2023.1.15ヨハネによる福音書 16 章 1~15 節「御聖霊なる神様の働き」
- CPC K
- 2023年1月21日
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牧師 松矢龍造
起 神の御子イエス様は、人となって来て下さり、私たちの罪の為に十字架につけられ、陰府に下り、三日目に復活されました。その後、40 日間にわたって、男性だけで 500 名以上、女性と子どもたちを加えたなら、2000 人以上の人々に、復活されたお姿を現わして、証をされました。その後、オリーブ山より、天に昇られました。 この時、天に昇らず、ずっと地上に留まっていてくださったらよかったのに、どうして、天に昇られたのですかと、質問される時があります。皆さんなら、どのように答えられるでしょう か。
マーシュー・ヘンリーという聖書学者が、次のように言われます。「御聖霊なる神様が、わたくしたちと共にいますことは、人となられたキリストが、共にいてくださることにまさって、大いなる慰めと、また益となります。 なぜかと言いますと、人となられたキリストは、ただ一か所で、少数の人を相手にしかできませんが、御聖霊なる神様は、同じ時に、各所で、多くの人々を、導き保護することがお出来なるからです。」 承 ヨハネによる福音書 14 章 16 節では、御聖霊なる神様は、父なる神様から遣わされるとなっています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」一方、15 章 26 節では、神の御子イエス様が、御聖霊なる神様を遣わされるとなっています。15 章 26 節「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」 ですから、御聖霊なる神様は、父なる神様と、御子なるイエス様の両方から、復活されたイエス様が天に昇られた後、遣わされるということです。復活されたイエス様は、天に昇られ、父なる神様のそばで、天の御国すなわち神の国を治めるために、父なる神様のもとに帰られました。それはまた、父なる神様と共に、御子イエス様が、御聖霊なる神様を、世の終わりまで、キリストの再臨の時まで遣わされる為でもありました。 転 それでは 16 章 1 節をもう一度拝読いたします。「これらのことを話したのは、あなたがたを、つまずかせないためである。」ここで「つまずかせないため」と訳された原文の言葉は「信仰が挫折しないようにするため」という意味でもあります。イエス様を信じると、世から受け入れられることがない場面も出てくることを、あらかじめ伝えておかれたのです。 むしろイエス様を信じることで、キリストが迫害されたように、キリスト者も、世からプレッシャーや圧力をかけられることがあります。それは当然であるので、驚き、あやしむことのないように、イエス様は、あらかじめ伝えておかれました。 2 節「人々は、あなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」この時、ユダヤ人指導者たちは、イエス様を信じるようになった人々を、ユダヤ人共同体や、会堂から追放すると脅していました。そして追放することは、自分が神に奉仕していると、勝手に考えて行う時が来ると言われています。 後に使徒パウロになったサウロは、キリストを信じている人々を捕まえて牢に投げ込む、すなわちキリスト者を迫害することは、正しいことであると思い込んで行っていました。使徒言行録9 章 1 節 2 節「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出した ら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」 ところが、ダマスコ途上で、復活されたイエス様と出会って、悔い改めて、造り変えられ、キリストの使徒となってゆきました。この時のことを、何度も使徒パウロは回想して語っていま す。使徒言行録 26 章 9~18 節「実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。 そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。 また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。 私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に、恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」 続いて3節 4 節前半「彼らが、こういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」 イエス様が十字架にかかり、復活され、ペンテコステの時に、真理の霊である御聖霊なる神様が降られた後に、弟子たちは、イエス様が言われていたことを思い出しました。 4節後半「初めから、これらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたか らである。」イエス様が、地上におられた時には、イエス様が助け主でした。また真理の御霊様が来られないと、一度に語っても、弟子たちには理解できないから、多くを語られませんでした。5節「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。」 弟子たちは、イエス様ご自身の死について、尋ねてはいましたが、その意味については、考えていませんでした。むしろ弟子たちは、自分たちのことばかり考え、自分たちのことを心配していました。 6 節「むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」「悲しみ」と訳された原文の言葉は、「憂い」「悲嘆」「苦悩」「苦痛」という意味でもあります。イエス様が、死なれることは、この時、弟子たちにとって、悲しみ、憂い、悲嘆、苦悩、苦痛以外の何ものでもなかったのです。 私たちにとっても、キリストの十字架と復活がなかったなら、苦難や悲嘆は、空しいだけで す。しかし私たちの苦悩や悲嘆が、キリストの十字架と復活と、結び合わされた時、初めて重要な意味あるものとなってゆきます。 かつてノーベル平和賞を受賞されたマザーテレサさんの言葉に「苦しみ」というものがありました。「苦しみは、それ自体としては意味を持ちません。キリストと共に苦しまれた時、初めて意味を持ちます。」この悲しみや苦しみと、キリストを結びつけることを助けるのが、御聖霊であ り、それは、一部の弟子ではなく、世界中のキリスト者に及びます。
7節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
弁護者とは、原文では「助け主」という意味でもあります。イエス様が、地上から天に去って行くことは、イエス様が、御聖霊を通して、全世界に、ご臨在できることを意味していました。 8~11 節「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明ら かにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについとは、この世の支配者が断罪されることである。」
真理の御霊様が、私たちを教えてくださいます。御聖霊なる神様は、この世の罪について、いかに間違った考えを持っているかを示されます。イエス様を信じないことは罪です。そして世に自分たちの罪を悟らせ、悔い改めへと導かれます。
また、イエス様が、義であり聖なる使命をもっておられたことが、イエス様の復活と昇天によって証明されます。そして御聖霊は、信じる人々に、神の義の基準を明らかにし、正しい生き方を示されます。
さらに、裁きについては、この世の支配者である悪魔と悪の勢力が断罪され、裁かれることです。イエス様の十字架は、サタンへの裁きの場でもありました。
12~13 節「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせ る。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」
イエス様は、真理であるので、真理であるイエス様を証しする故に、御聖霊は、真理の霊と言われるのです。真理の御霊様は、私たちに、イエス様の人格と、教えの言葉と、業の意義について悟らせてくださいます。そして特に、私たちを真理に導く内容は、次のことです。
すなわち私たちが、自分の罪を告白し、キリストを信じるなら、父なる神様は、私たちが義であると宣言し、私たちを、罪の裁きから救い出してくださいます。
結
15 節「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
ここに、父なる神様と、わたし、すなわち御子イエス様と、その方、すなわち御聖霊なる神様と、この三者の三位一体が伝えられています。私たちの救いは、父なる神様の愛による選びと、御子の十字架と復活、そして御聖霊の導きと適応において、私たちに臨みます。
あなたも、この三位一体の主による救いを求めませんか。そして父と子と聖霊なる神様と、私たちとの交わりが、いかに素晴らしいかを、証してゆきませんか。お祈り致します。

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