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  • 執筆者の写真CPC K

2023.11.5サムエル記上 14 章 1~52 節「信仰による勇者」

牧師 松矢龍造

 今日の御言葉には、信仰による勇者と、一見、信仰的に見えて実は不信仰である者が、対比されています。人物で言えば、信仰による勇者である息子ヨナタンと、一見、信仰的に見えながら、実は不信仰であるサウル王が対比されています。それでは、私たちは、信仰による勇者でしょうか。それとも、一見信仰的に見えて、実は不信仰な者でしょうか。

 サウル王は、常に人間の側の人数を気にしていました。しかし息子のヨナタンは、絶えず、主なる神様の御心を気にしていました。他にも、サウルは、我々人間に出来るかを気にしましたが、息子ヨナタンは、神様には出来ることを受け留めていました。さらにヨナタンは、無知の上に立つ者ではありません。自分の無力を知る者であり、同時に、神様の力を引き出す信仰の人でした。加えて言えば、サウルは、神様の御旨を問わず、ヨナタンは、絶えず主の御心を問いました。

 この面でも、私たちは、どちらの人でしょうか。私は、ヨナタンのようでありたいと願いながら、いつのまにか、サウル王のような愚かな歩みとなっているのではないかと問われました。

承 

前回、ペリシテ人との戦で、人間の人数を気にしても、主の御心と時を弁えずに、失敗したサウル王の姿がありました。13 章 13 節 14 節「サムエルはサウルに言った。『あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。」

 そんなサウル王の不信仰な姿であるのに、どうしてなお、しばらくは、敵であるモアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たちに勝利できたのでしょうか。それは、息子ヨナタンの信仰の故であり、また次の王となるダビデが、王となる準備の期間ではなかったと言われています。私た ちも、不信仰な時に、他の人の信仰や、主の憐れみによって助けられた経験があるのではないでしょうか。

 転

 それでは、今日の御言葉である 14 章 1 節からもう一度。「ある日、サウルの息子ヨナタンは自分の武器を持つ従卒に言った。『さあ、渡って行き、向こう岸のペリシテ人の先陣を襲おう。』ヨナタンはこのことを父に話していなかった。」

 サウル王の息子は、他の兵士が恐怖の中にあったのに、信仰によって行動を起こそうとしました。自分の武器を持つ従卒と二人で、ペリシテ軍の先陣のいる場所に向かいます。この時、ヨナタンは、父に話さなかったのは、人しか見ずにいる父には、反対されるので、黙って出掛けようとしたのでしょう。

 2  節「サウルはギブアの外れ、ミグロンのざくろの木陰にいた。彼のもとにいる兵士はおよそ六百人であった。」サウル王には、少なくても、3 千人の親兵がいたのに、恐れの為に、6 百人に減っていました。しかもサウル王以外は、刀も槍もありません。創造主なる神様が、あえて、このような状況を許されたのは、神様は、イスラエルを剣なしに勝利を与え、彼らの強さが、本当はどこにあるかわ、分からせようとされたのではないでしょうか。

 6節7節「ヨナタンは自分の武器を持つ従卒に言った。『さあ、あの無割礼の者どもの先陣の方へ渡って行こう。主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。』従卒は答えた。『あなたの思いどおりになさってください。行きましょう。わたしはあなたと一心同体です。』」

 ヨナタンは、従卒と二人だけで、ペリシテ軍の先陣のいるミクマスの断崖に向かって行きました。ヨナタンは、創造主なる神様を、ただ一つの力と頼んでいます。実に神様と共にある一人は、多数であることを信じていました。この世に、創造主なる神様に対抗する力を持つ者は、誰もいません。

 ヨナタンは、二人きりであっても、大軍勢に優る、万軍の主の助けを信じていました。そして、もし御心にかなわなければ、討ち死にを覚悟で、切り込んで行こうと、道具持ちの従者に呼びかけました。そんなヨナタンに、勇敢に従って来る従卒は「わたしとあなたは一心同体」と言っています。信仰による歩みは、その人を信頼して支えてくれる人によって、大いに励まされます。主は、そんな信仰の友を与えてくださいます。

 続いて、ヨナタンは、神様の御心を求めました。それは、敵の言葉を用いて、主が語られると信じて求めました。8~10 節「ヨナタンは言った。『よし、ではあの者どものところへ渡って行って、我々の姿を見せよう。そのとき、彼らが、「お前たちのところへ着くまでじっとしていろ」と言うなら、そこに立ち止まり、登って行くのはよそう。もし、「登って来い」と言えば、登って行くことにしよう。それは、主が彼らを我々の手に渡してくださるしるしだ。』」

 ヨナタンは、自分が神様の側に立って戦っていることの、しるしを求めました。するとヨナタンは、「登ってこい」との声を聞いて、主が彼らを渡して下さると確信して登りました。ヨナタンと従者は、膝をついて岩を登る前に、それよりも多く、膝をついて、神様に祈ったのではないでしょうか。主に祈りを重ね、主に頼り、主の御心に沿うなら、主は勝利させてくださいます。ヨナタンは、こうして信仰の勇者としての英雄的な行動をなしました。

 かつて薬物に溺れてしまったボクサーがいました。このボクサーが夢の中で、サタンが自分に向かってくるのが見えました。しかし何度サタンを殴っても、何度もサタンは立ち上がってくるので、そのボクサーは、敗れてしまいます。何度も薬物から抜け出そうとしても、敗れて抜け出せない自分の姿を見ているようでした。

