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2023.10.25箴言 19 章 1~14 節「いかに歩むか」

牧師 松矢龍造


ハン・ヨンジヨ先生が、「偽物の信仰と本物の信仰」というテーマで次ように言われていました。「信仰はあまりにも広範囲なのでこれを説明するとき、まず理解すべきことがあります。それは、信仰と言っても、すべてが信仰ではないということです。自分の信仰は、偽物かもしれないのです。 自分の考える信仰、自分が夢見る信仰、自分が設計しデザインした信仰は本物ではありません。自分の頭と知識と考えから出てきたものは、神様のものではありません。私たちは、このような偽物に騙されることが多いのです。たとえば、自己啓発書は、ほとんど常にベストセラーのリストに上っています。 あまりにも不安で心配の多い現代人たちが、どのようにすれば肯定的に生きられ、積極的に人生を開拓できるかということが書いてあるからです。しかし、そのような内容が、信仰になってはなりません。それらは、心理学的な信仰、人間的な考えによる信仰だからです。本物の信仰と偽物の信仰は、とてもよく似ているので、人々は、よく騙されます。クリスチャンでさえ、そのような中で混乱して生きています。 正しい信仰生活を送るためには、今自分が求めている信仰が、本物か偽物かを、まず確認してみましょう。本物の信仰は、神様から出てくるものです。イエス様のことばから、またご聖霊によって、心が動かされることから出てくるものです。これが、信仰について の大切な知恵です。」 今日の箴言の御言葉には、人がいかに歩むかということが、いくつか出てきています。 四つのことを受け留めたいと願っています。一つは、真実に生きること。二つ目は、誠実 に生きること。三つ目は、忍耐と赦しに生きること。そして四つ目に、良き伴侶と共に生 ることです。 それでは、第一に、真実に生きることです。19 章 1節「貧乏でも、完全な道を歩む人は、唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。」旧約聖書では、財産は正しい生き方に対する神様からの祝福であり報酬であるとされている記述が多いです。しかし富に頼って自分を守ろうとする者は、最期には苦しむことになります。富よりも、正しい生き方、真実な生き方の報いとして与えられる、幸いな人生の方が良いのです。 それは時に無報酬の奉仕をしたり、天に宝を積む生活に繋がります。マタイによる福音書 6章 20節「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」 1 節で「唇の曲がった愚か者」とありますが、嘘を言って人を騙す者のことです。これに対して「完全な」とは原文では、「無罪」あるいは「非難されることなく」という意味でもあります。5節にはこうあります。「うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をすれば逃げおおせることはない。」9節にもこうあります。「うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をする者は滅びる。」 偽証は、モーセの律法でも禁じられています。出エジプト記 20章 16節「隣人に関して偽証してはならない。」しかも、嘘をつく愚か者は、自分で反省するどころか、その責任を、神様に転嫁して怒ります。さらに自分を正しいと思い込んで、他人を裁く者ともなります。 その例として、新約時代のファリサイ的、自己義認者に見られます。自分を正しいと思い込んで、人を見下げ批判し、人を突き落として、差別する生き方です。知らないうちに人を傷つける、頑固な自己主張者です。 加えて、誤った道に急いで行くよりも、落ち着いて進むべき道を定める生き方が望まれます。2 節「知識がなければ欲しても不毛だ。あまり足を急がせると過ちを犯す。」人生の中で、急いで行動することよりも、未来に向かって、まっすぐに進むことが大切です。その為には、主にある知識と知恵を受け留め続けることです。 続いていかに歩むかの第二は、誠実に生きるということです。富を増す為に、誠実さを犠牲にするあり方はないでしょうか。誠実な歩みをする例として、主イエス様の弟子の一人であるナタナエルがいます。ヨハネによる福音書 1章 46~48 節「するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』ナタナエルが、『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。」 偽りなく誠実に生きるあり方には、少なくても次の三つが必要です。一つ目は、自分の悟りや力に頼りません。自分を知っているからです。二つ目に、いつも神様を恐れ敬い、心を尽くして主に信頼し、神様に祈ります。三つ目に、神様は、ナタナエルの前に、まっすぐな道を開かれました。彼は神様に従って、そのまっすぐな道を歩いて行きました。ここに本当の誠実さがあります。 いかに歩むかの第三は、忍耐と赦しに生きることです。11 節「成功する人は忍耐する人。背きを赦すことは人に輝きをそえる。」主イエス様の恵みによって、救い出されたなら、赦しと忍耐に生きることがふさわしいです。エフェソの信徒への手紙 4章 32節「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」 そして第四に、良き伴侶と共に生きます。13 節 14節「愚かな息子は父の破滅。いさかい好きな妻は滴り続けるしずく。家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの。」 妻との不和が続く生活は、いかに不幸なことでしょうか。良い妻は、自分で見出すことよりも、妻は主から受けるものです。相手を真に知ろうとしないまま、結婚してはなりません。さらに結果について考えず、不正な性的な関係を持ったり、薬物に手を出したりしてはなりません。 アブラハムの僕であるエリエゼルは、神様に祈って、アブラハムの息子イサクの妻となるリベカに導かれました。もちろん結婚だけでなく、仕事に関しても、自分に適しているかを見極めずに、仕事に飛びつくことも危険です。下調べをして、良い質問をして、神様に祈り、従っているかを確かめる必要があります。

いかに歩むか。それは、イエス様の言葉や、御聖霊の導きと、神様からの知恵と知識を通して、吟味して歩むべきです。その際に先ず、神様を知り、神様の愛を頂くことから出発します。最後に、クォン・ヘセンと言う方の「目に見えない愛」という内容を受け留めます。 「アルツハイマーの女性が出てくるドラマを見ました。彼女は、若くして夫を亡くし、一人で息子を育てました。ところが、大人になった息子と彼女は、気まずい関係になりました。それは、このような理由からです。幼い時に父親なしに育った息子は、道で一でボール遊びをしていて自動車事故に遭い、足に大けがを負って障害が残ってしまいました。母親は胸が痛みましたが、かえって息子を厳しくしました。息子を強い子どもに育てるためでした。息子は、成長するにつれて、そのような母親から遠ざかっていきました。 ある雪の日、仕事をしていた息子は、アルツハイマーで入信中だった母親が、行方不明になったという知らせを受けました。驚いた息子は、あちこち探し回って母親を見つけま

す。母親は、病院の庭の隅で、ほうきで雪かきをしていました。息子は、母親に『いったいここで何をしているんだ』と責め立てました。


すると母親は、笑みを浮かべながら、『うちの子が雪で転ばないように、雪かきをしているのよ』と答えました。そのとき彼は、寒い冬、学校に行く時、いつも家の前の雪が、きれいによけてあったことを思い出しました。そして、自分が息子であることを、分かっていない母親に、『こんなことをしても、息子さんは、お母さんが、自分のために雪かきをしてくれていることを知りませんよ』と言いました。


すると母親は『いいのよ、うちの子が転ばなければ、それでいいの』と答えました。子どもを思う親の気持ちは、神様の愛を思い起こさせます。罪人の私たちは、神様の心を、すべて知ることは出来ませんが、神様の変わることのない愛は、キリストの十字架に現れているのです。」


神様に愛されている皆さん、いかに歩むか。それは私たちを造り、救いの道を開かれた、神様を知り、その愛を受け留めとることから始まります。そして父なる神様の知恵、イエス様の恵み、ご聖霊の導きに従って、歩みを進めて行きませんか。お祈り致します。








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