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2023.2.15箴言 7 章 1~27 節「五感の誘惑に処する知恵」

牧師 松矢龍造


箴言の中に、何度も、姦淫の罪に対する警告が与えられています。それは社会の裏面が、どの時代や地域にも存在しているからです。また危険度の高さ、そして罪に陥る人々が多いという現実があるからです。 私も例外ではありませんし、むしろ例外の人は、誰もいないということではないでしょうか。おびただしい人々が、性的な罪に陥っています。現在の性病に関連しているエイズ、梅毒、サル豆などが、人類を蝕んでいます。肉体と精神と社会性と霊魂を破壊してゆく性的な罪に、私も、共同体も、隣人も陥ることがないように、神様の憐れみを求めます。 新渡戸稲造師が、二つの道について次のように言われていました。「青年は概して、進んで信仰に志すか、それとも誘惑に陥って、罪悪の生活を営むか、二つに一つの運命を持つものである。」

本来、性欲という欲望は、創造主なる神様が備えてくださった最も麗しいものの一つです。男性と女性が引き合い、恋愛が生まれ、愛情が育ちます。男性と女性が引き合わなかったら、この世は、どれほど砂漠のようだったでしょう。 しかし神様の御心という枠を外れて、欲望第一主義に走ったなら、食欲ならば、食べすぎて体を壊し、太り過ぎて早死にするでしょう。また遊び過ぎては、貧しくなり、不健康になります。そして性欲の野放しは、家庭を破壊し、個人をだめにし、人間関係をめちゃくちゃにし、神様との関係をも破壊されて行きます。 箴言では、愚か者の道と、知恵ある者の道が対比されています。愚かな者は、他人の妻と、性的な関係を持ち、死刑と処せられます。しかし知恵ある者は、妻以外の女性を追い求めることなく、妻だけを愛し、栄誉と成功とを得て行きます。 そもそも誘惑は、私たちの体の五感を通してやってきます。五感とは、視覚、触覚、味覚、臭覚、聴覚です。今日の箴言の御言葉には、この五感が全て出てきます。まず視覚は、12 節「街に出たり、広場に行ったり、あちこちの角で待ち構えている。」 次に触覚が 13 節「彼女は若者をつかまえると接吻し、厚かましくも、こう言った。」 続いて味覚、14 節 15 節「和解の献げ物をする義務があったのですが、今日は満願の供え物も済ませました。それで、お迎えに出たのです。あなたのお顔を捜し求めて、やっと会えました。」 献げ物は、一部を祭司のものとした後、残りの肉は、当日ないし翌日の夕暮れまでに食べてしまわなければならないと律法に記されています。ですから、この女性は、肉を一緒に食べようと、若者を誘っていると考えられます。 次は臭覚です。16 節「寝床には敷物を敷きました、エジプトの色糸で織った布を。床にはミルラの香りをまきました、アロエやシナモンも。」そして聴覚です。18~20 節「さあ、愛し合って楽しみ、朝まで愛を交わして満ち足りましょう。夫は家にいないのです、遠くへ旅立ちました。手に銀貨の袋を持って行きましたから、満月になるまでは帰らないでしょう。」 具体的には、誤った願望を刺激するような本を読んだり、画像を見たり、想像をふくらませたりしてはならないとの警告です。横浜に三人の青年がいました。夏の夜、連れ立って散歩に出た途中、キリスト教の救世軍の人々に出会いました。三人のうち一人は、その行軍について救世軍の開館に行き、集会に参列して、勧められるままに悔い改め、その時から信仰を志すことになりました。

