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2023.2.12ヨハネによる福音書 17 章 1~8 節 「永遠の命を与えるお方」

牧師 松矢龍造


この世界に、どんな多くの書物がありましても、神様から、永遠の命が与えられることを、約束されている契約書は、聖書だけです。そしてどうしたら、永遠の命が与えられるのか、そのことも記されているのは、神の言葉なる聖書だけです。古今東西の人々が共通して、解決を求めているのは、三つです。愛と死と永遠の命の解決です。この解決を唯一与えることがお出来になられるお方は、神様でありながら、人となられた救い主イエス様だけです。

日本の有名な作家の一人、夏目漱石は、娘さんが亡くなられた時、「死を生に変化させる努力でなければ、全ては空しい」と言い残されました。けれど、人間がどんなに努力を重ねても、死を生に変化させることは出来ません。出来るのは、ただ一人です。死からよみがえられた主キリストのみです。

今日の御言葉である 17 章は、明日、十字架につけられる前夜、最後の晩餐の中で語られた訣別説教の後の、主イエス様の祈りが展開されています。その祈りは、天と地、あるいは父なる神様と私達人間を執成す、仲保者の祈りです。そして 16 世紀の宗教改革以降、父なる神様に、私達を執成す、大祭司の祈りと呼ばれて来ました。

このヨハネによる福音書 17 章のことを、宗教改革者の一人、マルチン・ルターは次のように言われています。「その言葉は、明晰にして飾りがないけれども、その意義は深遠、豊富、広く広濶にして、だれも奥を極めることが出来ない」。

同じくメランヒトンは言います。「神の子の、この祈りに勝って貴く尊貴なるものなく、神聖なるものなく、有益なるものなく、また、この祈りにまさって、崇高なる声は、かつて天地の間に、響いたことがない。」

そしてジョン・ノックスという方は、瀕死の病床に横たわりつつ、人にこの 17 章を読ませ、これによって慰めと励ましとを見い出したと伝えられています。

それでは、17 章 1 節をもう一度。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』」

イエス様が「時が来た」と言われた、その時とは、十字架につけられ、復活して昇天される時が来たということです。別の表現では、まさに苦難と栄光の時が来たということです。「栄光」あるいは「栄光をあらわす」とは、原文では、相手を正しく認めて尊ぶことです。また神様が生きて働いておられることを認めて、それにふさわしい生き方をすることです。そして神様の救いと十字架による贖罪の偉大さを告白することです。

イエス様は、十字架によって、父なる神様が、義であると同時に愛であることを表して、父なる神様の栄光を現わされます。そして父なる神様は、死人の中から、神の御子イエス様を復活させることによって、御子に栄光を与えてくださいます。

福音書の記者は、イエス様が、十字架につけられる時と、死からよみがえる時の、両方の出来事において、十全な栄光を受けられる神の御子・主イエス様に言及しています。

2節「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたから、ゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」

イエス様が、高く上げられ、すべての人を支配する権能を与えられたのは、十字架の苦難と復活の栄光を通してでした。そして主イエス様が、その権威を、私達人間に、永遠の命を与える為に、集中して用いられるのです。いわば、私達の存在を愛する為に用いられるのです。

3 節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」ここで知るとは、単に父なる神様と御子なるイエス様の性質と人格を、ただ頭で知るだけではなく、その愛と力を、人格的に経験し、信じて、永遠の命に預かります。

使徒ヨハネの記したもう一つの書であるヨハネの手紙一 1 章 1 節 2 節ではこう記されています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」

使徒ヨハネは、永遠の命であるイエス様に、触れ、見て、聞いて、信じた。それを「知る」と表現しています。いわば、人格的、かつ肉体的に知り、その人間的に知ることと、信仰との結合です。さら言えば、相互内在関係の中で、深く知るということでもあります。

17 章 23 節にはこうあります。「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになりま す。」

イエス様と、父なる神様と、私達が、霊的相互内在関係となって交わり知ることです。それが、私達に永遠の命が与えられることとなるのです。

4 節 5 節「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」

ここでも、もう一度、十字架と復活、苦難と栄光の両方が語られています。十字架の苦難なしに、復活の栄光はありません。また復活の栄光なくして、十字架の苦難は、耐えられません。

