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2023.4.12 箴言 10 章 12~22 節「主の祝福を受けた者の言動」

牧師 松矢龍造


言葉には、力があり、善を生み出すことも、悪を生み出すことにもなります。知恵をもって語られた良い言葉は、語り手の聡明さを示し、人々に益となります。しかし無知な者の口には破滅があり、語り手にも、受け手にも破滅をもたらします。

正しい人の語る言葉は、人々に良き影響を与え、人の徳を高めます。しかし愚かな者は、思慮のない言葉を語る為に、人を養うことが出来ないばかりか、自分自身の身も滅ぼします。

良き言葉を語り、悪しき言葉を語らない為には、神様の御言葉を先ず、日々聴き続けることです。神様の言葉には、素直になります。そして神様の愛と真実な言葉に、心が満たされることが必要となります。

私たちが、日々において、祈祷会や小グループにおいて、そして主日礼拝において、神様の御言葉を聴き続けることが、人生においても、日々おいても、実に大切なことです。

さらに神様の言葉を通して、私たちの心にある憎しみが、神様の愛によって覆われることが大切です。憎しみとは、自分の心の醜さの反映です。憎しみは、自己中心の心の狭さにほかなりません。

憎しみは、自分の一番大切なものまで失わせます。憎しみの終着点は、いつも破滅です。さらに憎しみは、冷静な診断力をも失わせます。心の中に憎しみを持つ人は、気をつけなければなりません。憎しみは、どんどんエスカレートして、ブレーキが利きません。マッチ一本が、山全体を焼き尽くす場合があり、憎しみは、人生を焼け野原にします。

かつて、京都にあります同志社大学の創設者であり校長であった新島襄師のエピソードにこんなものがありました。同支社の学生が、不満なことがあって、時の校長の新島氏に申し出ると、新島氏は、よく学生の言うことを聴き終わった後、「諸君の言うことは正しいし、道理にかなっている。ただ欠けているのは、愛である。諸君の議論の上に、愛の油を加えるように希望する」と答えられました。愛がないところに、衝突や紛争や摩擦が生じます。

それでは、今日の御言葉である箴言 10 章 12 節「憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。」この御言葉は、新約聖書のペトロの手紙一 4 章 8 節に引用されています。「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」

憎しみ、摩擦、争い、衝突において、必要なことは、愛であり、神様の愛で、私たちの心が先ず包まれることです。そして愛を持って語ることが、人を育てます。エフェソの信徒への手紙 4 章 15 節「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」

続いて 12 節「聡明な唇には知恵がある。意志の弱い者の背には杖。」インターネットの普及によって、最近の五年間で、以前の知識は、倍になっていると言われます。しかしその知識が、意志の弱い者の背を支えるものとなっているでしょうか。知識と知恵の違いは、知恵は、生きて苦しみを乗り越えさせます。

14 節「知恵ある人は知識を隠す。無知な者の口には破滅が近い。」知識は、誇る為に身につけるのではありません。むしろ、破滅から逃れる為に、身につけることが肝要です。かつてナポレオンは、「吾輩の辞書に不可能はない」と言いました。

その知識が、彼をして、どのような人生を歩ませたでしょうか。敗北したナポレオンが、最後に残した言葉に次のようなものがあります。「私の帝国は滅びた。しかしイエス・キリストの愛の王国は、今も前進を続けている。」

続いて 15 節「金持ちの財産は彼の砦、弱い人の貧乏は破滅。」財産は、正しい生き方に対する神様からの祝福であり、報酬であると、旧約時代は、一般的に考えられていました。生き方に、ふさわしい報いを受けるや応報思想は、一部において真理です。逆に、貧しい人には、苦しみと困難が待っています。

しかし富に頼って、自分を守ろうとする者は、最後には苦しむことになります。むしろ、正しい生き方への報いとして与えられる幸いな人生の方が、富よりも良いものとされています。

