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2023.2.15恵みの祈祷会_コロサイの信徒への手紙 4 章 12~14 節

牧師 松矢龍造


前半 4 章 12~13 節「祈りと労苦をいとわない人」

恵みの祈祷会では、昨年引き続き、コロサイ信徒への手紙を連続で講解説教をしています。コロサイの信徒への手紙の最後は、信仰の勇者にして、光栄なる名を得た人々のことが記されています。先にユダヤ人の三人を受け留めました。すなわちアリスタルコとマルコとユストの三人です。

今日の御言葉には、異邦人における三人の名が記されています。エパフラスとルカとデマスの三人です。希望が丘教会の人々が、他のキリスト者に手紙を送るとしたら、どんな肩書で、他の人に名前を送るでしょうか。このコロサイ者の最後に出てくるような形容がなされるキリスト者に、主にあってなりたいものです。今日は異邦人の三人のうちエパフラスを前半で取り上げ、後半にルカとデマスを取扱います。

使徒パウロは、自分のことを神の僕と表現しています。たとえばフィリピの信徒への手紙 1 章 1 節では「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ」となっています。使徒パウロは、自分以外に「僕」と使う例は、本当に少ないです。

その少ない一人が、異邦人のキリスト者であるエパフラスです。「キリスト・イエスの僕エパフラス」と肩書が記されています。ということは、エパフラスに対して、使徒パウロは、非常な推奨の言葉を使って、彼を紹介しているということです。

旧約時代でも、神の僕と言われた人物は限られた人でした。それは、モーセでありヨブなどでした。僕とは、主人である神様に対して、絶対服従の人であることが先ず言えます。加えて、神様と特別な関係であり、加えて特別な使命を神様から与えられている時に、神の僕と言われています。転

今日の御言葉 4 章 12 節「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています」とあります。コロサイの教会の一人としてエパフラスの名が挙げられています。これはおそらくエパフラスは、コロサイの教会の牧師であったに違いありません。コロサイ書の 1 章 7 節にもこうありました。「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり」。

さらにエパフラスは、「ラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています」とあります。するとエパフラスは、コロサイ教会、ラオディキア教会、ヒエラポリス教会の三ヶ所の教会の監督者であったと言っているように思われます。そしてエパフラスは、ローマの獄中にいた使徒パウロに、コロサイの教会の状況を伝えた人であり、この手紙を書く必要を覚えさせた人です。

エパフラスは、以前牧会をしていたコロサイ教会の人たちの為に熱心に祈っていました。その祈りの内容は、「あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているように」ということでした。「あなたがたが完全な者となる」とはどのような状態のことでしょうか。それは円熟した品性と円熟した霊的成長のことを言っていると思われます。また「神の御心をすべて確信している」とは、神の御旨による全てのことに、明確な確信を持つ人となることでしょう。

続いてコロサイ教会とラオディキア教会とヒエラポリス教会の人々の為に、非常に労苦していますとあります。「労苦」訳された原文のギリシア語は「心労」とも訳せます。ですから肉体的にも、精神的にも、非常に労したということです。しかも彼らのための労苦を、主にあって、いっさい、いとわない人でした。

当時グノーシスという異端の教えに対して、エパフラスは心労を重ねていたと思われます。熱心な祈りの格闘と共に、偽りの教えに陥らない為に、正しい神様の言葉、福音の言葉を教えることに、専心してきたと考えられます。

それは、神の僕であり、神様が彼を遣わされた土地にいる人々の為に、熱心に祈り、非常に心労を重ねる人だったということです。エパフラスがこのように熱心に祈り、心労を重ね、それをいっさい、いとわない姿を見ると、それは同じく祈りの格闘を、ゲッセマネの園でなされた主イエス様の祈りを暗示するものです。そしてエパフラスの力の源は、この主イエス様の祈りの姿に、応えることでしたでしょう。

主イエス様は、ゲッセマネの園で、血の汗流し、祈られました。そして弟子たちには、悲しみのあまり死にそうであるから、私のために執り成しの祈りをして欲しいと願いました。しかし弟子たちは何度行っても、眠りこけていました。この後、眠って祈らなかった弟子たちは、十字架に進まれるイエス様を見捨てて逃げてしまいました。私たちも、目を覚まして祈っていないなら、労苦を、いっさい、いとわずに神様と人に仕えることなど出来ません。誰でも祈って、ご聖霊の愛と力に預かる必要があります。

英語で真実な、本当の、正直なという単語は「sincere」ですが、この言葉は「ワックスがない」という意味のラテン語「sine cera」から派生したと言われています。どうして、真実なことが、ワックスがないことから派生したのでしょうか。それには由来があります。昔、ヨーロッパでは、陶器が非常に喜ばれていました。質の高い陶器は、絵柄、色、形の全てが、すぐれていなければならないだけでなく、何より、ひびが入っていないことが重要でした。

しかし陶器のひびの入った所を、全く分からないように隠す方法がありました。それは表面に真珠色のワックスを薄く塗れば、陶器のひびがきれいに消えるのです。正直でない商人たちは、そのように人をだまし、ひびの入った陶器を高値で売りました。このことから「ワックスがない」ものを、「真実な」ものという意味として理解するようになったそうです。

さらにこのラテン語の「sine cera」の由来となったギリシア語の単語には「日光に照らしてみた」という意味があるとのことです。陶器を、日光に照らして見た時、ワックスがないものが「本物」の陶器であると判明するという意味です。

