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2023 .1.1 基調説教『キリストに養われて献身へ』

牧師 松矢龍造


イザヤ書 50 章 4 節「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」 新年明けましておめでとうございます。今年は、一月の第一主日が、日曜日という、めずらしい年です。新年最初の主日礼拝は、今年の主題聖句と教会標語に基づく説教となります。これは今年の希望が丘教会の、基調説教でもあります。今年一年の教会標語は、「キリストに養われて献身へ」です。五か年計画の中で、弟子養育強調の年でもあります。 21 世紀の中で、ダントツのベストセラーは、もちろん聖書でありますが、20 世紀になるまで、聖書に次ぐ信仰書は、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」でした。神の御子であるキリストが人間となって地上に来られたのがクリスマスです。その時から 2000 年の間、唯一の創造主なる神様を求める人々の願いは、人となられたイエス・キリストのようになることでした。 聖書にも、私たちは、イエス・キリストのようになるために造られたとあります。ローマの信徒への手紙 8 章 29 節「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」 そして私たちは、この人となられたキリストから、私たちが創造された目的を知るのです。ですから、真の人間になるためには、キリストの弟子となり、キリストに倣いて、生涯変えられ続けることが必要となります。皆さんは、今年の目標を定められた人もおられると思いますが、それらの目標が、すべて、キリストに倣いて生きることの目的に向かっているでしょうか。キリストのようになり、考え、行動することが、あらゆる目標が目指す目的となりますように。 もともと天と地が造られ、私たち人間が創造された時、神の心の形に似せて造られたことが、創世記の初めから記されていました。創世記 1 章 27 節「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」 創造主なる神様は、霊的な存在であり、知的で道徳的な存在でもあります。同じ心の形に造られた、私たちも、霊的で、知的で、道徳的な存在として造られました。さらにその霊性と知性と道徳性は、真実な義と聖なるものとして、造られました。 エフェソの信徒への手紙 4 章 24 節「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理

に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」 コロサイの信徒への手紙 3 章 10 節「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」 現在、コロナ禍であり、ロシアのウクライナ侵攻があり、各地に不正や、差別、災害や貧困があります。これらの外面の中で、霊的にも、知的にも、道徳的にも、義と聖と正しく歩むことは困難であります。それでも、キリストに倣おうとする人々がいます。 政府の政策や、経済的な状況、自分の置かれている環境など、外的な要因によって、自分の人生の価値や目的、喜びや平安が奪い取られていると感じておられるでしょうか。 ある調査会社が、「人生に最も望むものは何ですか」というアンケートをしました。聖書を信じているクリスチャンの 90 パーセントが、神様との親密な関係、人生の明確的な目的、すぐれた倫理性、信仰深さを望んでいるという結果が出ました。これらの人生に望んでいることは、外側の要因ではなく、自分の内側によって、叶えられるものです。 どんな政府の政策でも、これらのものが叶うわけでもなく、厳しい経済的な状況も、これらの理想を奪い取ることはできないでしょう。これらの人生の目標は、神様と、神の御言葉に、心の支配をまかせ、「内なる人」を御聖霊なる神様によって強めていただくなら、実現してゆくものです。 使徒パウロは、聖書の中で、何度も「内なる人」を強めてくださいと願い、祈っています。獄中書簡の一つであるエフェソの信徒への手紙 3 章 16~19 節「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 また、あなたがたが、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさの、すべてにあずかり、それによって満たされるように。」 それでは、どのようにしたら、キリストに倣いて、成長し成熟してゆくことが出来るのでしょうか。それは、先ず、イエス・キリストを、神の御子、私の救い主として、信じて、キリストを心の中に迎え入れることです。そして続いて私たちの心が、御聖霊によって、価値観や、人生の目的を、質的に新たに、一新させていただくことです。 ローマの信徒への手紙 12 章 2 節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」 さらに心が御聖霊によって一新され、新しくされたなら、自分の肉の考え方を捨てること。そして神様の御心に、日々、瞬間、瞬間、合わせる必要があります。私たち人間が、真に生きて行くためには、パン以上のものが必要です。マタイによる福音書 4 章 4 節「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 私たちは、キリストの弟子として、朝毎に、神様の言葉と、御聖霊の力を必要とし、真理

