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2023.4.16 ヨハネによる福音書 19 章 16b~27 節「ゴルゴタの丘での十字架へ」

牧師 松矢龍造


イスラエルの研修で、最も厳粛な気持ちにされる場所の一つは、ドロローサ・悲しみの道と呼ばれる、十字架への道行です。途中何度も、主イエス様は、自分が付けられる十字架を背負い、衰弱されていた体は、何度も膝をかがめ、立ち上がってはまた、崩れ落ちる。それが、私の罪の為に、身代わりで、この道を歩まれたのだと思うと、いたたまれない思いとなります。

途中、よろめいて、手をついたと言われる壁には、多くの巡礼者たちが、その壁の跡に触れたことによって、ずいぶん、えぐられたようにへこんでいます。私も、そのへこみに自分の手をあてて、主イエス様に対する、申し訳なさと、感謝の祈りを捧げました。 エルサレムの都は、AD70 年に、ローマ軍によって破壊されましたので、その後、破壊された石の上に、もう一度都が建てられたので、実際の道は、地下と推定されます。ですから、同じ場所の道路の下が、実際の高さの道となります。発掘現場に降りていって、その石だたみの道に手を置いて、もう一度、感謝の祈りを、切ない思いで捧げました。 16b 節「こうして、彼らはイエスを引き取った。」ポンテオ・ピラトは、主イエス様を十字架につけるために、彼らに渡しました。その際に主イエス様を引き取った「彼らは」とは誰のことを言っているのでしょうか。あえて福音書の記者として用いられたヨハネは「彼らに」として、読者に、つきつけているのではないでしょうか。 十字架に直接、物理的につけるのは、ローマ兵ですから、「彼らに」とは、ローマ兵となります。しかし「十字架につけろ」と言った群衆、いやそれを扇動したユダヤ人の指導者たちが「彼らに」ではないでしょうか。そしてさらに罪人である、私達一人ひとりが、霊的な意味で「彼らに」ではないかと、私は受け留めたのです。 続いて 17 節「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。」ゴルゴタとは、ヘブライ語で「されこうべ・髑髏」という意味の場所です。人間の頭蓋骨の形をした、大きな岩場の近くあったので、この名前が付けられたのでしょう。現在は、その場所に聖墳墓教会が建てられています。 主イエス様は、十字架へと引き渡されましたが、ここで「自ら十字架を背負い」とあります。 「自ら」と訳された原文の言葉は「自分から」「自分で」「自分を源として」という意味でもあります。イエス様は、自発的に、私たちの身代わりとなって十字架で死ぬことへと向かわれたのです。どうしてか。私たちを滅びから救うために、私たち一人ひとりを極みまで愛しておられるからです。 十字架につけられる場合、最初に罪名を記した板を担った兵卒が行きます。その次に、百卒長が、四人の兵卒に、金づちと、いぬくぎを持たせて進ませ、その次に、この場合は、イエス様に十字架を負わせて、引き立てて行きます。その後から二人の盗賊が、またおのおの四人ずつの兵卒に護送され、多数の群衆は、その後から、ぞろぞろと行列にしたがって、向かったと言われています。 イエス様が、十字架を担われたのなら、その愛に応えて、私たちも自分の十字架を負って、主キリストに従う覚悟が、いたって肝要です。2000 年前の十字架への道行は、一人は、罪人の救い主でした。もう一つは、救われることになる罪人。そしてもう一人は、滅ぼされようとする罪人です。これは、霊的には、最後の審判において、救いと滅びとが、左右に分かれることを暗示したものだということでもあります。 18 節「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。」ユダヤ当局は、あえて二人の盗賊の間に、イエス様を真ん中にして、十字架につけました。それは、イエス様が、一番の罪人であると見えるような演出です。しかし、霊的には、主イエス様に対する信仰的な態度によって、救いと滅びに分かれることの示しではないでしょうか。 19 節 20 節「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」 罪状書きが、当時使われていた代表的な言語である、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で、書かれました。それは、多くの人々が読める為でした。加えて、ヘブライ語は、宗教を代表する言語。またラテン語は、ローマの権力と政治を代表する言語。そしてギリシア語は、文化と学問を代表する言語です。この後、世界の全ての方面において、主が王の王、主の主となられることが暗示されています。 そしてもう一つ、ヘブライ語は、ユダヤ人を示し、ギリシア語は、異邦人を示し、ラテン語 は、全人類を示し、主イエス様は、全ての人類の王の王、主の主と受け留めることも出来ます。 21 節 22 節「ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、『「ユダヤ人の王」と書かず、この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてくださいと言った。しかし、ピラトは、『わたしが書いたものは、書いたままにしておけ』と答えた。」 ピラトは、この時だけは、ユダヤ人の祭司長たちに対して、譲りませんでした。どうして、その前に譲らず、イエス様には、まったく罪がないので、釈放すると言えなかったのでしょうか。 23 節 24 節「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。 そこで、『これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう』と話し合った。それは、『彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。」 兵士たちが、衣服のことで、くじを引いて分け合うことは、旧約聖書の詩編 22 編 19 節の成就でした。「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」そして下着が、上から下まで一枚織りであったとありますが、旧約時代、一枚織りの下着を身につけていたのは、大祭司でし た。 使徒ヨハネは、ここでも、主イエス様が、真の神の大祭司であることを強調しているのでしょう。そしておそらく、この一枚織りの下着は、母マリアからの贈り物であっただろうと言われています。母マリアは、イエス様が、世の罪を取り除く神の小羊であり、大祭司であることを、よく分かりませんでしたが、直感で示されていたのではないでしょうか。 25 節「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」イエス様の着ていた服を取り、四つに分けたとありますから、兵士たちは四人であったでしょう。それに対して、ここで婦人の弟子たちが、対比されるように、四人の名が記されています。四人の兵士たちの無知と不信仰に対して、四人の女性の弟子たちの、敬虔と献身の姿が対比されています。 女性の弟子たちが、信仰と愛の故に、危険を冒しでも、十字架の真下にいたのです。世界中の教会において、敬虔で信仰深い女性たちが、主の宣教において用いられて来ました。 ある結婚 20 周年を迎えたご夫妻の話です。その夫婦は、夫人だけが、クリスチャンでした。 20 周年目の結婚記念日を迎えて、夫は、妻に言いました。「何でも欲しい物があれば言って欲しい。記念に買ってあげます。」