使徒パウロは、この二つを、次のように表現しています。フィリピの信徒への手紙 2 章 6~11 節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

そして加えて受け留めておきたいことがあります。神の御子イエス様が、人間として生まれながら、真の神でもあるのは、初めから父なる神様と共に、先在して、永遠に存在されていたからです。

6節「世から選び出して、わたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らは、あなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。」

私達が、イエス様の御名によって、洗礼を受けた時、それは、私達が、父なる神様ものであ り、イエス様のものであるという印でもあります。土地の売買契約の時に、代金を支払い、印鑑を押して、自分の所有であることが認められます。同じように、主イエス様は、十字架の代価によって、私達を、罪から贖い、ご自身のものとされました。そして主のものとされた者たちは、御言葉を守る者とされます。

7節8節「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」

主イエス様を信じる者は、イエス様が、父なる神様から遣わされたことを信じています。そして、神様の栄光を現わそうとします。それは、一つには、死に至るまで、謙遜であることを通してです。二つ目に、栄光の全てを、自分ではなく、神様のみに帰します。そして三つ目に、委ねられた賜物を、神様の栄光の為に用います。

その為には、イエス様ご自身の本来の栄光を、輝かしてくださいと祈ることが大切です。また主の憐れみを求め、ご聖霊様を歓迎して、その力と助けを祈り求めます。

それにしても、イエス様が、最後の晩餐において、語られ祈られた後に、弟子たちは、イエス様を、ゲッセマネの園で、見捨てて逃げ去ります。このイエス様の執成しは、弟子たちの幾多の欠点、弱点、罪を熟知されていながら、それにも関わらず、あくまでも、彼らの長所、美点、将来の造り変えられた姿に心の目を留められて、天の父なる神様に執成されたのです。その恵み は、弟子達だけでなく、私達に一人ひとりにも臨んでいます。

ヘブライの信徒への手紙 7 章 25 節「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」

私たちは、苦難と栄光との間で、必要なことは、信仰に基づく希望と忍耐です。最後に、ジン・ジェヒョクという方の「聖書が求める忍耐」を受け留めます。「ナチスドイツに捕らえられていたユダヤ人の精神科医ヴィクトル・フランクルは、著書『夜と霧』の中で、1944 年のクリスマスから、1945 年の新年元旦まで、死亡率が急激に増加したと証言し、その理由について、次のように書いています。

『収監者のほとんどが、クリスマスには釈放されて家に帰れると、漠然とした希望を抱いていた。ところが、クリスマスが近づいても、希望を与えてくれる知らせは聞こえてこなかった。彼らは、勇気を失った。絶望感は、彼らの忍耐力に深刻な影響を与え、彼らの中の多くの人が、死に至った。』

希望は、私達に苦難に耐え抜く力を与えてくれます。聖書のいう忍耐とは、歯を食いしばっ て、とにかく我慢するということではありません。神様への信仰と希望をもって、待ち望むことです。神様に希望を置いている人は、どんな状況にも耐え抜く力が与えられます。

私たちに対する神様のみこころは、未来と希望と祝福を与えることです。神様は、ご自分のいつくしみと義が、私達の人生の中で、成し遂げられるように働かれます。この信仰があれば、わたしたちは、悪しき人々が栄え、不義がはびこる世でも、耐え忍ぶことができます。

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないものです。善をなすために働いておられる神様の力を信じましょう。悪が勝つように見えても、栄光の朝を迎えるその日を待ち望み、善をもって悪に打ち勝ちましょう。」

神様に愛されている皆さん、主イエス様の復活を、信じる者たちは、永遠の約束と栄光が待っています。しばし地上での患難を、信仰と希望をもって耐え忍んでいきませんか。コリントの信徒への手紙二 4 章 16 節 17 節「だから、わたしたちは落胆しません。

たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」お祈り致します。


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