16 節「神に従う人の収入は生活を支えるため、神に逆らう者の稼ぎは罪のため。」イスラエルの民は、挨拶する時によく「シャローム」と言います。日本語では、「平安」や「平和」と訳されます。この平和や平安とは、ただ単に争いや戦争がないだけの平安ではありません。全てが備わっていて、満ち足りて、欠けのない状態のことです。

さらに健康も備わり、なすべき仕事もあり、その仕事においてもハリがり、お金にも困らない。そして生きる喜びを感じ、人生に確信と充実感があることです。

このシャロームは、神様に従うところから来ます。しかし神様に逆らう者は、シャロームを失い、たとえ一時栄えても、それは罪の為に用いてしまうことになります。結果は、まさに破滅へと繋がります。

17 節「諭しを守る人は命の道を歩み、懲らしめを捨てる者は踏み誤る。」この諭は、神様からの諭しや、懲らしめとも考えられますが、親の諭しや知恵の言葉を指すとも言えます。

人間の諭しや懲らしめは、時に愛がなく、また不完全で欠けがあり、間違ってしまうこともあります。しかし、愛を込めた諭しや懲らしめは、必要な時があります。むしろ叱ってもらえることを大切にしたいものです。

父親が天に召された時に、残念に思うことの一つは、愛をもって叱ってくれる存在がいなくなったということです。しかし、たとえ肉の父がいなくても、誰でも、父なる神様からの御言葉は、素直に受け留めてゆきたいものです。

18 節「うそを言う唇は憎しみを隠している。愚か者は悪口を言う。」嘘や誤魔化しがある言葉は、信用できません。むしろ嘘のない誠実な言葉が、人を慰め、人を育む愛の言葉となります。

すなわち、神様を恐れ敬い、こんな弱い汚れた罪人である私を、なお愛して下さっている神様の、赦しと愛を知っている人の、嘘のない誠実な言葉が、人を慰め育みます。ルカによる福音書 7 章 47 節「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

続いて 19 節~21 節「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。神に従う人の舌は精選された銀。神に逆らう者の心は無に等しい。神に従う人の唇は多くの人を養う。無知な者は意志が弱くて死ぬ。」

よく沈黙は金、雄弁は銀と言われます。まず語る前に、神様の言葉を聴き、そして人の言葉を聴きます。ヤコブの手紙 1 章 19 節「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」

イエス様の御言葉を聴いた人たちは、死んだような苦しい生活の中で、生きがいを感じました。また他の人には言えない苦しみや焦りの中にある人が、心の重荷を下ろすことが出来ました。そして明るく、晴れ晴れとした人に変えられます。さらに、希望を失って、死んだと思っていた人が、新しい人生の目的を発見しました。そしてきよい愛に満ちた、神様の仕事に、生き生きと参加するようになります。加えて、正義と公正をもって、人に接するような知恵ある生き方へ、また律法の命じる生き方へと向かいます。

22 節「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」ここで、「労苦」と訳された原文の言葉は「苦痛」あるいは「器」や「像」という意味でもあります。そこから二つの訳がなされています。一つは「主の祝福は富をもたらし、それに何の悩みも加えない。」あるいは「主はなんの悲しみを加えない。」

逆に「神様に祝福されることほど、素晴らしいことはありません。どんなにがんばっても、人間にはこれ以上のことはありません。」

いずれにしても、「人間を豊かにするのは、主の祝福である」というのは、間違いがないことです。詩編の表現では、127 編 1 節です。「主御自身が、建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」

建てる働きも、守る働きも、主御自身がなされるのでなければ、空しいです。しかし主が建て、守られるなら、人間にとって、どんな確かな人生の歩みとなることでしょうか。

私たちの人生の歩みの本分は、主を恐れ敬うことです。もし憎しみを心に抱いたなら、憎しみの感情を、神様の御前に認めましょう。そして神様に、あなたの心を変えてくださるように祈り、憎むのではなく、愛せるよう助けてくださるように、ご聖霊様に、お願いしましょう。主イエス様の愛に包まれ、愛と真実な言動を持って、良き実を結ぶ歩みとなってゆきませんか。

最後にガラテヤの信徒への手紙 5 章 22~26 節「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」お祈り致します。


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