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2023.2.1箴言 6 章 1~19 節「主の警告と主の憎まれるもの」

牧師 松矢龍造


古代中近東の知恵文学では、「三つ四つ」あるいは「六つ七つ」などの数え詞が頻繁に使われていました。たとえば、この箴言では、30 章 18 節「わたしにとって、驚くべきことが三つ、知りえぬことが四つ。」そして今日の御言葉では、6 章 16 節「主の憎まれるものが六つある。心からいとわれるものが七つある。」

これらは修辞法の一つで、人の思いを引き付ける役割があります。加えて「六つ七つ」の場合は、完全数の一つですが、「7」という数字が強調されています。そして心が引き付けられるだけでなく、その警告を無視することなく、受け留めて、神様の憐れみを頂いて、ご聖霊によって、実行して行くことが大切になります。

今日の御言葉では、三つの警告と、主の憎まれているものが、展開されています。三つの警告とは、一つは軽率に保証人になることへの警告。二つ目に、怠惰に関する警告、そして三つ目に、悪を行う者への警告が記されています。その後に、主の憎まれる六つ七つのことが続いています。

加えて、古代中近東では、身近な動植物を例にして、知恵ある生き方を説くことが一般的でした。ヨブ記 12 章 7~10 節「獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らはみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。すべての命あるものは、肉なる人の霊も、御手の内にあることを。」

知恵で有名なソロモンは、樹木、獣類、鳥類、爬虫類、魚類について論じたとされています。列王記上 5 章 13 節「彼が樹木について論じれば、レバノン杉から石垣に生えるヒソプにまで及んだ。彼はまた、獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても論じた。」

それでは、箴言 6 章 1~3 節をもう一度「わが子よ、もし友人の保証人となって、他国の者に手を打って誓い、あなたの口の言葉によって罠に陥り、あなたの口の言葉によって罠にかかったなら、わが子よ、そのときにはこうして自分を救え。命は友人の手中にあるのだから、行って足を踏みならし、友人を責め立てよ。」

手を打つとは、保証あるいは、誓う時の動作です。若者は、とかく保証人になることの重要性に気付かないので、軽率に保証人になって、後悔しないように警告しています。借金の保証人になる場合、借主が返せなければ、保証人が支払わなければなりません。額が大きければ、財産を失うだけでなく、返せなければ、貸主の奴隷とされこともありました。

ただし、ここでは、全面的に、保証人になることを禁じているのではありません。使徒パウロは、逃亡奴隷であったオネシモの保証人となりました。新約聖書フィレモンへの手紙 1 章 18 節 19 節「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。」

1 節で「友人」と訳されている原文の言葉は「隣り人」という意味でもありますから、必ずしも親しい友人とは限りません。リビングライフ訳聖書では「見ず知らずの人」と訳しています。自分に責任を負う力があるのか、あるいは自分の家族が苦しまないか、よく考えることが必要です。

続いて箴言 6 章 4 節 5 節「あなたの目に眠りを与えず、まぶたにまどろむことを許すな。狩人の罠を逃れるかもしかのように、鳥のように、自分を救い出せ。」

リビングライフ訳聖書では「保証人になるのを取り消してもらいなさい」とありました。罠にかかったら、必死になって、保証人になるのを取り消してもらうようにすべきです。

さらに金銭ばかりでなく、道徳的な破産者として適応するなら、お互い、自分自身の知恵と思想では、私たちを、道徳的破産状態から救うことは出来ません。キリストは、私たちの罪と死の負債を、すべて引き受けてくださり、罪の支払う値を、十字架で肩代わりしてくださいました。それは身代わりの死でありました。霊的な破産者だと気が付いたなら、必死になって、キリストに逃れる必要があります。

6~11 節「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが、夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまぬいて、また横になる。貧乏は盗賊のように、欠乏は盾を持つ者のように襲う。」ローマ帝国の時代、政治家であり、哲学者また詩人でありましたセネカの言葉です。「なまけているよりも、病気をした方がましである。」創造主なる神様は、休息と回復と礼拝の為に、毎週一日、安息日を与えてくださいました。しかし働くべき 6 日の時に、休むべきではありません。怠惰と共に、お金と時間の浪費も含まれているでしょう。

