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2023.10.1サムエル記上 10章 1~27節「神様に心を動かされる人々」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2023年10月29日
  • 読了時間: 8分

牧師 松矢龍造


神様の働きには、恐れが伴います。自分に出来るだろうか。今年も、教会の役員である長老、執事の選挙が 11 月にあります。特に最初は、自分に長老や執事の務めが出来るであろうか。あるいは小グループのリーダーに初めてなる時に、私に務まるだろうかと、不安になります。 私も牧師として召された時、按手を受けた時、恐れと不運がありました。私に務まるだろうか。25 歳の時に、最初の神学校を卒業して、東京都の花小金井にあります教会に赴任した際に、まさに思いました。あれから、40 年の歳月が過ぎましたが、ここまで牧師を続けることが出来たのは、ご聖霊の臨在と力と助けなくして、あり得ませんでした。さらに教会の兄弟姉妹たちの祈りと助けが必要でした。

今日の御言葉では、イスラエルの最初の王として、サウルが立てられることが記されています。預言者サムエルから告げられたのに、叔父には話しませんでした。また民が招集された時には、荷物の間に隠れていました。そしてならず者たちから侮られた時、沈黙を守りました。それは、謙遜であると同時に、自信がなかったのです。 主に従うなら可能です。しかし主から離れるなら、王として立つことは出来ません。人間の側の何かではありません。これを忘れると、主の働きは出来ません。神様の霊、ご聖霊の臨在と力に預かる時のみ、神様の働きが可能となります。 イエス様が、十字架につけられる為にゲッセマネの園で捕らえられた時、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げました。そんな弟子たちが、殉教を恐れず宣教が出来たのは、復活のイエス様と出会ったことと、祈りつつ、御言葉を頂き、御聖霊の力に預かった時だけです。 使徒言行録 1 章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そし て、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、 わたしの証人となる。」