陶器に日光が照らされて本物が判明するように、私たちも神の御子の光に照らされて、本物かが明らかにされるとも言えます。神の御子キリストの光によって、私たちの信仰生活や、祈りと労苦が照らされた時、本物だと評価を得られるでしょうか。神の僕であるパウロもエパフラスも、真実、本物のキリストにある同労者たちでした。私たちも、祈りと御言葉とご聖霊によって、真実、本物の、神の僕としての歩みとなりますように。



後半 4 章 14 節「最後まで残る人と途中で抜ける人」

コロサイの信徒への手紙の最後の挨拶の所に来ています。そして光栄ある名を得た、信仰の勇者たちの名を受け留めています。ユダヤ人であった三人、そして異邦人の三人の名が記されています。前半はその異邦人の一人キリストの僕エパフラスの信仰の生き様を見ました。後半は異邦人の信徒であった愛する医者ルカとデマスを受け留めます。この二人は好対照をなしています。ルカは、最後まで使徒パウロの側にいましたが、デマスは、この後、世を愛して抜けてしまいます。

旧約時代では、預言者バラムは、最初バラムの王からイスラエルを呪うなら好待遇を約束されました。しかし主が呪えと言われないのに呪えない。むしろイスラエルを祝福するように言われる神様からの言葉に従うのみですと言っていました。ところが後に、金儲けのために迷い、滅んで行きました。

また新約時代では、12 使徒として選ばれていたイスカリオテのユダがいました。信頼されて群れの会計を任されていました。しかし途中から主イエス様を裏切り、銀貨 30 枚でイエス様を売り渡し、最後は自殺しました。私たちも生涯、主に忠実な者となるのか。それとも途中から抜けてしまう者なのか、昔も今も未来も、その危険があり得ます。

ルカは、ルカ福音書と使徒言行録を執筆する為に神様によって用いられた人物です。パウロと常に共に同行し、マケドニヤにあっても、エルサレムにあっても、ローマであっても、パウロから離れることはありませんでした。彼はギリシア人であり、医者でした。そしてパウロの主治医として、パウロの持病の良き看護者でもありました。まさに使徒パウロにとってルカは愛する同労者であり医者でした。

ルカは医者として、そのまま留まれば収入が良かったと思われる職業を投げ出して、使徒パウロに最後まで同行し続けました。使徒パウロの肉体にある棘を和らげ、キリストを宣べ伝えた続けた医師ルカです。ロイド・ジョンズというイギリスの著名な説教者がいましたが、彼はもと医者でした。それが牧師となり、医者であった時代の資質を生かし、牧師として説教者として著述家として用いられた人物です。またレオナルド・ダビンチも医学に長けた人でした。ルカを思う時、このような人物を思い出します。

使徒パウロが病気であっても、迫害を受けても、投獄されても、使徒パウロの肉体的にも、霊的にも仕えました。霊的な妻のような働きをなしたと言ってもよいかもしれません。私たちも、隣人の為に、主から委ねられた賜物や資質を持って仕える姿を、愛する医者ルカから学び取ることが出来ます。

一方デマスには、ルカには愛する医者という形容がなされているのに、何も形容がありません。ただデマスという名のみです。何の賛辞も形容もありません。これは後に堕落する前触れとも受け留められます。デマスの名は、コロサイの信徒への手紙やフィレモンへの手紙にも見られます。しかしテモテへの手紙二 4 章 11 節では「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい」となっています。

彼は途中から、キリストによって救われ、再生されることを拒み、変節し、情熱や理性を失った姿を見せています。世を愛して帰ってきませんでした。いわば信仰を破棄した者となりました。信仰の勇者、光栄ある名を得た一人であったにもかかわらず、信仰の破船者となってしまった。今、キリストに従っている人たちも、目を覚ましていなければならないと、警告を受けるのです。祈りの伴わない教役者は、神の真理と神の教会の埋葬者であると言われます。デマスを思うとまさにそのとおりです。

かつてベトナム戦争当時の実話をもとに映画化されたものがありました。北ベトナムとの全面戦争を前に、アメリカ軍は「死の渓谷」と呼ばれる場所にたどり着きました。そこはフランス軍が全滅した危険な地域でした。緊張感に満ちた出陣を前に、戦闘の責任者であるハル・ムーア中佐は、400 人余りの部下に向かって、こう宣言しました。「きみたちの無事を約束することはできない。だが、きみたちと全知全能である主の前で、これだけは誓う。戦争に突入するとき、私は真っ先に敵陣に踏み込み、最後に出てくる。一人として私の後ろに残りはしない。」

戦場の軍人だけでなく、消防官にも似たようなリーダーシップの伝統があります。「真っ先に入り、最後に出る」というものです。消防官のリーダーは、隊員を率いて火災現場に入る時、最初に飛び込み、最後に出で来る覚悟を決めます。どんな状況でも、まず全隊員を安全に送り出し、自身は死ぬことがあったとしても、最後に出ることが義務であり、名誉であると考えるのです。

初代教会の使徒たちも、救いの恵みに感激して、真っ先に殉教の道を進み出て、最後まで忠誠を尽くしました。真っ先に奉仕と伝道の場に出て行き、すべてのことを最後まで忠実に取り組みましょう。それは、主イエス様の十字架と復活を、御言葉とご聖霊によって受け留め、感動と共に応答して行くことです。宣教は主にある感動だとユ・ジェピルという人が言っていました。

使徒パウロもルカも、まさにその通りに、主にあって忠実なはたらき人でした。主はそのような人を忘れることはなく、栄光と喜びを与えて下さるでしょう。そしてこれらの人々が用いられて、神の国の広がりと、霊的復興・リバイバルが臨みます。しかし祈って、主に力を頂かないと、デマスのように途中で世に行って戻って来ず、滅ぶ人もいることも忘れてはならないことです。主よ、憐みたまえ。お祈り致します。


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