蟻は身近な昆虫であり、勤勉が報われる例となっています。ソロモンは、博物学の知識に富んでいましたので、このような例を用いることが出来ました。箴言 30 章 24 節 25 節「この地上に小さなものが四つある。それは知恵者中の知恵者だ。蟻の一族は、力はないが、夏の間にパンを備える。」手をこまぬいていると、貧乏は盗賊のように、忍び寄ります。仕事を怠けたり、不注意なことをしたりすることへの警告です。しかし加えて、霊的な怠惰にも適応できるのではないでしょうか。日本人は、勤勉で知られていますが、神様や、愛や、永遠を求めることに関しては、怠惰になっていまいかと思うところです。御言葉を聴くことの飢饉がこの日本にはあります。

12~15 節「ならず者、悪を行う者、曲がったことを言い歩く者、目くばせし、足で合図し、指さす者、心に暴言を隠し、悪を耕し、絶えずいさかいを起こさせる者。このような者には、突然、災いが襲いかかり、たちまち痛手を負うが、彼を癒す者はない。」

「ならず者」と訳された原文の言葉は、「よこしまな者」「無価値な者」「破滅者」「ベリアル・悪魔・サタン」という意味でもあります。「目くばせし、足で合図し、指さす者」とは、嘘つきが、人を騙す時の態度や、客を騙すための合図などを指しているのでしょう。

主なる神様を無視する者は、主の厳しい裁きを受けて、はじめて、自分の愚かさ、うかつさに気付くことになります。しかし自分の力では、本当の癒しを受けることが出来ません。ただ、ただ、誰もが、救い主を求める他に、救われ、癒される道はありません。

16~19 節「主の憎まれるものが六つある。心からいとわれるものが七つある。驕り高ぶる目、うそをつく舌、罪もない人の血を流す手、悪だくみを耕す心、悪事へと急いで走る足、欺いて発言する者、うそをつく証人、兄弟の間にいさかいを起こさせる者。」

目、舌、手、心、足と、身体の部分を使って、悪行が表現されています。本来、人の体は、神様の宮です。しかし罪の為に、肉体が用いられています。歴史上のドイツやポーランドにおけるユダヤ人や障害者への虐殺があります。また日本のアジア侵略の例もあります。そして現在、ロシアのウクライナ侵攻があります。

驕り高ぶりは、私たちからの真実の祝福を奪ってゆきます。そしてエゴイズム・自己中心は、神様と人を認めようとしません。謙遜こそ、神様を恐れ敬う生活の基礎です。イザヤ書 57 章 15 節「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

神でありながら、人となられたキリストを、心の中に入れることでしか、私たちの驕り高ぶりの解決はありません。そしてキリストによって救われたなら、ご聖霊の助けを受けて、自分の全身を捧げて聖別し、ただ神様の栄光の為に、身体を用いなければなりません。

ローマの信徒への手紙 6 章 12~14 節「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。

かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく恵みの下にいるのです。」

人間関係における不和は、大きな不幸であり、主はそのような者を憎まれます。遺産相続など、血で血を洗うような争いは、今日でもよく耳にするところです。毎日のニュースの中で、血なまぐさいことが各地で起きています。

人間の持っている原罪と罪、悪魔と悪霊の業を解決することなく、真の平和も、真の命もありません。私たちの原罪と罪、悪魔と悪霊に打ち勝つのは、救い主だけであり、その為に、主イエス様は、この世に来てくださいました。ヨハネの手紙一 3 章 8 節「罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」神様に愛されている皆さん、軽率な保証、怠惰と浪費、悪を行い、驕り高ぶる罪を、主の御前に告白し、神様の憐れみと、ご聖霊の助けを求めてゆきませんか。お祈り致します。


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