牧師 松矢龍造
起
私たち希望が丘教会は、長老派の流れの中にあり、有名なハイデルベルグ信仰問答を受け継いでいます。その第一問の問いは次のようなものです。「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」皆さんにとって、生きている時も、死ぬ時も、ただ一つの慰めは、何でしょうか。
信仰問答の答えは「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」
私が、私自身のものでなく、主イエス様のものであることが、ただ一つの慰めなのです。どうしてでしょうか。
信仰問答の答えの続きです。「主は、その貴き十字架の御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払ってくださり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守って下さいますので、天にいます、わたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。
したがって、主は、そのご聖霊によってもまた、わたしに、永遠の生命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできるように、して下さるのであります。」
今日の御言葉の 9 節には、「彼らはあなた(父なる神様)のもの」とあります。他にも旧約聖書イザヤ書 43 章 1 節にもあります。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」
さらに新約聖書ローマの信徒への手紙 14 章 7 節 8 節にもあります。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにして も、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」
私たちは、自分自身のものでもなく、また他の人のものでもありません。そしてサタンのものでもありません。創造主のもの、父なる神様のもの、救い主なるイエス様のものです。ですか ら、悪魔の配下や、滅びや地獄の下にはなく、永遠に神様のものですから、恵みによって、永遠の命と共に、永遠の御国に入れて頂ける者たちなのです。
転
それでは、もう一度ヨハネによる福音書 7 章 9 節「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。」
主イエス様は、大祭司として、弟子たちの為に、執成しの祈りをされています。この時の世とは、「人々を支配しようとする悪の勢力のことです。主イエス様は、悪の勢力の為ではなく、主イエス様の弟子たちの為に祈っておられます。
ただし、主イエス様は、悪の勢力にいる人々の為に、十字架上で、祈られることもありました。ルカによる福音書 23 章 34 節「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』人々はくじを引いて、イエスの服を分け合っ た。」
イエス様を信じる者たちは、父なる神様のものです。主イエス様は、その一人ひとりの為に、今も天の父なる神様の右の座で、私たちの為に執成し続けていてくださっています。ローマの信徒への手紙 8 章 34 節「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
続いて 10 節「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものは、わたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。」父なる神様と、御子なるイエス様の一体性が語られています。ここでの栄光とは、神様のご性質と、ご臨在の現われのことです。もっと言えば、神様の義と愛の現われである十字架と、力ある復活によって、神様の栄光が現わされることです。その栄光を見た弟子たちは、イエス様をほめたたえました。先取りの表現であり、また初代教会の信仰告白と讃美でもあります。
11 節「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」
父なる神様の愛を確信し、また御父の御心に従って歩むことによる一致です。いわば、主イエス様にあって、愛と目的と従順による一致が、私たちが一つであることを保つことに繋がりま す。それは、神様が聖なるお方であるあるように、彼らも聖なるものであることが求められ、一致を保つことは、聖なるものであることの一つです。その為にも、大祭司なるイエス様は、私たちの為に執成し続けておられます。
12 節「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。」
滅びの子とは、イスカリオテのユダのことです。そもそも「滅びの子」とは、原文では「滅びに向かっている者」という意味です。テサロニケの信徒への手紙二 2 章 3 節「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。」
イスカリオテのユダ以外は、イエス様を見捨てて逃げましたが、後に悔い改めて、主に立ち返ります。しかしイスカリオテのユダだけは、裏切った後にも、悔い改めて、主に立ち返りませんでした。詩編 41 編 10 節「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が、威張ってわたしを足げにします。」
続いて 13 節「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」
先のハイデルベルグ信仰問答の第二問は、「それならば、あなたが、この慰めの中に、祝福されて、生きまた死ぬことができるために、あなたは、いくつのことを、知らねばならないのですか。」答えは三つのことです。「第一には、わたしの罪と、わたしの悲惨とが、どんなに大きいかということ、第二には、わたしが、どのようにして、わたしのあらゆる罪と、わたしの一切の悲惨から、救われるか、ということ、第三に、わたしが、どんなに、この救いに対して、神に、感謝すべきか、ということであります。」
罪と悲惨の中にいた私の為に、主イエス様は、身代わりとなって十字架で死なれ、復活され、この御子を信じる者が、罪と悲惨から救われる。このことによって、喜びと感謝が、心の内に満ち溢れます。
14 節「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。」
ハイデルベルグ信仰問答の第三問は、「何によって、あなたは、あなたの、みじめなことを、みとめることができるのですか。」その答えは「神の律法によるのです。」イエス様の御言葉と律法によって、自分の罪を認める者は、イエス様の救いを求めますが、自分の罪を認めない者たちは、主イエス様とキリスト者を憎むのです。
15 節「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。」
悪い者とは、悪魔のことです。サタン・悪魔は、神様と神の民に敵対する勢力の指導者です。この悪魔から、弟子たちを守ってくださるように、主イエス様は、父なる神様に執成しておられます。それは、世から取り去ることではなく、悪魔から守ってくださることです。この世において、弟子たちには、礼拝と証と宣教の使命が、託されています。そして悪魔の誘惑と攻撃に、主にあって打ち勝つ力を与えてくださいと執成しておられることでもあります。
詩編 34 編7節 8 節「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。」
詩編 34 編 18~21 節「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。主に従う人には災いが重なる が、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。」
続いてヨハネによる福音書 17 章 17 節「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」真理とは、原文では、虚偽を少しも含まないという意味でもあります。そして真理とは、主イエス様のことであり、また父なる神様の真実が、主イエス様の中に啓示されていることでもあります。加えて、父なる神様の御言葉は真理です。
この真理によって、弟子たちを聖なる者としてくださいと執成しておられます。ある聖徒が次のように言われていました。「聖き生活は、キリスト教の確実性に対する最大の証拠である。」水鳥が水に入っても、羽根はぬれず、海の魚も、塩に体が染まらないように、キリスト者は、世にあって世に属さず、聖さを保ちます。
それは、日々、神様の御言葉を、信仰生活に適応することによって、知性と感情が、きよめられていくことです。そして、禁欲や諦めによって世を避けるのではなく、世にあって、悪を避ける信仰生活のことです。主イエス様の執成しは、世から弟子たちが守られ、一致し、悪しき者の攻撃から守られるように。真理によって聖別されることです。
結
18 節 19 節「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」聖なる者とされることは、聖なる神様の御用の為に、取り分けられ、ささげられた者となることでもあります。すなわち悪しき世にあって、主イエス様の証人として、しっかりと立つことです。また献身の生涯であり、主イエス様の御名によって、相互愛の共同体を造り、この世に打ち建てることによって、世に打ち勝つことです。
あなたも、御言葉とご聖霊と真理によって、聖なる者とされ、地の塩、世の光とされ、相互愛によって、世に打ち勝って行きませんか。最後にヘブライの信徒への手紙 7 章 25 節を拝読して閉じます。「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」お祈り致します。