それでは、サムエル記上 10 章 1 節をもう一度拝読致します。「サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。『主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。』」 民の指導者とは、王位に就く以前の称号です。創造主なる神様によって立てられる王、祭司、預言者は、この時代のイスラエルでは、神の人から、オリーブ油を、頭に注がれることが、しるしとなっていました。現在は、牧師、長老、執事に任命される時、頭の上に手を置いて祈る、按手祈祷が行われます。 油注ぎの儀式は、王に対して、自分ではなく、神様の知恵によって、民を導くという重大な責任を忘れさせないものでした。同じように、按手や任命式といのは、自分ではなく、神様の知恵と力によって、人々を導くことを忘れさせないものであることを、覚えることが重要なことです。 続いて、自信なく不安に思っているサウルに対して、三つのしるしが与えられると、預言者サムエルから告げられました。一つ目に、ラケルの墓の傍らで、二人の人がサウルと会い、彼の父の失われたラクダは、見つかったと言われると預言されました。その通りになりますが、このことを通して、サウルは、父の家を忘れて、その身を神様への奉仕に委ねよと示されました。 二つ目に、二つのパンが与えられると預言され、その通りになります。このことを通して、神の国と神の義を先ず求めるなら、その他の必要なものは、加えて与えられるということが、示されています。私も 40 年の牧師としての歩みの中で、必要な物は、全て備えて与えられて来ました。 三つ目に、預言を与えられるということです。サムエル記で、預言する状態というのは、一種の放心状態として描かれることが多いです。それは、神様が共におられ、新しい心が与えられることを示しています。 自信のないサウルに対して、第一に、サムエルと二人きりとなり、王としての油注ぎを受けました。第二に、預言者たちの間で、主の霊を注がれました。そして第三に、イスラエル全部族の中で、くじによって、王として選び出されます。 律法には、神様に導かれた祭司が、神の御心である神意にかなうために、くじを引くとされています。出エジプト記 28 章 30 節「裁きの胸当てにはウリムとトンミムを入れる。それらは、アロンが主の御前に出るときに、その胸に帯びる。アロンはこうして、イスラエルの人々の裁きを、主の御前に常に胸に帯びるのである。」 祭司の祭服の胸の部分に、くじが入った小袋が付いていました。くじは、ウリム・呪いという意味のものと、トンミム・完全を意味するものが用いられました。またウリムが引かれたら、否定が示めされ、トンミムが引かれたなら、肯定が示されました。 この後に、実践において、王者の権威を示し、王位の設立の宣言を受けるに至ります。サウルに対する任命は、神様の示しによる事を、確信づけるためのものでした。この為には、時に、待つべきであることも忘れてはなりません。 くじは、イスラエル 12 部族の中から、ベニヤミン族が選ばれ、次にベニヤミン族の中からマトリの氏族が選ばれ、さらにキシュの息子サウルが選ばれました。 民は喜び叫びました。また神様に心を動かされた勇士たちは、サウルに従いました。しかし、ならず者は、「こんな男に我々が救えるか」と言い合って、サウルを侮りました。「侮る」と訳された原文の言葉は、「軽蔑する」「軽んじる」「さげすむ」という意味でもあります。 先頭に立つ指導者には、批判がつきものです。健全な批判に対しては耳を傾けることが大切です。しかし、あなたに反対する人間のことを気に病んで、大切な時間を浪費してなりません。批判の全てが健全であるとは限りません。 そして覚悟が出来ていて、喜んで助けようとしてくれる相手に、あなたの注意を向けることが大切になります。 侮辱に対して、沈黙を守る者は、真の勇者です。イザヤ書 53 章 7 節「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」 このメシア預言として、救い主イエス様は、まさに預言の通りに、沈黙を守られました。マタイによる福音書 27 章 14 節「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。」 神様によって心を変えられた初期のサウルは、卑しめられた時に示した彼の寛容がありました。また戦争の勝利の後にも復讐に出ることはありませんでした。そして神様に栄光を帰した態度は、王者の風格を示すものでした。 サウルは、これから果たすべき任務に対する、上からの力の供給を十分に受けました。 しるしも、神様が共におられて、神様の霊に満たされて行う業は、全て祝されることを示 していました。けれど、一時、御聖霊に満たれても、そのまま続くわけではありません。 後にも、神様に従い続けて、ご聖霊の満たされ続けなければ、主の働きを継続することは 出来ません。 自分自身が適格かどうかを感じることよりも、神様が備えてくださることを信頼することが大切です。そして御聖霊によって、油注がれて後、はじめて神様の器となり、主の御用が務まります。今年の六月に、ジャカルタ・プレスイズ・コミニュテイ教会で、研修した際にも、ご聖霊の油注ぎを受けて、御聖霊に聴き従うことを、特に大切にしている姿がありました。 ヨハネの手紙一 2 章 27 節「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」もう一つヨハネによる福音書 16 章 13 節「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」

最後に、キム・ビョンサムという方の「生き方で模範を示す指導者」という内容を受け留めます。「パク・ヤンギュ牧師の著書『中世教会の裏通りの風景』に、このような文章があります。『歴史は、ミラノ勅令以前に、キリスト教が受けた迫害よりも、それ以後のキリスト教による異教徒への迫害の方が、はるかに過酷で厳しかったと語っています。中世は、キリスト教が支配する社会でしたが、決して聖書的な社会ではありませんでした。

クリスチャンは、イエス様に従い、隣人に仕えなければなりません。しかし、いつの間にか、『自分に従え』と言って、イエス様の代わりに指導者の座に着こうとするクリスチャンが、どれほど多くなったか分かりません。恥ずかしいことですが、ある牧師は、信徒の信仰が本物かどうかは、『自分の命令に従うかどうか』によって判断するそうなのです。大物になろうという考えを捨てましょう。仕える者になろうとする思いがあれば、十分です。偉大な存在になろうとしなければ、自然と私が仕えている方が、高められます。人生において、イエス様だけを現わすためには、『私』がへりくだらなければなりません。自分を低くしようと努力すればいいのです。

『仕方なくする』奴隷のようではなく、自ら低くなって奉仕する姿こそ、人々を感動させます。福音には力があります。その福音を人生に適応させることは、大変なことかもしれませんが、生き方をもって模範を示し、イエス様のように生きるなら、国と民族に希望があると信じます。」

神様に愛されている皆さん、イエス様に心動かされて、福音を人生に適応させて、仕える歩みを、ご聖霊の力を頂いて、なしてゆきませんか。お祈り致します。

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