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2023.3.12ヨハネによる福音書 18 章 12~27 節「真実のみを語られるイエス様と三度否むペトロ」

牧師 松矢龍造


イスラエルに研修に行かせて頂いた時、必ず訪れる場所の一つは、イエス様が大祭司から尋問を受けた屋敷跡です。またすぐそばにあります、ペトロが三度、主イエス様を否んだ場所に建てられた鶏鳴教会です。さらにイエス様が、大祭司のところに連行される場所のすぐそばにあります、石が敷かれた坂は、2000 年前から保存されています。そこには、イエス様が縛られて連行される場面が描かれた、レリーフが、外壁にかけられています。

イエス様の苦難と共に、ペトロに代表される人間の弱さと罪を、しみじみと思わされる場所です。さらに大祭司の屋敷には、井戸を改装して、受刑者をつるして逃げないようにする牢屋があります。イエス様は、そこにつるされながら、夜の間過ごされたことを示すモザイク画もあります。そして苦難のイエス様のことが預言されている聖書箇所が、何か国かで記されています。

ペトロが三度主イエス様を否むと、イエス様の預言されたとおりに、鶏が泣きます。そのことを深く覚えるように、そこに建てられた教会は、鶏が泣く、すなわち鶏鳴教会と名付けられた教会名となっています。けれど、ここでは、ペトロの弱さと罪を記念するというよりも、その弱さと罪の為に、主は苦しみを受け、悔い改める者の罪をなお赦されるイエス様の愛の深さを記念する為に建てられた教会であるとありました。

それにしても、聖書において、ペトロが三度主イエス様を否むことを、聖書記者たちは、正直に書く所に、読む者を感動させます。旧約聖書においても、ダビデ王とバテシバの事件なども、正直に書くなども、最たるものです。それは、聖書記者たちが恐れたことは、人間ではなく、主権者である神様であったからです。私たちも、自分の罪を正直に告白し、また主なる神様のみを恐れ敬い、悔い改めて、主のイエス様の十字架の愛を受け入れることが、誰にでも必要なことです。

それでは、18 章 12 節からもう一度。「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、」。ゲッセマネの園において、イエス様を逮捕する為に同行した一隊の兵士たちは、百人のローマ兵を率いるローマ軍の百人隊長であったでしょう。しかし連行する場面では、千人にローマ兵を率いる千人隊長となっています。イエス様一人を連行するのに、相当な警備体制となっています。ユダヤ当局とローマ総督は、弟子たちと群衆を相当警戒したのでしょう。ところが、イエス様は、まっすぐに十字架に向かわれ、静かなたたずまいで、連行されて行かれました。

ここで下役たちとありますが、彼らは神殿を守り、エルサレムのユダヤ人指導者会議・最高法院が民衆を統治するのを助けた人たちです。政治と軍事と宗教において、イエス様は、捕らえられ縛られて連行される。まさに人間社会の愚かさと誤りが記されています。ウクライナ侵攻を続ける、今のロシアの姿と重なります。

13 節「まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。」どうして、その年の大祭司であるカイアファでなく、しゅうとのアンナスのところに、先ず連行したのでしょうか。

その前に、大祭司とは、エルサレムの神殿の大祭司のことです。神殿に仕える祭司たちを統括し、イスラエルの宗教と政治において、最高の権力を持っていました。ローマ帝国から派遣されていた総督は、このユダヤの宗教と政治の最高権力者を、たびたび交代させて、権力の集中を防ごうとしていました。

モーセの律法によれば、大祭司は、終身官でした。けれど、この頃のユダヤでは、まさにローマから派遣されていた総督に干渉され、たびたび大祭司を廃位していました。アンナスは、イエス様が幼少時、ユダヤ人の大祭司でありましたが、ローマ総督によって辞職させられ、彼の息子たちと、娘婿である義理の息子カイアファが後任となっていました。しかしアンナスは、辞職後も大祭司の称号を持っていて、イエス様をどうするかなど、重要な問題では、助言を求められていました。

言い伝えによりますと、しゅうとのアンナスと大祭司カイアファは、エルサレム神殿から近い場所に住んでいて、しかもイエス様がアンナスから、カイアファの所に送られても、同じ敷地内の移動だったと考えられます。

いずれにせよ、大祭司カイアファとしゅうとのアンナスも、人々を神様に導く責任よりも、政治的な野心に関心があったようです。そして大祭司が、神の御子なるイエス様に、有罪判決を下したことは、人間の愚かさと罪の象徴でした。

14 節「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。」宗教改革者の一人であるジャン・カルヴァンは、この時の大祭司カイアファを、旧約時代の偽預言者バラムと比較しています。「共にある程度までは、神様の御旨をわきまえながら、しかもその行いは、神様の御旨に沿わなかった。彼らは、不真実で、二心の者どもであった」と言っています。

