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  • 執筆者の写真CPC K

2022 年4月11日 受難週祈祷会 月曜日

ヘブライ人への手紙11 章32~40 節 ヨハネによる福音書18 章12~27 節

「信仰の価値とペトロの否認」


今年の受難週祈祷会は、ローズンゲン・日々の聖句から、世界中のキリスト者と同じヨハネによる福音書の聖書箇所を読みます。また同時にヘブライの信徒への手紙の中から、信仰と試練についての箇所を読みます。そして私たちの信仰と試練と、キリストの受難を結びつけて、深く黙想と分かち合いと祈りの時を持ちたいと、ご聖霊様にあって、願っております。

野球の世界に、殿堂入りというものがあります。顕著な活躍をして国民的な栄誉に値するような人々が、殿堂入りをするというものです。今日のヘブライ書の御言葉には、信仰の殿堂入りをした旧約時代の人々が、信仰のモザイクのように記されています。

士師であったギデオンの信仰は、戦いにおいて、少数でも力を増加でき、たった300 人で12 万人以上の兵士に勝利することが出来る力を主から頂きました。バラクの信仰は、国々を主にあって征服し、サムソンの信仰は、内外の弱さが主によって強められ、エフタの信仰は、主にあって敵を破りました。

王の代表であるダビデは、信仰によって救いの約束を受け、預言者の代表であるサムエルは、士師でもありますが預言者の代表として、記されています。預言者ダニエルは、信仰によってライオンの口を封じ、エレミヤは、信仰によって拷問に会いました。エリヤとエリシャは、信仰によって、死者を主にわって生き返らせて頂きました。ゼカリヤは信仰によって石打にされ、イザヤは、伝承によれば、のこぎりで引き裂かれ、殉教しました。

これらの信仰による殿堂入りの人々は、大きく分けて二つに分けられます。一方は、信仰を通して、この地上において、歴史的に、将来的に展望において、勝利や癒しが与えられました。もう一方の人たちは、信仰を通して、地上では迫害受けたり殉教者となったりしましたが、垂直的、天上指向の視点に導かれ、ご聖霊によって、永遠の命を、より直接的に意識していました。

信仰を通して、どちらになるかは、その時の状況と神の選びであり、私たちの側で選べないものです。ある人は、信仰によって奇跡的に病が癒され、ある人は、信仰によって、どのような中でも平安を得て、天上の確かな報いに生かされていました。

ずっと昔に、スイスで殉教したクリスチャンについてのエピソードです。薪の山に素足で上った彼は、火あぶりの刑が執行されようとする直前、監督官に次のように言いました。「あなたの手を、私の胸にあててみてください。私はこの後すぐ火あぶりの刑で死ぬ身です。私の心臓が普段より、すこしでも早く脈打っているなら、主を否定してもかもいません。そうでなければ、私の信じる主を、あなたも信じてください。」

監督官が、彼の胸に手をあてました。殉教を目前にした彼の胸は、ベッドに横たわっている人のように静かでした。監督官は驚いて「この非凡な力は、どこから来るのか」と叫んだそうです。ジン・ジョヒョクという方が「奇跡を生きる」という中で次のように言われます。「信仰のない人にとって、死は恐ろしく、つらいものです。しかし、信仰のある人にとって、死は愛する主に出会う瞬間であり、主が備えてくださった美しく、永遠に続く家に入る瞬間です。キリストを信じる信仰は、苦しみや死の前で、私たちを大胆にさせ、永遠のいのちを得る救いへと導くのです。」

ヘブライの信徒への手紙11 章34 節に「弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり」となっています。「弱かった」と訳された原文は、無力、病気、患いとも訳せるものです。ギデオン、サムソン、エステルは、内面においても弱く、数でも弱く、立場も弱い者でした。しかし皆、信仰によって勇者となり、敵を打ち破りました。むしろ自分が強いと思っている人が、弱いのではないでしょうか。

使徒ペトロは、自分は意志が強いと思い込んでいた時に、イエス様を三度否んで逃げました。しかしその弱さを深く自覚して、信仰によって、復活の主と、ご聖霊の助けを求めたとき、強くされ、信仰の勇者に変えて頂きました。使徒パウロは、持病の病の癒しを三度、人間の側からは完全に主に求めましたが癒されませんでした。そして主イエスから言われた言葉が、有名なコリント二の12章です。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

殿堂入りをした人々は、本来、小さく弱く、欠けや、みにくさを持っていることを悟り、神様に頼って、強くされたということが正直なところでありましょう。

38 節に「世は彼らに、ふさわしくなかった」とあります。バルバロ訳では「この世は、彼らを受け入れる値打ちがなかったから」となっています。その時代、この世は、神の国の民の永久の住居にふさわしくなかったのです。彼らの時代は、彼らを、この世に住むに、ふさわしくないと者として扱いました。しかし実際には、その時代の世こそ、彼らにふさわしくなかったのです。

キリスト教の歴史の中で、殉教者の一人にポリュカルポスという自分がいました。「私は86 年キリストに仕えてきた」と勝利者ポリュカルポスは叫びました。彼は長い素晴らしい経験の後、心を変えることなく、巻き付く煙、飛び跳ねる炎の中を、天に登って行きました。これを見た人の言葉です。「私は火刑の中の殉教者を見た。炎は彼の勇気を揺れ動かすことはできなかったし、死も彼の魂に恐れを与えることができなかった。彼の強さは、どこから来るのかと私は尋ねた。彼は勝ち誇って天を見上げ答えた。『キリストがすべてだ』と。

