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2023.3.15箴言 10 章 1~11 節 「神様に従う人と逆らう人」

牧師 松矢龍造


箴言の多くは、ソロモンの作と言われています。ソロモンは、イスラエルの王ダビデとバテシバの子です。ソロモンは、神様から多くの知恵が与えられ、知恵の深さと、多くの格言を書いたことで知られています。格言は、別訳では、箴言と訳されます。ただし多くの知恵があっても、自らの弱さを、晩年になるほどに自覚していった人物ではないでしょうか。

列王記上 5 章 9~14 節「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。

ソロモンの知恵は、東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさった。彼はエズラ人エタン、マホルの子らであるヘマン、カルコル、ダルダをしのぐ、最も知恵ある者であり、その名は周りのすべての国々に知れ渡った。

彼の語った格言は三千、歌は千五首に達した。彼が樹木について論じれば、レバノン杉から石垣に生えるヒソプにまで及んだ。彼はまた、獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても論じた。あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさに聞いた全世界の王侯のもとから送られて来て、その知恵に耳を傾けた。」

知恵とは、元来、創造主なる神様を恐れ敬うことであり、愚かさとは、主なる神様を否定して、主をないがしろにすることです。この神様に逆らう者は、知恵を無視して、祝福を失い、滅びに至ります。逆に神様に従う者は、知恵ある歩みをなして、祝福と長寿を得ます。そして受けた恵みをもって隣人を潤します。

箴言では、反意的な対比や、同義的対比など、パラレル的な表現が多いです。けれど対比をすることで理解が進みますが、神様に従うことを求めながら、いつのまにか、神様に逆らう歩みをなしてしまうのが、私たちの現実ではないでしょうか。ですから、父なる神様の憐れみと、主イエス様の救いと、ご聖霊の助けと力を、誰でも必要とします。この恵みの中で、箴言と格言、知恵と対比を受け留めていくことが、重要となります。

それでは、箴言 10 章 1 節からもう一度。「ソロモンの格言集。知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き。」格言や箴言は、子どもたちには、通常家庭で、父や母を通して教えられました。キリスト教は、親孝行を重んじています。出エジプト記 20 章 12 節「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」

イエス様は、天におられる神様を、父とお教えになりました。これは人が、肉体の父母を敬愛するということを前提として立てられた教えです。父母を敬うことを理解しない者に、神様を父として敬愛せよと教えることは無意味だからです。神様を愛する者は、また親をも敬愛せねばなりません。真のクリスチャンは、よく親に仕え、孝行であるはずです。

ところで、格言や箴言は、人間の行動や生活に関して、真理を伝えたり、助言を与えたりする短い記述です。ある方の表現では、詩編は生の野菜であり、箴言は乾燥野菜である。乾燥のままでは、生の野菜におとるが、使い方次第では、有益なものとなると言われていました。ですから親は、乾燥している箴言や格言を、実際の生活や行動の中で、生きたものとして、子どもたちに教え、主にあって模範の中で伝えることが重要となります。そして信仰の遺産は、後に遺ります。

ヘブライ人の手紙 11 章 1 節 2 節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」

続いて箴言 10 章 2 節「不正による富は頼りにならない。慈善は死から救う。」正しい生き方への報いとして与えられる幸いな人生が、富よりも良いとされます。しかし富に頼って自分を守ろうとする者は、最後に苦しむことになります。生き方にふさわしい報いを受けるという考え方を、応報思想と言います。それは人生の一面の真理です。しかしこの応報思想は、人生の本来の姿とされる面がありますが、現実には、敬虔な人が事故や病気で早死にし、悪人が反映して長生きすることもあります。

詩編や箴言は、知恵文学に分類されますが、他にもヨブ記やコヘレトの言葉があります。これらの知恵文学は、因果応報だけでは解けない人生の問題を取り上げ、より複雑な視点から書かれています。そのことは、他の時に譲ります。

2節の後半に「慈善は、死から救う」とありますが、貧しい人を顧みることは、神の民の大切な歩みです。申命記 24 章 17~22 節「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。

畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。

ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」慈善の歩みは、神様から祝福を受けて分かち合う、祝福の基としての神の民にふさわしいものです。

続いて箴言 10 章 3 節「主は従う人を飢えさせられることはない。逆らう者の欲望は退けられる。」もちろん神様に従う神の民に、問題や苦しみがないわけではありません。けれど、人がもし神様の知恵に従うなら、神様は、その人を困難から助けることがお出来になります。

10 章 4~7 節「手のひらに欺きがあれば貧乏になる。勤勉な人の手は富をもたらす。夏のうちに集めるのは成功をもたらす子。刈り入れ時に眠るのは恥をもたらす子。神に従う人は頭に祝福を受ける。神に逆らう者は口に不法を隠す。神に従う人の名は祝福され、神に逆らう者の名は朽ちる。」

不正ではなく、正しく勤勉に働くなら、神様の御前で真に富と成功があります。逆に不正と怠惰なら、神様の御前で恥じてあり、一時繫栄したとしても、やがて神様によって裁かれ、その名は朽ちて行きます。

8~11 節「知恵ある心は戒めを受け入れ、無知な唇は滅びに落とされる。完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない。嘲りのまなざしは人を苦しめる。無知な唇は滅びに落とされる。神に従う人の口は命の源、神に逆らう者の口は不法を隠す。」

神様に従う者は、神様を愛し、神様のへの従順を求める人たちです。しかし完全な者であることを意としていません。完全に正しい人となることは、人間にとって不可能なことです。むしろ自分の罪を、主の御前に告白して、主の慈しみを求めます。詩編 4 編 4 節「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。」

不完全な者ですから、正しい生活を送れるように、ご聖霊の助けと力を求めます。主は正しい生活を送れるように、ご聖霊をお与えくださり、助けてくださいます。ペトロの手紙二 1 章 3~8 節

「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。

この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊く、すばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。」

正しい人になる為には、人は神様を知らなければなりません。そして神様は、私たちが、神様の知恵に従い、正しく清い心となり、さらに情け深い者となることを望んでおられます。私たちの生まれながらの肉の力では、そのような者になることは不可能です。父なる神様の憐れみと、御子イエス様の救いと、ご聖霊なる神様の助けと力を求めることが、誰にでも必要です。

最後に、ファ・ジョンブという方の「不完全な者たちがともに働く喜び」を受け留めます。「この世には、完全な人はいません。ですから、だれかを見て『あの人は完璧だろう』と思ってはなりません。教会は、不完全で弱い人たちが集まり、仕える喜びで満ちている共同体であり、だからこそ、神様の恵みが流れるところです。

しかし『私たちは、みんなで奉仕するのもいいけれど、あの人とは、一緒に奉仕できない』と言いたくなる人もいるでしょう。私も、牧会する中で、そのような人に多く出会いました。どこに行っても、合わない人は必ずいます。話が通じない人、見るだけで心が重くなる人がいます。時には、夫婦間でも、対立することがあります。人生、一体、だれに頼ることができるでしょうか。

私たちが信頼できるのは、神様だけです。私たちはみな工事中です。神様のみもとに行くま で、工事が必要な欠点だらけの存在なのです。ともに仕えるといのは、心が通じ、自分の心のうちを分かってくれる人とだけ、一緒に奉仕をするという意味ではありません。心を傷つける人 も、話が通じない人も、排除してはなりません。

そのような人を除いて、ともに働く中で生じる喜びは、この世的で、人間の喜びです。ご聖霊の助けなしに、愛することも受け入れることもできない人と、あきらめずに、ともに歩むなら、神様が与えてくださる、天の喜びと感謝を味わうことができるでしょう。」

神様に愛されている皆さん、神様に逆らう人たちが、私たちの周りにいます。また神様に従う人であっても、自分も含めて、完全な人は誰もいません。その中で、御聖霊によって、正しい歩みを助けて頂き、また不完全な隣人に対しても、互いに道路工事中の者たちであることを覚え て、主にあって、共に歩んで行きませんか。お祈り致します。


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