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2023.3.8箴言 9 章 1~18 節「知恵の招きと愚かさの招き」

牧師 松矢龍造

知恵と愚かさは、しばしば、人格化され、擬人化されて表現されます。たとえば、知恵ある女性、あるいは愚かな女性として表現されます。そして二人とも、人を家に招きます。知恵が私たちを招くように、愚かな女性も、人々を家に招きます。そして愚かで悪しき行いという食事を食べさせようとします。

悪には、何らかの催眠作用と酔わせる力があります。一見、魅力的で、半分本当で、半分嘘というやり方で、人を誘ってきます。人生には、絶えず二つの声があります。一つは、神様からの知恵の招き、もう一つは、愚かさという悪魔からの招きがあります。そのどちらに従うかで、命か死か、祝福か呪いか、永遠か、滅びかが決まってしまいます。

聖書の中には、絶えず私たちが、二つの前に立たされていることが記されています。たとえば申命記 11 章 26~28 節「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。」

この二つの前で、生まれながらの私たち人間は、そのままでは、祝福を選びたいと願いながらも、いつのまにか呪いを選んでしまっています。その為に必要なのが、神様からの知恵であり、聖書の御言葉であり、神様御自身との交わりです。

それでは、1 節からもう一度。「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。」この御言葉は、一つには、創造の時、創造主なる神様が、知恵を持って、天と地と宇宙を造られ、その際に七本の柱をもって大地の基を造られたということでしょう。

また 7 という数字は、ユダヤの文化では、完全数の一つです。ですから、知恵の家を支える柱、完全な柱という意味でもあります。さらに七つの知恵の要素のことでもあるという解釈もあります。七つの要素は、知識、慎み、確かな知恵、分別、勧め、教訓、悟りという七つの柱としています。いずれにせよ、7 は完全数を表すので、知恵の家が、愚かな者の家ではなく、完全であることを示すと考えられます。

続いて 2~5 節「獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え、はしためを町の高い所に遣わして、呼びかけさせた。『浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。』意志の弱い者にはこう言った。『わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい。』」

これは知恵の食卓にあずかる者は、正しい道を歩み、命を得ることが示されています。風味を加え刺激を強くするために、ぶどう酒に香料が加えられました。知恵が用意した、肉と香り高い、ぶどう酒という豊かな食事は、愚かな女性が、不義によって得た水とパンという貧しい食事と対比されています。

6節「浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために。」「浅はかさ」とは、知恵をさげすみ、神様を恐れ敬って従うことを拒み、自己満足して、よその女に従い、家族を苦しめるような悪事をたくらむことです。

7節8節「不遜な者を諭しても侮られるだけだ。神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。

不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。神に従う人に知恵を与えれば、彼は説得力を増す。」

不遜で神様に逆らうものに、諭と戒めを与えても、侮られ、与えた人の方が傷を負い、かえって憎んできます。そして知恵をあざけるでしょう。これに対して、知恵があり、神様に従う者に、戒めを与えるなら、与えた人を愛し、知恵を増します。そして知恵ある生き方は、神様に従う、正しい生き方となります。特に、貧しく虐げられている人々に、正義と公正を持って接することが大切となります。

10節「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。」神様を恐れ敬うことは、知恵と密接な関係にあります。知恵ある人は、神様を拝み恐れ敬い、律法に従って生きることを欲します。ここで、「主」とは、創造主の固有名詞であるヤハウェを口にしないために用いられた尊称です。創造主なる神様は、人間から隔絶しており、その知恵は、人の知恵とは比較にならないほど、素晴らしいので「聖なる方」と呼んでいるのでしょう。

11節 12 節「わたしによって、あなたの命の日々も、その年月も増す。あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ。」

創造主なる神様は、イスラエルを選んで、民の間にご臨在を現わして住まれるお方です。この世において、神様と共にうる生活ほど、明るくまた楽しいものはありません。ジョン・ウェスレーという方が「最もよいものは、神様が我々と共にいますことである」と言われていました。

そしてこの創造主なる神様を恐れ敬うなら、委ねられているものは、さらに委ねられることになります。マタイによる福音書 13 章 12 節「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

13 節から 18 節には、知恵が私たちを招くように、愚かさも、私たちを招いて、陰府に落とそうとします。13 節「愚かさという女がいる。騒々しい女だ。浅はかさともいう。何ひとつ知らない。」ここで「浅はかさ」と訳された原文の言葉は「無知」「みだら」「恥」「わきまえがない」という意味でもあります。正しい在り方を何一つしらないのです。

14~18 節「自分の家の門口に座り込んだり、町の高い所に席を構えたりして、道行く人に呼びかける。自分の道をまっすぐ急ぐ人々に。『浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。』意志の弱い者にはこう言う。『盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまいものだ。』そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる。」

愚かさは、不道徳な女性に、たとえられます。その行いは、禁じられた性的関係に限りません。最終的には、死に至る、あらゆる愚かな行いを指します。私たちは、命か死か、どちらを選ぶのか、たえざる選択を迫られます。ローマの信徒への手紙 6 章 23 節「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

それでは、この二つの選択のうち、正しい方を選ぶ為には、何が必要でしょうか。第一に、知恵は、創造主なる神様を知ることから始まります。しかも主を恐れ敬うことから始まります。

第二に、悔い改めることです。古代の神学者であるアウグスティヌスが悔い改めに関して、次のように言われています。「悔い改めとは、神様の目の高さから自分自身を見ることである。」神様の目から自分を見る。この世の相対的な基準ではなく、神様の目、神様の基準、律法と聖書の基準に沿って、自分の罪の姿を自覚して、神様方に、自分の心の思いを変換することです。

第三に、主の招きに対して、救い主キリストを信じて、応じることです。ルカによる福音書 14章 15~24 節「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った。そこで、イエスは言われた。『ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、【もう用意ができましたから、おいでください】と言わせた。すると皆、次々に断った。

最初の人は、【畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください】と言った。ほかの人は、【牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください】と言った。また別の人は、【妻を迎えたばかりなので、行くことができません】と言った。

僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。【急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。】やがて、僕が、【御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります】と言うと、主人は言った。【通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。】』

第四に、自分の十字架を負って、イエス様に従うことです。ルカによる福音書 14 章 25~27 節

「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。』」

第五に、自分を批判する人から学ぶことが、知恵を得道でもあります。

第六に、自分を批判する人から学ぶ為には、神様と個人的な関係を持たなければ、受け入れることは困難です。

第七に、知恵であっても、愚かであっても、それを食べたなら、それを食べた人たちに、今後何が起こるのか、長い目で見ることが必要です。聖書の過去の例、歴史の過去の例を、吟味することです。加えて、未来にどうなってしまうのかも、聖書の預言を受け留めることです。

神様は、絶えず、私たちを招いて、知恵の宴に連なるように言われています。一方、悪魔と悪霊も、滅びに招こうとしています。こんな私をも、神様は愛して、こんな私の為に、イエス・キリストを地上に遣わされ、イエス・キリストは、こんな私の為に、十字架についてくださいました。命のパンであるイエス様の招きに、御聖霊の助けを祈り求めて、絶えず従ってゆきませんか。

最後にヨハネに福音書 3 章 35 節、51 節、そして 55 節と 56 節を拝読して閉じます。「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

お祈り致します。




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