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2023.1.22ヨハネによる福音書 16 章 16~24 節「悲しみを喜びに変えるイエス様」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2023年1月21日
  • 読了時間: 7分

牧師 松矢龍造


かつて瞬き詩人として知られた、クリスチャンである水野源三さんの詩集の一つに「わが恵み汝に足れり」があります。その中で、悲しみに関する詩があります。

水野源三さんは、子どもの頃、発熱によって手足と口の機能を失ってしまい、寝たきりの人生を余儀なくされた方です。そして聖書を読み、キリストと出会い、「あいうえおの五十音表」から、瞬きによって、母親に伝えて、紡いだ信仰の詩集です。

「悲しみよ悲しみよ、本当にありがとう、お前が来なかったら、つよくなかったら、私は今どうなったか、悲しみよ悲しみよ、お前が私を、この世にはない、大きな喜びが、わからない平安がある、主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ」

私たちの悲しみが、イエス様と結び付けられる時、喜びに変えて頂けます。今日の御言葉は、明日、主イエス様が十字架につけられる、最後の晩餐での、告別説教の続きです。

弟子たちは、明日、イエス様が十字架につけられというのに、その時になっても、なおイエス様が言われる言葉が分かりませんでした。イエス様は、気の遠くなるような忍耐と、深い寛容によって、弟子たちに語りかけておられます。

16 節「しばらくすると、あなたがたは、もうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」ここで、「しばらくすると、あなたがたはもう、わたしを見なくなる」とは、イエス様が、十字架で死なれて、見えなくなるということです。

そして「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とは、三つの意味を込めていると考えられます。

一つは、イエス様が、十字架につけられ、墓に葬られ、陰府に下り、三日後に復活して、見えるようになるということです。二つ目に、天に昇天された後、世の終わりに再び来られる故に、見るようになるということです。そして三つ目に、天に昇られた後、10 日後に、ご聖霊が降臨されて、御聖霊によって、イエス様と霊的にお会いできるということです。

17 節 18 節「そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。また、言った。『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」

イエス様は、かつて何度も、御自身の十字架の死と復活を、語って来られました。しかし真理の御霊様が来られないと、弟子たちも、私たちも、イエス様の言われたことが分からないので す。

19 節 20 節「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

イエス様は、御自身が十字架上で死なれた時の、弟子たちの悲しみと、不安のことを言われています。ここで「悲嘆に暮れる」と訳された原文の言葉は、「死者のために嘆く」あるいは、「弔いの歌を歌って大声で悲嘆する」という意味でもあります。しかしながら、イエス様を信じない者や、この世は、イエス様を殺して喜ぶのです。

21 節「女は子どもを産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が、世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」

イエス様の死なれた時の悲しみは、女性の産みの苦しみに匹敵すると言われています。しかしイエス様の復活や再臨、御聖霊による臨在を見たら、喜び、その苦痛を思い出さないほどであるということです。

22 節「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」

イエス様が、与える喜びは、この世が与える喜びとは違い、誰も奪い取ることの出来ない喜びです。かつて 6 世紀に、七つの大罪は、色欲、大食らい、拝金主義、怠惰、復讐、嫉妬、高慢とされました。しかし4世紀には、七つの大罪に加えて「悲しみ」が含まれていました。

長い時間が経つにつれて、「悲しみ」は、大罪のリストから、省かれていきました。生まれつき、明るい性格の人がいます。そういう人は、歯磨きのコマーシャルにも出ているかのように、常に白い歯を見せて、幸せそうに笑っています。その一方で、いつも悲しそうな人もいます。彼らは、生活や人生の重荷について、いつも苦しんだり、悲しんだりしています。悪いことが起これば、落ち込んでしまうでしょう。

ところがイエス様によって、悲しみから喜びに変えられることは、この世からのものではな く、誰も奪い去る者がいないものです。見せかけでも、人間の力によるものでもありません。イエス様の与えられる喜びは、すべてのクリスチャンに約束された贈り物です。ガラテヤの信徒への手紙 5 章 22 節「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、」。

続いてヨハネによる福音書 16 章 23 節「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」

ここで「その日」とは、万物が、イエス様によって完成されて、主を信じる者たち皆が救われる日に、神の御心が全て明らかになる時のことです。

さらに「わたしの名によって」とは、主イエス様の弟子として、ということでもあります。主イエス様は、父なる神様と、私たち人間の間で、仲保者となられました。ですから、主イエス様の御名によって、祈ります。それは、私たちに与えられた賜物であり、特権です。

イエス様が、地上におられた時には、イエス様が共におられたので、イエス様の御名によって祈る必要がありませんでした。ですが、天に昇られたので、イエス様の御名によって祈ることが必要となります。

宗教改革者の一人、マルチン・ルターは言われます。「わたしたちの祈りが、もし私たちの自らの価値に上になされたものなら、たとえ私たちが血の汗を流して祈りに勤めるとも、それは無価値である。」キリストが救いをもたらす故に、主の名によって求める者に、救いが与えられます。

24 節「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

主イエス様によって、新しい時代が始まり、今や、すべての信者は、父なる神様に、自ら親しく直接、話をする新約の祭司とされています。また御聖霊によって、直接、神様の聖言を教えていただけます。喜びで満たされる。原文では、「満ち溢れる」「充満する」という意味でもあります。喜びが満ち溢れるとは、特別に、御聖霊の充満を受けるということでもあります。

古代の神学者であるアウグスティヌスは言われます。「キリストは、父なる神様のもとを去って世に来てくださったけれども、全く父を離れることはありませんでした。また世を去って、父なる神様のもとに帰られましたが、全く世を離れることはありませんでした。」

御聖霊によって、世の終わりまで、私たちと共にいてくださいます。そして私たちの今の悲しみは、後に、永遠の命の喜びに変えられます。

私たちは、主イエス様の十字架と復活、昇天と御聖霊によって、親しく神様に近づくことが出来ます。そして地上での悲嘆や苦悩を、喜びと平安で満たして頂けます。ヘブライ人への手紙 10 章 19~23 節「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。

イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですか ら、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」

最後に、冒頭の水野源三さんの詩集の中から、「キリストの愛に」という詩を拝読して閉じま す。「粉雪が降りしきる暗い夜道を、新聞紙に包まれて、はこばれて来た花束が、石油ストーブに暖められて、春のよき香りをはなつ、冷え切った人の心も、キリストの愛に暖められて、愛の香りをはなつ」

神様に愛されている皆さん、どんな人も、キリストの愛によって、悲しみから、喜びに変えて頂けます。その喜びを、奪い去る者は、誰もいません。あなたも、キリストによって、父なる神様と交わり、御聖霊によって、永遠の喜びと、永遠の命に預かって行きませんか。

お祈り致します。


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