2023.1.8ヨハネによる福音書 15 章 18~27 節「助け主であり真理の霊である御聖霊なる神様」
- CPC K
- 2023年1月21日
- 読了時間: 8分
牧師 松矢龍造
起
今日の第二礼拝は、今年、成人になる人たちの為に祝福を祈る時でもあります。大人になるこ権利も増えますが、同時に義務と責任も増してゆきます。さらに子どもたちに対しては、良き模範となることが必要です。ただし世は、正しい人たちや、信心深い人たちを歓迎してくれるだけではありません。
悪や不信仰をなす人たちは、正しく歩む人や、信心深い人たちを憎んだり、迫害したりしてきます。世の人々は、自分と同じように生きている者を愛します。ですから、不正をなし、神を退ける人たちは、自分と同じように生きている人は愛しますが、正しく、信心深く、敬虔に生きている人を憎むことも、忘れてはなりません。
承
加えて、人となって、この世に来られた神の御子イエス様に対して、世は迫害して十字架につけました。ですから、キリストに属する者たちをも、憎むことも、わきまえている必要があります。誰でも、信心深く、敬虔に生きるなら、迫害を受けて、世からプレッシャー・圧力を受けます。
今、キリスト教会に迫害がないのは、必ずしも良い兆しではありません。創造主なる神様にして、救い主なる神様に対に対して、忠実に生きるなら、悪魔や世は、ほっておきはしません。必ず、プレッシャー・圧力や迫害をしてきます。それらがないとしたら、神様に従うことより、世に倣う方が多いかもしれないと、自己吟味が必要となります。
しかしキリストを信頼して従うなら、復活のキリストと、御聖霊なる神様が、必ず力と、愛 と、希望を与えてくださいます。そのようにして 2000 年間、キリスト教徒たちと教会は、迫害が強ければ強いほど、勢力が増してきました。殉教の血が流されるなら、大いなる霊的な復興である信仰のリバイバルが起こされてきました。キリスト者には、栄光と苦難の両方が、キリスト者としての相続財産となっています。
転
それでは、15 章 18 節をもう一度拝読致します。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」
ここで「世」と言われているのは、この世に暮らす人々のことであり、彼らを支配しようとする悪の勢力のことです。この世が、キリストを信じ従う人たちを憎むなら、その前に、キリストご自身を憎んでいたことを覚えなさいと言われています。キリストとキリスト教徒の一体性が、暗に語られており、キリストを憎む人がいれば、クリスチャンをも憎むということです。
19 節「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」
人が悪の勢力に属しているなら、悪の勢力たちは、その人を身内として愛します。しかし世に属さないなら、世は、その人を憎んできます。主キリストが、弟子たちを選び、任命されたことによって、弟子たちは、もはやこの世に属さない者たちとなっています。
20 節「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。」
僕なる弟子たちは、主人であるイエス様が十字架で苦しみを受けたほどに、激しい苦難を受けることはないでしょう。しかし主イエス様ほどではないとしても、迫害やプレッシャーを受けます。逆に、主イエス様の御言葉を守る人なら、クリスチャンが告げる言葉も守るでしょう。
21 節「しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。」
主イエス様に従わない、この世の人たちは、イエス様の弟子たちをも迫害いると、イエス様は言われます。そして、イエス様同様、弟子たちの何人かは、殉教の死を遂げることが示唆されています。それは、神の御子イエス様を、この世に遣わされた、父なる神様を知らないからです。
22 節「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。」
主イエス様は、人類の全ての人が、創造主なる神様にして、救い主なる神様に向かい、真理を信じる機会を与える為に、この地上に来られました。しかし多くの人々は、主イエス様の新しい教えを受け入れません。ここでは、主イエス様の教えに、心を閉ざすことが、罪と言われています。
イエス様は、これまで、神様の愛、イエス様の愛、弟子たちの愛、弟子たち同志の愛について教えられてきました。しかしここからは、弟子たちに対する世の憎しみについて、イエス様は語りだされます。
23 節「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。」神の御子なるイエス様を憎む者は、神の独り子を遣わされた、天の父なる神様を憎むことになります。イエス様を拒むなら、天の父なる神様を拒んで、この方のことが、分からなくなります。
