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  • 執筆者の写真CPC K

2023.10.22_マタイによる福音書 9 章 13 節『罪人を招くために来られたイエス様』

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


牧師 松矢龍造



皆さんは、どんな時、お医者さんの所に行きますか。私は、今年の 6 月にインドネシアのジャカルタに研修の為に行きました。その際に、帰国する数日前から、お腹の調子が悪くなりました。帰国しても治まらないので、内科のお医者さんの所に行くことになりました。それは、自分が食あたりを起こして、病んでいることが分かったからです。


同じように、自分が、創造主なる神様から離れて生きているという罪に気づいたなら、魂のお医者さんであるイエス様のところに行きます。けれど自分は病んでいない、罪という病がないと思っている人は、お医者さんのところに行きません。承


今日の御言葉は、罪人であると自覚した人たちは、魂のお医者さんであるイエス様の所に行きます。しかし自分は優れた人間であると自信を持っている人は、救い主イエス様を求めないことが展開されています。


イエス様は、様々な人々を救い出して、真の人生を生きることが出来る為に来られた救い主です。お金持ちであっても、貧しい人でも、品行方正な人も、不品行な人も、人気のある人も、孤独な人も、影響力のある人も、平凡な人も、全ての人が、罪と死と悪魔から、救い出されて欲しいと、天から地上に来られました。


あなたも、私も、その一人なのです。私たちは、誰でも、全てのことを知っているわけでもなく、誰でも自分の罪の解決が出来るわけでもありません。それ故、救い主なるイエス様を必要としています。そんな自分であることを認めることから、救いは始まります。転


イエス様は、ガリラヤ湖の湖畔の町であるカファルナウムに来られた際に、通りがかりに、マタイさんという人が、収税所に座っているのを見かけました。そして「わたしに従いなさい」と言われました。


当時のユダヤは、ローマ帝国との戦いに敗れて、植民地とされていました。ローマ帝国は、とても高額な税金を、植民地として支配している国から、収税していました。その際に、その国の人を、徴税人に雇って、多くの税金をしぼり取っていました。ユダヤの国では、徴税人として、同じ国民であるユダヤ人が雇われました。マタイさんは、その一人でした。


徴税人は、同じ国の人たちから、嫌われており、自分の国や宗教を裏切る者と見なされていました。加えて、徴税人たちは、集めた税金の手数料を取りました。徴税人の大部分は、定められた以上の額を要求し、利益を自分のものとしていました。


それで、徴税人たちは、そのような不正と、ローマ帝国の手先として働いていた故に、ユダヤ人たちからは、嫌われていました。そして社会の中で罪人と呼ばれていた人たちと同種類の人たちと見なされました。ですから、徴税人や罪人と一緒に食事もしないし、その人たちの家にも、汚れるとして、入りませんでした。


マタイさんは、イエス様から「わたしに従いなさい」と言われて、立ち上がって、イエス様に従って行きました。マタイさんが、立ち上がってイエス様に従うということは、徴税人の仕事を捨てて、ついて行くことです。一度、職を離れたなら、戻ることは出来ません。しかも徴税人を続けていたら、経済的に恵まれ続けますが、その恵まれた生活をも捨てるということです。


漁師なら、また漁師の仕事に戻ることは出来ますが、徴税人の場合は、一度辞めたら、再就職は困難です。他の仕事を求めても、嫌われていた元徴税人を雇う者は、ほとんどいません。マタイさんは、一切を捨てて、イエス様に従っていったのです。どうしてでしょうか。


後戻り出来ない決断を、あえてしたのは、ユダヤ社会から、嫌われ、疎外されていたマタイさんです。にもかかわらず、イエス様は、マタイさんが罪人と分かっていながら、驚くほど、開かれた心で、マタイさんの存在を愛して、受け入れてくださったからです。


私たちは、神様に従うように召されたなら、マタイさんのように、自分の大切なものを捨てることが出来るでしょうか。私は、18 歳の時、最初は、将来が不安で、牧師としての道に進むことが出来ない、自分の大切なものを捨てることが出来ず、牧師の道から逃げてしまいました。自分の肉の力では、イエス様に、全てを捨てて従うことは出来ませんでした。


しかし自分に頼るのではなく、神様に頼り、ご聖霊の力を頂く時、初めて自分の大切なものを捨てて、牧師の道に進むことが出来ました。たとえ牧師の道でなくても、キリストに従うことに対して、障害になっているものや、妨げているものを捨てる決心は、誰でも必要です。


マタイさんは、イエス様に従った後に、自分の家に、徴税人や罪人と言われている人たちを、食卓に招きました。そこには、イエス様と他の弟子たちも招かれていました。それは、イエス様の教えを、過去の仲間たちも、受けることが出来るように、架け橋となるためでした。


罪の中に生きている人々に、手を差し伸べることを、恐れるべきではありません。イエス様の福音は、全ての人々に、私達の友人や家族にも、必要です。そしてイエス様を受け入れるなら、誰でも、その人生を変えて頂けます。


ところが、きよさを求めて、汚れを嫌うファリサイ派のユダヤ人は、イエス様が、徴税人や罪人たちと、一緒に食事をしていることを非難してきました。彼らが関心を持っていたことは、人々を助けることよりも、自分をきよく見せることでした。また人々を励ますことよりも、非難することでした。そして実際的な援助をすることよりも、尊敬を集めることでした。


神様は、罪深く、みじめな人々を含めて、全ての人々のことを気にかけておられます。クリスチャンの人生は、人気競争ではありません。イエス様に倣って、罪人と呼ばれている人たちも含めて、隣人の全てに、キリストの福音と救いを、伝え、証しするべきです。


けれど、イエス様の福音を聞いても、自分は優れた人間でと思い込んで、自分には罪が

ないと、自信を持っている人たちは、イエス様のもとに来ませんから、救われことは出来

ません。



創造主にして救い主であるイエス様が、求めておられるのは、砕かれた悔いた心です。また神様を知り、神様と共に歩むことです。そして御心を行い、従順であることです。さらに見せかけと偽善ではなく、正義と真実と誠実です。そして加えて、憐れみ深く恵みの人であることです。


あなたも、ご聖霊の助けを祈り求め、イエス様を信じて、自分の十字架を負って、イエス様に従って行きませんか。そしてイエス様の福音を隣人に分かち合いませんか。マタイによる福音書 9 章 13 節「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」お祈り致します。





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