死に至るまで忠実だった人々の霊を私に与えてください。彼らは天国への険しい上り道を登って行きました。危険、骨折り、痛みの中を、ああ、神よ。私たちに恵みを与えてください。彼らの列についてゆけますように。」

39 節、40 節、「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。」

女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。これは、神に忠実な人々は、神がイエス様を死から復活させたように、新しい命によみがえるという約束を示しています。皆キリストとその御国へと注目していたのです。

この世では、地上における最大多数の最大幸福を求め、また幸福なる家庭を求めます。しかしキリストの教えは、最大多数、最大幸福を天上に求めます。デボシーョンテキストであるリビングライフの中で、次のような内容がありました。「何年か前に、フランスのルーブル美術館に所蔵されていたミレーの『晩鐘』が1000 億円を超えたという記事が掲載されました。一枚の絵が、1000 億円を超えることは、あまりにも高すぎます。しかし解説には、このように付け加えられました。『これは価値が1000 億円を超えるという意味で、実際に売るとすれば、いくらになるか分かりません。』ではミレーの『晩鐘』は、なぜこれほど貴重なものなのでしょうか。それは一言でいうと、神を恐れ、神に祈る、聖なる霊的な美しさが、絵の中に込められているからでしょう。二人の人が一日中、仕事をし、とても疲れています。家に帰らずに夕暮れの時まで仕事をしていると、教会の鐘の音が聞こえてきます。そのとき、二人は、主の前に感謝の祈りを捧げます。彼らはボロボロの姿でした。顔を洗うこともできず、髪をとかすこともできませんでした。かごには、ジャガイモが、いくつしかありません。

しかし、主に祈り、感謝する彼らの姿には、不平不満、苦しみ、悩み、欲は、まったく見られませんでした。彼らは、神様の臨在を経験し、この世が与えることのできない深い恵みを受けているからです。実は、ミレーは、この絵を描くために、紙と絵具の値段を合わせて75 ドルしかかからなかったそうです。しかし、今は、この絵は計算できない歴史的な遺品となりました。真実に主にある家庭は、このように価値があり、尊いものです。人生最高の幸せと成功は、主の恵みの中にとどまり、感謝と満足を味わう家庭にあることを忘れないでください。」

ヘブライ人への手紙の最初の読者たちは、迫害とプレッシャーの中にあって、本当の幸とは何かを問われたと思います。私たちもまた、信仰の真の価値について、日々の生活の営みの中で、問われることだと思います。その中で、聖書は、勝利の守り札は、「神様にはできる」という信仰に立った聖徒達の姿を遺しています。また教会の礎は、殉教者の血であることを、教会の歴史は遺しています。そして主イエス様こそ、茨の冠をかぶせられ、虐待され、苦しめられた姿が、この世の歴史に刻まれています。御言葉は、主にある聖徒たちは、あらゆる時代を通じて、本質的に一つだと私たちに示しています。

以前、孫が来ている所に、私が行きますと、孫は私の足下に飛び込んで来ました。同じ情景で思い出したことがあります。以前研修に行きました米国の教会の一つであるブルックリン・タバナクル教会のジム・シンバラ牧師のことです。彼が何年か前、孫を連れて道を歩いていると、二人のホームレスがこちらに向かって歩いてきました。そのホームレスたちの、みすぼらしい姿に、孫は恐れ、小さな胸はドキドキしていました。

孫は、おじいさんの手を握っていましたが、とうとう、おじいさんの股の下に隠れてしまいました。「おじいちゃん、恐いよ」おじいさんは孫を抱いてあげた後、何も起こらないよと安心させてあげました。ホームレスたちは、そのまま通り過ぎました。シンバラ牧師は、その時、心が喜びにあふれたそうです。それは、今まで孫が自分にしてくれた、どんなに素晴らしいクリスマス、プレゼントよりも、尊いものだったそうです。

孫が、おじいちゃんを信じ、必要な時、おじいさんから自分を守り、救い出してくれるだけでなく、切実な要求を聞いてくれると信じてくれたことが、本当にうれしかったというのです。私たちの父なる神も、私たちが困難を覚える時、神の股の下に隠れることを、どんなにか喜んでくださることでしょうか。不安や悲しみ、地上での絶望的な状況の中であっても、キリストと天に望みを置いて、神様の股の下に来る者は、主への信仰の価値を悟ることでしょう。

ペトロが、大祭司の庭で、イエス様のことを三度否定した時、イエス様が預言されたように、鶏が鳴きました。イエス様は、ペトロの信仰がなくならないように祈られ、そして三度、ご自身を否定したペトロに対して、なおも慈しみの眼差しを向けられました。そして十字架への道を進んで行かれました。

ペトロは、その後激しく泣き、悔い改めの懺悔をしました。そして主の復活とご聖霊の降臨の力を頂き、殉教の死を遂げていきました。このペトロを憐れみ、祈られた主は、私たちに対しても、同様にお取り扱い下さる同じイエス様です。私たちも、信仰列伝の人々に続く者と、主にあって、ならせて頂けるような信仰による歩となってゆきませんか。

お祈り致します。

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