の御言葉と、真理の霊である、御聖霊によって造り変えられ続けることが必要となります。ある方は、霊的な成長とは、偽りを、真理に置き換える過程・プロセスだと言っています。 主イエス様は祈られました。「真理によって、彼らを聖別してください。あなたの御言葉は真実です。」キリストのようになるためには、私たちの生活が、真理の御言葉によって、満たされることが必要です。神様の御霊様が、神様の御言葉を用いて、私たちを御子に似た者 として、造り変え続けてくださいます。 粗削りであったペトロ、三度主を否んだペトロは、成長してゆきました。その使徒ペトロが手紙において言っています。ペトロの手紙一 2 章 1 節 2 節「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」 神様の御言葉に対して、私たちは、第一に、心を開いて、神様の御言葉に耳を傾け、しっかりと受け留めることです。第二に、一生涯、聖書を読み続けるということです。一日 15 分、四章読めば、一年で聖書が創世記から、ヨハネの黙示録まで読むことが出来ます。あなたは、洗礼を受けて何年ですかと問われたなら、その年数分、聖書通読の回数とすることが、キリスト者の標準です。 新約を読んでいたら、旧約聖書の関連が思い出せるように、逆に旧約聖書を読んでいる時に、新約聖書の御言葉が、関連付けられるようになってゆく。それが聖書通読を繰り返す恵みです。 第三に、聖書を研究することです。それは、他の信頼できる著名な歴史上の人々が、どのように、その御言葉を解釈し、受け留めたかを学ぶのです。一人では限界があります。聖書は、教会の中で読んでいかないと、私的な誤った解釈に陥ります。また適切な、聖書の副読本として、信頼できる註解書や、解説書が有益です。 第四は、神様の御言葉を、覚えることです。それは、聖書を生活の場面で、適応することに役立ってゆきます。第五に、神様の御言葉を、思いめぐらし、黙想することです。聖書の原則は、自分の生活に適応するものです。第六に、それを実際に、御聖霊の力を祈り求め、実行することです。 聖書を学んだり研究したりすると、あたかも行ったかのように、錯覚してしまう危険があります。どれほど学んだかでなく、どれほど実行したが重要です。著名なD・L・ムーディが、言われています。「聖書が与えられているのは、知識を増やすためではなく、人生を変えるためなのです。」 そして第七に、学び、行ったなら、召されているなら、教え分かつことです。律法学者エズラの言葉です。エズラ記 7 章 10 節「エズラは主の律法を、研究して、実行し、イスラエルに、掟と法を、教えることに専念した。」 人となられた、キリストのようになるために、私たちは造られました。しかし人類の初めに堕落して、神の心の形は、崩れています。キリストと、その御言葉を信じて、御聖霊によって、神様の心の形に、再生され続けることが必要です。弟子養育強調の年として、この年、祈りと御言葉と御聖霊によって、主の弟子として、成熟してゆく、個人と教会共同体となり

ますように。

最後に、イム・ドンスという宣教師の方の「受け入れられる理由」という内容を受け留めます。「パラグアイの人々は、『私たちは世界腐敗 2 位だ』と笑いながら言います。パラグアイでは、ほとんどのことが、裏金がなくては進みません。自分たちは『世界腐敗 1 位』だったのに、その 1 位の座も、お金で売り飛ばしたと言うくらいです。

その腐敗のトップは誰かというと、公務員たちです。彼らは、仕事の処理を依頼した者に、1 日中、部署を回すだけでは足りず、周辺都市の公官庁周りをさせ、挙句の果てには、お金を要求しました。人種差別や陰湿な嫌がらせに巻き込まれて、外国人宣教師として、生きることが辛くなることが、たびたびあります。

人からは解決策は得られないことを知っているので、主の前に出て、傷ついた心を打ち明けるだけです。主が、どのように慰めてくださるか期待していた私の心に響いたメッセージは、簡単なものでした。『わたしが、あなたを見るとき、そのような思いになるのだ』。私が不正をなす彼らを見ながら、感じるやるせない思いを、主が私を見るたびに、感じておられるというのです。私の弱さと罪深い姿に、主も心が折れると言われるのです。

『私は、この状況を、一体だれのせいにしていたのか。主の前で、彼らより、私の方が、よほど罪深い者であったのに』。私がため息をついていると、主は、このように言われました。『それでも、あなたが彼らを受け入れたように、わたしも、あなたを受け入れ、赦しているのだ。』心が傷ついて失望し、意欲を失ったとき、主が希望の種を芽吹かせ、みこころを成し遂げられることを信じて、私は再び、主を見上げます。」

神様に愛されている皆さん、主イエス様は、十字架によって、私たちの存在を、あるがままで、そのままで、愛して受け入れてくださいました。その愛に応えて、あるべきキリストの似姿に、祈りと、御言葉と、御聖霊によって、変えられ続ける一年となってゆきませんか。最後にコリントの信徒への手紙二 3 章 18 節を拝読して閉じます。「わたしたちは皆、顔 の覆いを除かれて、鏡のように、主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ

姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」お祈り致します。

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