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2023.2.8箴言 6 章 20-35 節「人生の大やけどと思慮に欠ける人生 」

牧師 松矢龍造


今日の御言葉の主題は、モーセの十戒の第七番目の戒めである「姦淫してはならない」と言えます。姦淫は、人間の欲望中心主義とも言えます。それが不倫であった場合、いくつかのことが、予想されます。

一つは、二つの家庭に、みっともない争いが起きます。二つ目に、近所の人の笑いものになります。三つ目に、子どもたちは、毎日、互いの家で、冷たく激しい憎悪のやり取りの中で暮らし、ねじれてしまいます。四つ目に、やがて二つの家庭の破壊ともなるかもしれません。

しかし姦淫の罪は、たとえ今犯していなくても、原罪をもっている全ての人は、肉の欲望に、常に警戒が必要となります。エフェソの信徒への手紙 2 章 3 節「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」

姦淫の罪に陥らない為には、まず父の戒めを守り、母の教えに聴き従うことが必要です。箴言 6

章 20 節「わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。」

21 節「それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ。」心に結びつけ、首に巻きつけよとは、親の訓戒であると共に、律法のことでしょう。そして心に結びつけるとは、忘れないようにすることを意味しています。

22 節「それはあなたの歩みを導き、あなたが横たわるとき見守り、目覚めればあなたに話しかける。」主の戒めは、一見、窮屈なようで、本当は、いつも私たちの身近にいて、私たちを導き、悪から守り、生かしてくださいます。

23 節「戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。」

悪いことや愚かさ、また死とは、闇と表現されますが、正しく知恵深い人の人生は、太陽の輝き、律法は灯火とされます。詩編 119 編 105 節「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」

一人の親の感化について、次のように例があります。「ジョン・ニュートンの母は、彼が七歳の時に天に召されましたが、それでも七年間に、彼に与えた信仰的感化は、最も偉大なものがありました。ジョン・ニュートンは、船乗りとなり、成長後、アフリカ通いの奴隷売買船に乗り、一時はきわめて放縦な生活をしていました。しかし後に悔い改めて、力ある信仰者になりました。

彼が作った讃美歌「アメイジィング・グレイス」は、世界各国に訳され、多くの人々に霊感を与えています。このジョン・ニュートンの導きによって、悔い改めた者のうちに、クラウデヤス・ビューカナンという人がいました。彼は後に、東インドに行って、福音を宣教しました。

そのビューカナンの作である「東方の星」という小冊子を読んで、感動して奮起した者の中に、アドニラム・ジャドソンがいました。後年ビルマ伝道の開祖となったのは、この人でした。一人の親が、その家庭を通じて、社会や世界に及ぼす感化が、どんなにか大きいかを示している一つです。

24 節「それはあなたを悪い女から、異邦の女の滑らかな舌から守ってくれる。」悪い女と訳されています言葉は、原文では、「みだらな女」「淫行する女性や人妻」という意味でもあります。

25 節「彼女の美しさを心に慕うな。そのまなざしのとりこになるな。」みだらな思いで、心に慕うことが、罪の源となります。人類の始めであるエバが、善悪の知識の木の実を欲したことは、心に慕うことでした。そしてイエス様は、マタイによる福音書 5 章 28 節でこう言われています。「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

26 節「遊女への支払いは一塊のパン程度だが、人妻は貴い命を要求する。」遊女への支払いは、一塊のパン程度というのは、別の解釈があります。それは遊女に支払う為に、一片のパンを食べるしかないほど貧しくなるというものです。けれど、人妻との姦淫は、命と霊魂の破壊に繋がります。

27~29 節「火をふところにかきこんで、衣を焼かれない者があろうか。炭火の上を歩いて、足にやけどをしない者があろうか。友人の妻と通じる者も同様。彼女に触れれば、罰せられずには済まない。」