すると婦人は即座に答えました。「私と一緒に教会へ行ってください」。約束でしたから、夫は妻へのプレゼントとして、教会に出席しました。それ以後、夫の方も礼拝出席が続き、最近で は、壮年会の例会が、この家庭で持たれるようになったそうです。

毎日、一生懸命に夫の救いの為に、心を注いで祈ってきたことの証明となりました。これはほんの一例ですが、世界宣教の担い手として、多くの女性たちが用いられています。

26 節「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。」十字架で息を引き取る寸前の極限状況の中で、主イエス様は、母マリアを気遣いました。そして母のことを「婦人よ」と呼んで、「母」と言ったら、危険が及ぶことをも気遣い、愛弟子ヨハネに、母を託しました。

伝説によれば、母マリアは、この時より、15 年間、ヨハネより行き届いた扶養を受けて、エフェソで、天に召されたと言われています。新約研究で、トルコに研修に行かせて頂いた際に、エフェソで、確かにマリア記念教会がありました。

27 節「それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」この時、どうして、イエス様は、マリアの実の子どもたち、すなわちイエス様の弟たちに、母マリアを委ねなかったのでしょうか。それは、まだこの時、イエス様の兄弟たちは、主イエス様を信じる弟子ではなかったいうことが一つあります。

そしてもう一つは、キリストに対する関係を基礎において、新しい霊的な神の家族の関係で生きなさいと、全人類へのメッセージではないでしょうか。教会内の主にある一致から、さらに外に向けて、全人類に向けて、キリストにあって、神の家族となるように。そこに真実に、世界平和への道が示されているのではないでしょうか。

最後に、イエス様の十字架には、三つの示しとなることがあることを受け留めます。一つは、イエス様の十字架は、私たちの罪の身代わりとして死を意味しています。またイエス様の十字架は、全てのマイナスが、イエス様によって、プラスとなり、万事益とされるということです。

そして三つ目に、イエス様の十字架は、私たちが、自分の十字架を負い、主に従うことの大切さを示しています。自分の十字架を負うとは、神様の御心に従った時に受ける苦難のことです。

神様に愛されている皆さん、主イエス様の犠牲の愛に答え、ご聖霊の力を頂いて、主イエス様を信じ、主の恵みに生かされ、自分の十字架を負って、主イエス様の後に、従って行きません か。お祈り致します。

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