ヤコブの手紙 4 章 8 節「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。」私たちも、絶えず、神様に近づいていないと、二心の罪に陥る危険があります。大祭司たちや、バラムは、他人事ではありません。

15 節 16 節「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立ってい た。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。」

ここで、もう一人の弟子とは、このヨハネによる福音書の記者として用いられたヨハネではないかと考えられています。このヨハネは、大祭司の知り合いであったとすれば、ユダヤでは家柄が良かったと推察されます。そしてペトロたちが、大祭司の中庭に入ったということは、ここである意味で、二つの裁判が行われていたと見ることが出来ます。一つの裁判は、大祭司の前でのイエス様に対して、もう一つの裁判は、中庭にいたペトロに対してです。

17節「門番の女中はペトロに言った。『あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。』ペトロは、『違う』と言った。ここでペトロが「違う」と言ったと訳されていますが、原文では「私はある」という言葉の否定形となっています。イエス様は、ご自身のことを「私はある」と何度も正直に言われています。しかしペトロは、そんな者ではないと、否定しています。裁判におけるイエス様とペトロが対比されています。

ペトロを脅したのは、ローマ兵ではなく、門番の女性でした。強い相手ではないのに、ペトロは、否認してしまいます。まさに大胆さと勇気を失っていました。それは逃げた弟子たちの心を象徴しています。人生の大事な瞬間において、キリストが主であることを否定し、何らかの危険に直面した時、信者であることを隠すという罪を犯してしまうことも決して他人事ではなく、私自身、私たち自身の問題です。

加えて、キリストの僕が、その身分を明かさずして、敵人の中に入るのは、いつも危険であることが示されています。むしろ、めいめいの立場を明らかにして、世に挑戦しないと、ペトロのように、何度も否む者になりかねません。

18節「僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。」

ペトロは、自分の罪による、精神と霊的な冷え込みを、この世の物理的な火で暖めても、精神と霊的冷え込みが、暖まることなどできません。むしろ、主イエス様が裁判沙汰になっているのに、平然と暖をとることが、そもそもの誤りではないでしょうか。ペトロは、僕や下役たちと一緒になって、火にあたっていました。それは彼らと同じ位置にまで、なり下がってしまっていたことの表われです。

19~21 節「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。『わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したか は、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。』」

ペトロの否認に対して、イエス様の方は、公然と語られていることが対比されています。他の福音書では、イエス様は、大祭司とユダヤ人指導者会議・最高法院の全員の前で、裁判を受けたことが伝えられています。イエス様は、この時、どんな場所でも、公然と「私はある」と言われています。

22~24 節「イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、『大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。『何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。』アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。」

イエス様が真実を言われているのに、下役から平手打されました。何ら悪いことをしたと証明できないにもかかわらずです。イエス様は、この世において、正式に大祭司として任職されたわけでもなく、また正規のユダヤ人門下での教育を受けたわけでもありません。しかし神様の御前に、まことの大祭司、真の預言者、まことの王の王でした。そしていかなる意味でも、秘密結社や政治性を帯びた不穏な軍事的なメシア運動でもありませんでした。

25~27 節「シモン・ペトロは、立って火にあたっていた。人々が、『お前もあの男の弟子の一人ではないのか』と言うと、ペトロは打ち消して、『違う』と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。『園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。』ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。」

ペトロは、自分の力に頼り、祈りが不足していて、まさに二度、三度、イエス様を否認しました。「打ち消す」とは、「関係がない」「拒絶する」という意味でもあります。

けれど、このペトロの、この弱さと罪は、私自身、私たち自身の弱さと罪です。

しかし、にもかかわらず、イエス様の赦しの愛は、どこまでも大きいのです。私たちが、もし心から悔い改めるなら、イエス様にとって、大き過ぎて、赦せないような罪はありません。あなたの最も重い罪でさえ、あなたが、それを捨てて赦しをこうなら、イエス様は赦してくださいます。罪による敗北の中ではなく、たとえ敗北したとしても、悔い改めて、善を目指して努力する中で、わたしたちの真実な人格を認めてくださいます。この手痛い失敗から、悔い改めて、立ち直ることによってのみ、ペトロは教会の指導者となることが出来ました。

神様に愛されている皆さん、あなたも、このまことの大祭司なるイエス様の執り成しを受け て、悔い改めて主イエス様の十字架の赦しを受けとりませんか。そして御聖霊なる神様の助けに

よって、復活のイエス様から力を頂いて、主イエス様の証人として、「私は、イエス様の、十字架と復活の証人です」と証しして行きませんか。お祈り致します。


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