅の完工式を執り行う時があります。そこで申し上げますことの一つは、この家の中心にイエス様を向かえて欲しいということです。キリストが見えざる家族の中心でいます時、キリストの愛が、このご家庭を包みます。キリストが、わたしを、そのままで、あるがままで、私の存在を受け入れて下った。だから、先ず主にあって隣人を理解し、受け入れ、愛し合う。これが共に住み、生活する者たちの幸せです。そして、この家に訪れる人々に対しても、くつろぎを与える場となってゆきます。身近なところから始まり、そして、すべての人との平和を追い求めることが、神様の祝福の広がりとなります。その平和は、消極的なものではなく、積極的に人と人との正しい関係を、キリストの赦しと愛によって追い求めます。私たちが多くの侮辱を忘れ、様々なことで赦し合わなければ、平和を維持することはできません。エフェソの信徒への手紙4 章32 節「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。」

第二に、聖なる生活を追い求めます。苦い根は、妬み、不一致、不品行などをもたらします。人は自分の欲求不満や恐れをも最も親しい最愛の人たちに向けて発散しやすいものです。聖なる生活には、三つの段階があります。第一段階は、主イエス様の十字架の血潮による犠牲と和解に預かって、立場と身分上においてきよめられることです。それは主イエス様の十字架と復活を信じる信仰を通して、ご聖霊なる神様が、聖別してくださいます。第二段階は、実際の生活を通して清くされることです。誘惑されるものに近づかずに遠ざかる。今あるもので満ち足りる。そしてキリストを思い見てから異性を見る。さらにだれもきよくなければ、神を見ることは出来ないとイエス様は言われました。私たちが神を見るのは、神の心の像に似せて造り変えられた者たちの目をもってのみ出来るものです。そして第三段階は、天に召された時に、完全な体を頂いて、魂も肉体も完全にきよく、全き聖別を受けたものに変えて頂けます。この三段階を、主にあって目指し、聖なる生活を追い求めます。続いて、苦い根から解放される為には、第三に、恐れから、平安な思いに変えられることです。

旧約時代、律法の石の板を、天使を通して、神様から与えられたのは、シナイ山でした。このシナイ山でモーセが律法を頂いた時は、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺されなければならない」という命令が与えられました。また燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音を、さらに聞いた人は、これ以上語ってもらいたくないと願ったほどの恐ろしさでした。そして、この様子が、あまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどでした。しかし、そのシナイ山に比べ、イエス様が十字架にかけられ復活されたシオンの山は、福音と恵みの場でした。アベル自身は正しいのに殺されました。ですからアベルの血は、「復讐」と叫びます。しかしキリスト御自身の十字架の血は、「憐れみ、赦し、平安」と叫んでいます。そこから無数の天使の集まりであり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神と、完全なものとされた正しい人たちの住むところに通じます。キリストは、新しい契約の仲介者として、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。アベルの血は、殺されたことを不当であると訴えますが、キリストの十字架の血は、罪人の罪を赦し、神に近づかせる道を開きます。最初の律法は、神が厳しい審判者であることを示し、恐怖をもたらします。これに対してキリストによる新しい契約は、喜びと平和をもたらします。

最大の幸福と、最高の善は、キリストにある喜びと平和に応えて、神様への服従の中に見出されるものです。その服従の中心は、心を尽くして神様を愛し、隣人を自分と同じように愛することです。そして偶像を捨てること。さらに苦い根を持って、家族に対して、わだかまりを持っている状態から、キリストによって心の底から、赦しと癒しを頂くことです。苦々しい思いを持ち続けるなら、自分も隣人も汚れ、神様の祝福を妨げます。

その苦々しい思いを、信頼するキリストに打ち明け、そして時に信頼できる人に打ち明けて、とりなしの祈りを頂くことが必要です。そして苦々しく思っている人を赦しますと決断します。復活された主イエス様は、私たちの苦い根を持った壊れた心を、平安と赦しと喜びの場所としてくださいます。ピカソの作品の中に、1942 年の「雄牛の頭」という造形物があります。数十億円にもなる作品です。驚いたことに、この作品は、捨てられていた自転車で作られたものです。

あるよく澄んだ冬の日に、ピカソは、一人で家の近くを散歩していました。ところが、突然、周囲の風景に全く合わないものが、彼の目に留まりました。一台の壊れた自転車でした。古くなって使わなくなったものを、誰かが捨てていったのです。彼はその自転車を家に持ち帰り、サドルとハンドルをはずし、サドルを逆さまにして、ハンドルに付けました。

それを「雄牛の頭」と名付けました。ピカソは、この作品を完成させた後、満足して「ゴミでも偉大な可能性を発見すれば、芸術品の材料になる」と語りました。捨てられていた、だれも目もくれなかった自転車が、ピカソの手によって、偉大な芸術品に生まれ変わったのです。同じように、神様は、どんな人でも変えることが、お出来になります。イエス様の御手にお委ねするなら、ご聖霊がだれでも、再創造してくださいます。そして苦い根から、キリスト愛と平安を生み出す者と造り変えてくださいます。あなたも、この十字架に、黙々と向かわれた、愛の極みなるキリストに身を委ねてゆきませんか。

お祈り致します。

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