 ところが、主イエス様を信じた後に見た夢では、サタンが同じように立ち上がって来ましたが、今度は、イエス様が共にいてくださって、サタンは敗北してしまいました。その夢から目覚めると、そのボクサーは、薬物依存症から抜け出ることが出来ました。それは、イエス様が共にいてくださったからです。 

ヨナタンと従者が、ペリシテ人の先陣の 20 人を打ち倒しました。すると地が震える地震も加わり、ペリシテ人の恐怖は、その極みに達しました。原文は、「神による恐怖」となっており、ペリシテ陣営で、非常な恐れとなりました。まさにこの恐怖は、神様御自身が、ペリシテ人に臨んだものでした。ヨナタンの信仰は、神様のよしとされることだったのです。

 続いて 16~20 節「ベニヤミンのギブアにいるサウルの見張りは、人の群れが動揺し、右往左往しているのに気づいた。

 サウルは彼のもとにいる兵に命じた。『我々の中から出て行ったのは誰か、点呼して調べよ。』調べると、ヨナタンと従卒とが欠けていた。サウルはアヒヤに命じた。『神の箱を運んで来なさい。』神の箱は当時、イスラエルの人々のもとにあった。

 サウルが祭司に話しているうちにも、ペリシテ軍の陣営の動揺はますます大きくなっていった。サウルは祭司に、『もうよい』と言い、彼と彼の指揮下の兵士全員は一団となって戦場に出て行った。そこでは、剣を持った敵が同士討ちをし、大混乱に陥っていた。」

 サウルが、主の御心を求めても、主は答えられません。サウルの不従順の罪が、神様と彼との間を隔てていたからです。サウル王は、神様に問うことを途中で止めて、次になにをしたのか。不必要に、厳しい呪いをかけた断食の誓いを民に強要しました。断食は、本来、神様の助けを求める手段の一つです。また悲しみや後悔の念を表すためにも行われました。しかしこの時のサウルの断食令は、神の名を語った自己保身にすぎません。愚かな呪いをかけて、自分の兵士たちの健康をもかえりみるものではありませんでした。

 行き過ぎた禁止が、通常では犯すはずもない、罪を犯されてしまいます。血を絞り出さずに生肉を貪り食らうことは、律法に禁じられていました。しかもサウル王は、何故、主なる神様が、サウルの問いに応えられなかったのか。それはサウルの不従順の故なのに、断食の禁を誰かが破ったせいだと言うしまつです。 

息子のヨナタンは、父の断食令を知らず、野のハチミツを口に入れると、目が輝きました。父の断食令がなければ、兵士たちは、ハチミツを食べて、もっと敵を追うことが出来たと嘆きました。しかしヨナタンは、父の無用な禁止令を、知らずに食したことに対して、弁解せず、処罰を待ちました。くじを引くと、ヨナタンにあたりました。けれど、確かにサウルの勝手に出した禁止命令を破ったのはヨナタンでした。くじはそのことを示したに過ぎず、ヨナタンが、神様に対して罪を犯したことを示すものではありません。

 父サウルが、ヨナタンを討つように命じると、民は今回の勝利はヨナタンによってもたらされたのに、どうしてヨナタンが死ななければならないのかと。彼に指一本でも触れてはならないと、サウル王に訴えました。そしてヨナタンは、民によって、命が救われました。

 ヨナタンによって、イスラエルの民が救われたのですが、主イエス様は、なんの罪もないお方であり、私達の罪の為に、十字架にかかり、私達を救われました。ペトロの手紙一 2 章 22~24 節 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

 

信仰による力とは、私達自身が強くなるのではありません。

 主を仰ぎ、主に聴くことです。また主のお働きに預かるということです。そして、主の御心通りに進むので、主が必ず成功させてくださるということです。

 神様の求める服従とは、純粋で、心からの、全面的な、絶えざる従順です。御聖霊の助けを受けて、主の御心を求めて、これに従って行きませんか。

 最後に、ヤン・ヒョンジュという方の「信仰の3つの要素」という内容を受け留めて閉じます。「『信仰』を理解する時、何でも信じさえすればいいという間違った盲目的な考えがあります。しかし、救いに至るまことの信仰は、3 つの要素、つまり『知識と同意と信頼』を必要とします。

『知識』とは、信仰の内容です。救いに至らせる信仰は、正しい知識から始まります。私たちが、イエス・キリストを信じて救われるためには、神様がイエス・キリストにあって行われた救いのみわざ、すなわちイエス様の誕生と働き、そして死と復活について、正しい知識がなければなりません。

 次に、その知識に対する意志的な『同意』がなければなりません。ファリサイ人をはじめとする宗教指導者たちには、知識がありました。しかし、その知識に同意せず、むしろイエス様を捕らえて殺そうとしました。知識があるといって、信仰が生じるわけではありません。意識的な同意がないのなら、正しい信仰ではありません。

 最後に、信仰は、知識や同意とともに、イエス・キリストに対する全的な『信頼』がなければなりません。人格的な信頼が、信仰の基礎にならなければなりません。信頼とは、イエス・キリストのみわざと力を信じて、神様が王であることを認め、神様に人生のすべてを委ねなければなりません。さらに、永遠の人生を委ねなければなりません。このような信仰を通して、キリストのうちに完全にとどまることができるのです。」

 神様に愛されている皆さん、見せかけの信仰ではなく、御所霊によって、信仰の勇者として、知り、同意し、信頼して、キリストの御心に従って行きませんか。お祈り致します。

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