大やけどの例をもって、友人や隣人の妻と姦淫することの破滅を示しています。レビ記 20 章 10 節「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」

続いて 30 節 31 節「飢えを満たそうとして盗みを働いた者を、だれも侮りはすまいが、それでもつかまれば、七倍の償いをし、家財の一切をそれにあてなければならない。」

律法によれば、盗んだ物の償いには、最高でも 5 倍なので、7 は完全数ですから、完全な償いを指すのでしょう。人妻と姦淫することは、人妻を盗むことです。

32 節「人妻と密通する者は意志力のない男。身の破滅を求める者。」静岡県の御殿場で起こった例です。ここに一軒の貸座敷が出来ました。それから三年後、この貸座敷のために、その町の 50 件の家が倒産し、少なくとも、その家族 300 人前後が、路頭に迷うことになりました。その貸座敷とは、遊女の館であり、人々は遊女のために貧苦に陥ったのです。そしてとうとう霊魂の命さえ、危うくすることになります。

33 節「疫病と軽蔑に遭い、恥は決してそそがれない。」

疾病とは、性病のことでもありますが、原文では「疫病」は、「痛手」や「打ち傷」という意味でもあります。ですから、ここでは、夫は姦通した妻と相手の男を、公の場で、鞭打って辱めることも選べたようです。しかし申命記 22 章 22 節も選べたわけです。「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。」

続いて 34 節 35 節「夫は嫉妬と怒りにかられ、ある日、彼に報復して容赦せず、どのような償いをも受け入れず、どれほど贈り物を積んでも受け取りはすまい。」

姦淫の罪は、償うことが出来ないと言っています。姦淫の罪は、人の財産を盗んだというのとは違って、人の人格をもてあそび、また踏みにじったことになりますから、その災いの及ぶところは、はるかに深刻であるということです。嫉妬、争い、恨み、流血の惨事、そしてついに霊魂の滅亡に行かねば止まないものとなります。

コリントの信徒への手紙一 6 章 16~18 節「娼婦と交わる者は、その女と一つの体となる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。

しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。」

旧約聖書のダビデ王は、バテシバという人妻と姦淫を犯し、その夫を死に追いやりました。そして二人間に産まれた最初の子は亡くなりました。さらにその子どもたちにも悪影響を与え、不品行や姦淫をなす子どもが複数でてしまいました。そしてダビデの子ソロモン王は、千人の妻とそば女を通して、信仰の破船に遭いました。

その罪に陥らない為に、第一に、父や母の教え、律法の戒めに、ご聖霊によって絶えず触れ続け、忘れないようにすることが大切です。詩編 19 編 9 節「主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。」

第二に、もし悪しきものを心に入れたなら、心の中で悔い改めて、もう一度、神様を迎え入れて、神様のきよい愛を、心を頂くことが、誰にでも必要です。そして第三に、主なる神様によって、きよい心を創造して頂くことです。詩編 51 編 12 節「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」

第四に、自分の体は、イエス様の十字架によって買い戻された、ご聖霊の宮であることを、常に覚えることです。コリントの信徒への手紙一 6 章 19 節「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」

そして第五に、私たちの身体は、神様から委ねられた神様のものです。ですから、すべて神様の栄光の為に用いてゆくことです。コリントの信徒への手紙一 6 章 20 節「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

遊女との交わりは、人格的な破滅をもたらし、人妻との不倫は、共同体の破壊をもたらします。そして姦淫の罪は、霊魂の破壊に繋がります。誰でも、弱さをもっています。ですから、御聖霊の助けを祈り求め、主を恐れ敬い、純潔を守ることが、誰でも必要です。

旧約聖書のヨセフは、ポティファルの妻から、何度も誘惑を受け、その度に、その場から逃げました。誘惑は、避けられませんが、打ち勝つか否かは、私たちの側の決断と実行にかかっています。

最後に詩編 51 編3節と 4 節を拝読して閉じます。「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって。背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」お祈り致します。


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