ところが、他の二人は、それから不動の縁日に行き、帰りに黄金町の遊郭に寄り、その夜から放蕩の味を覚え、だんだんと深入りをして、とうとう金に困ったあまり、他人の物を盗み、裁判ざたになって刑の宣告を受け、市外根岸の刑務所に入れられたのは、前の一人が次第に信仰生活に成長し、救世軍で日曜学校の教師に任命されたのと、同じころのことでした。 彼らの境遇事情等は、ほとんど全く同じでしたが、一方が信仰に志す時、もう一方は、放蕩を始めたばかりに、見る見ると著しい、向上と堕落との差異を招いて行きました。よその女とは、外国人のことでもありますが、ソロモン自身が「外国の妻たち」によって、この知恵から離反したのは、奇妙な皮肉です。 列王記上 11 章 1~8 節「ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。これらの諸国の民については、主がかつてイスラエルの人々に、『あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる』と仰せになったが、ソロモンは彼女たちを愛してそのとりことなった。 彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべき神ミルコムに従った。 ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行ったので、彼女らは、自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。」 それでは、これらの誘惑に陥らない為に、どうすればよいのでしょうか。第一に、父の諭しと戒めを、瞳のように守ることです。箴言 7 章 1~2 節「わが子よ、わたしの言うことを守り、戒めを心に納めよ。戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。」瞼が、繊細で大切な瞳を守るように、「姦淫するな」という戒めを大切にします。 第二に、記憶していつも忘れないようにすることです。2 節前半「それをあなたの指に結び」。記憶して、すぐに思い出すことが必要として、指に結ぶようにです。イスラエルでは、小さな聖句箱を、指に結ぶという習慣がありました。 第三に、3節後半に、「心の中の板に書き記せ」とあります。モーセの十戒が石の板に刻んであったように、神様の御言葉を心の板に刻み込むことで、常に心に留めることです。新約聖書コリントの信徒への手紙二 3 章 3 節「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」 第四に、よその女ではなく、知恵という姉妹に心を留め、分別を、「わたしの友」として大切にすることです。4 節 5 節「知恵に『あなたはわたしの姉妹』と言い、分別に『わたしの友』と呼びかけよ。それはあなたをよその女から、滑らかに話す異邦の女から守ってくれる。」知恵を身に着けることによって、自分を性的な誘惑から守れということです。 第五に、多くの誘惑から遠ざかるようにということです。6~11 節は、逆に自分の方から近づいていってしまっています。「わたしが家の窓から、格子を通して外を眺めていると、浅はかな者らが見えたが、中に一人、意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。通りを過ぎ、女の家の角に来ると、そちらに向かって歩いて行った。日暮れ時の薄闇の中を、夜半の闇に向かって。見よ、女が彼を迎える。遊女になりきった、本心を見せない女。騒々しく、わがままで、自分の家に足の落ち着くことがない。」 罪と誘惑する状況や友人から離れることが重要です。ことに貞操の念に欠けた婦人に出会うくらい、男子にとって危険なことはありません。常に油断してはなりません。

第六に、形式的な信仰では、防ぐことは出来ません。14 節「和解の献げ物をする義務があったのですが、今日は満願の供え物も済ませました。」朝には和解の献げ物をしていながら、午後には、姦淫の誘いをしています。イザヤ書 1 章 11~13 節「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか、わたしの庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など、災いを伴う集いにわたしは耐ええない。」真実な信仰こそ、誘惑を断ち切ります。 第七に、大切なことは、心と身を、神様に捧げて、神様の御前に生きることです。悪魔は、獲物を求めて探し回っていますから、心と身を、信仰によって意識して、神様の御前で歩みます。ペトロの手紙一 5 章 8 節 9 節「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。」 第八に、人生の目的がないと不安定で、多くの誘惑に負けやすいです。神様の栄光と、神様と人を愛することを、人生の目的としていることです。コリントの信徒への手紙一 6 章 18~20 節「みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」 第九に、一時的なことだけを考えるのではなく、過去の失敗の例、未来にどうなってしまうのか。思考の視野を広くすることが大切です。今日の興奮が、明日の破滅をもたらし得ます。21~23 節 「彼女に説き伏せられ、滑らかな唇に惑わされてたちまち、彼は女に従った。まるで、屠り場に行く雄牛だ。足に輪をつけられ、無知な者への教訓となって。やがて、矢が肝臓を貫くであろう。彼は罠にかかる鳥よりもたやすく、自分の欲望の罠にかかったことを知らない。」 第十に、霊的な喜びを持ち、霊的な力で、他人の妻からの誘惑に打ち勝つことです。救いの喜び、救い主の愛の喜び、御国への期待の喜びなどで、心が満たされていることです。 第十一に、姦淫は、偶像と結びついています。また悪魔は、私たちの欲望を狙ってきます。主人の不在とありましたが、主キリストの不在中、異端と俗化と偶像に心が損なわれないように、注意が必要です。コリントの信徒への手紙二 11 章 3 節「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」 第十二に、夫婦の円満さが必要です。夫婦の関係が悪くなると、誘惑に負けやすくなります。

そして 12 の全てにおいて、絶えず祈り、誘惑や攻撃から守られるように、主にすがります。テサロニケへの手紙一 5 章 23 節「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」 最後に、青森のある町の漁業組合の幹部の破滅の結末の例を取り上げます。彼は、だれにも分からないと思って、こっそりと、死んだ友人の嫁と、みにくい、ただれた肉体関係を三年間結びました。その女性は、23 歳も年下ですが、彼に船を買う金を 50 万円も、みついでくれたほどでした。 彼は、大丈夫だと安心していたことでしょう。しかし、その金のことで話がもつれ、肉体的な関 係でつながれた男女の関係がもつれ、ついにかっとなって、彼女を海の上に連れていって、なぐり殺してしまいました。この行方不明事件は捜査され、有名人の彼は、ついにつかまり、殺人犯になってしまったのです。

罪は、最初、楽しみに満ちているようで、自分を汚し、人を汚し、神様の御名を汚し、永遠の破滅へと向かいます。ただ一つの望みは、死への部屋に下る人間を救う為に来られたキリストのみです。十字架のキリストこそ、陰府への道、滅びの道から救ってくださる唯一のお方です。このお方に、絶えず、祈り、助けを求めてゆきませんか。

ローマの信徒への手紙 6章 21 節 23 節「では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」お祈り致します。

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