24 節「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。」
父なる神様は、神の御子なるイエス様を通して、恵みの業をなさいました。この神様の恵み は、磁石が鉄を引き付けるように、人を天の御国に引き上げます。しかし神様の恵みを拒むな ら、ひき臼を首にかけて海に沈められるように、とこしえの滅びに陥らせます。これら二つの分かれ目となるのが、神様の恵みです。
25 節「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」悪いことをしておらず、かえって恵みの教えと業をしているのに、理由なく憎んでくることは、すでに旧約聖書に預言されていたことです。
69 編 5 節「理由もなくわたしを憎む者は、この頭の髪よりも数多く、いわれなくわたしに敵意を抱く者、滅ぼそうとする者は力を増して行きます。わたしは自分が奪わなかったものすら、償わねばなりません。」
古代の神学者テルトゥリアヌスは言います。「彼らは、クリスチャンたること以外に、何の罪もない者を苦しめている。」イエス様も、御自身についてくる者たちは、自分の十字架を負ってついてくる者であると言われています。
マタイによる福音書 16 章 24 節「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。』」
自分の十字架とは、主イエス様に従う時に起こる、様々な苦難のことを言います。世がイエス様を憎んだように、弟子たちも、世に憎まれます。世が弟子たちを迫害することは、避けられません。世は、御子を遣わされた父なる神様を知らないので、御子なるイエス様が選んだ弟子たちをも迫害します。古代の神学者であるもう一人のアフグスティヌスは言われました。「ああ十字架なきは、いかなる十字架ぞや。」
しかし人間の拒絶にもかかわらず、キリストに対する証言が途絶えることはありません。それは助け主である御聖霊なる神様が、その証言を担ってくださるからです。
26 節「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」
弁護者と訳されている原文のギリシア語は、「助け主」とも訳せる言葉です。もともとの意味は、傍らに助けるために呼び寄せられて来た者ということです。ですから力強い味方、肩を持ってくれる者、同情を持って弁明してくれる人、弁護人、執り成し人です。
この助け主は、私たちの罪を断罪しようとする悪魔に対して、私たち罪人の側に立って、弁護してくださるお方です。イエス様が、地上に来られた時は、助け主でしたが、十字架に着けら れ、復活され、天に昇られた後には、御聖霊なる神様が遣わされ、私たちの助け主となってくださいます。
力ある証をすることが出来るのは、御聖霊様の力を頂くことによってです。証の主体は、御聖霊なる神様です。ですから、祈りの力、祈って御聖霊なる神様から力を頂くことが、イエス様の弟子である私たちにとって、必要不可不可欠なものです。
27 節「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」
主イエス様との交わりをなし、また真理の御霊様を体験したなら、私たちもまた、同じくイエス様を証しする使命が託されています。
結
時に、私たちの周りには、下品な言葉を使い、肉欲に陥る人、あるいは洗練されてはいるが、自分の為にだけ生きる人々が、世の人としています。これに対して、キリストに結ばれて、キリストのようになればなるほど、キリストの苦しみに預かるようになります。
御聖霊によって、導かれた生活の証は、キリスト教の弁証論よりもずっと重要です。クリスチャンが聖い生活をするなら、無言に彼らは、咎められたと受け留めます。すると憎んできます。
主の御名に忠誠を尽くそうと、すればするほど、主イエス様と同様に、世から必ず迫害と敵意に会います。そのことを覚悟しなければなりません。ならば弁護者にして助け主にして、真理なるイエス様の霊である御聖霊に絶えず、祈り求めましょう。
御聖霊なる神様は、栄光の主イエス様に、罪人と聖徒の心を、向けさせてくださいます。絶えず、御聖霊なる神様を、歓迎し、助けと、力と、満たしを求め、その導きに従って行きません か。
最後にローマの信徒への手紙 8 章 16 節と 17 節を拝読して閉じます。「この御聖霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」お祈り致します。

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