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  • 執筆者の写真CPC K

2023.3.19NGW ヨハネによる福音書 14 章 6 節『イエス様は父なる神様のみもとに至る唯一の道』

イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」


牧師 松矢龍造


よく富士山の頂上に行くには、色々な道があるので、天の父なる神様のみもとに至る道も、色々あるのではないですかと言われる人がいます。もちろん富士山にかぎらず、ある山の頂上に至るためには、いくつも道があるでしょう。

しかし父なる神様のみもとに至るには、いくつもの道はあるでしょうか。たとえば一つは、律法を完全に守る道ならどうでしょうか。誰も完全に守ることは出来ません。また沢山勉強して、色々な知識を身につける道ならどうでしょうか。色々なことを知ったとしても、完全な知識に至る人はだれもいません。ある方は、神様の知識は、全世界の海の水のようだと言いました。人間は、自分の頭の大きさのバケツで、いくら海の水をくんでも、くみつくすことが出来る人はいません。

それでは、他の偶像の神々を信じることはどうでしょうか。人が救われる為には、罪のない人が、身代わりとなって十字架につけられることがないなら、私たちの罪は赦されません。私たちは、義人ではないからです。嘘や妬みの罪、良いことを完全にできない罪を皆、持っています。そして死んだ後、復活することが出来る人でなければ、天におられる父なる神様のもとに行くことが出来るようには出来ません。

他の宗教や、他の聖人と呼ばれる人がいても、そこまで出来る人は、神の御子・救い主なるイエス様以外にいません。 私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかり、三日後に復活されたイエス様だけが、私たちを、天におられる父なる神様のみもとにいたる唯一の道なのです。

使徒言行録 4 章 12 節には、イエス様以外に、救われて天の父なる神様のみもとにいたる名はないと言われています。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

ある時、イエス様は、トマスさんから、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」と質問されました。トマスさんは、後に、復活されたイエス様のことを一番疑った人として出てきます。けれど復活されたイエス様に出会って、信じる人に変えられました。

イエス様は、トマスさんからの質問に対して、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ、だれも父なる神様のもとに行くことができない」と言われました。イエス様こそ、神様の真理を学び、父なる神様と共にある、永遠の命を見出す為の、唯一の道です。

地球を照らす太陽は、一つだけです。世界中どこにいても、その場所を照らす太陽は一つだけです。同じように、世の光は、イエス様だけです。また神様の御前で、罪が赦され、永遠の命を与えることがおできになるのも、神の御子にして救い主なるイエス様だけです。

イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかられ、死んで墓に葬られ、陰府に下られました。そして三日後に復活され、天に昇られました。それは、父なる神様と共なる住まいである父の家を、イエス様を信じる私たちの為に用意に行かれるためでもありました。そして用意が出来なら、再びこの世に戻って来られて、私たちに永遠の命を与えて、天にあります父の家に迎えてくださいます。

もともと御子イエス様の内側には、霊的に父なる神様がおられ、父なる神様の内には、霊的に御子イエス様がおられます。父なる神様と御子イエス様は一つです。そのことは、難しい表現では、一体性と言います。ですから、御子イエス様の言葉と御業は、父なる神様の言葉と御業です。

イエス様が、父なる神様のみもとにいたる道であるあるなら、イエス様の御名によって祈る祈りは、あたかもイエス様ご自身が祈られたかのように父なる神様に聴かれるのです。

ただし、その祈りの内容が、神様の御性質である愛と義と正しさに沿った、神様の御心に従って祈るならです。

私たちの願いと祈りは、父なる神様が望んでおられることと一致しているなら、神様は、その願いと祈りをかなえてくださいます。それはさらに言いますと、心から神様に従い、神様の御心を行うことを求めることからくる祈りです。

最後に、イエス様は、ご自身のことを道と言われました。道はどのようにして造られるでしょうか。たとえば山に登るために、最初から道があるわけではありません。人が何度もその場所を踏んで行くときに、そこが道となってゆきます。同じように、父なる神様のみもとに至る道は、イエス様という道を踏んでゆくことで、正しい道や永遠の命と、父なる神様の家に行きつくことができます。

イエス様という道を踏んで行くとは、イエス様の体を踏んで歩いてゆくということでもあります。私たちの罪のために、十字架についてくださったイエス様の体を踏んで行くことです。なんという 申し訳なさしょうか。踏まれたら痛いです。何十億という人々が、イエス様を踏んで行くのです。どんなにか痛く辛いでしょうか。それでも、主イエス様は、その痛みを引き受けられます。どうし てでしょうか。それは私たち一人ひとりを愛しておられるから、自分の命を犠牲としても、大切に 思っておられるからです。

ある火災にあった家族のことを思い出します。ビルの高い所に住んでいた家族がいました。夜中に、お父さんが、熱いと思い、最初に目を覚ましました。すると家の中が炎に包まれていました。部屋の出口には、炎で近づくことがもう出来ない状態でした。

お父さんは、お母さんを起こし、続いて二人の子どもたちも、急いで起こしました。助かる唯一の道は、窓ガラス越しに、隣接しているビルの窓に移るだけです。お父さんは、梯子になるようなものがないことに気づきました。そこで、自分が、こちらの窓から、隣のビルまで、自分の体を梯子にして、自分を踏んで、隣のビルに移るように、お母さんと子どもたちに言いました。

最初に、お母さんが、子どもたちの見本になって、お父さんの体を膝で踏みながら、渡りました。次の上の子どもも、お母さんの渡る様子を見ていたので、同じようにして、渡り終えました。後は下の子どもの番です。ところが、下の子は、怖がって「出来ない、出来ない」と言い続けています。お父さんの方は、手と足が疲れて来て、限界寸前です。「早く、早く渡りなさい」と下の子に叫 びました。そしておそるおそる下の子が、お父さんを膝で踏みながら、向かいのビルの窓につきました。その瞬間、お父さんは、疲れはてて、ビルの下に落下してゆきました。お父さんは、自分の命を身代わりとして、家族を救ったのです。

同じように、神の御子・救い主イエス様は、十字架で私たちの罪の身代わりとなり、道として踏まれ、ご自身の命を犠牲として捧げ、私たちを罪と死から救い出してくださいました。そして復活されて、ご自身だけが、天の父なる神様のみもとに至る唯一の道、永遠の命の道へのただ一つの道であることを示しておられます。あなたも、この唯一の道であるイエス様を、踏んで、父なる神様のみもとに行きませんか。お祈り致します。




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