2023.4.19箴言 10 章 23~32 節「神様に従う人と神様に逆らう者」
- CPC K
- 2023年5月17日
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牧師 松矢龍造
起
今日の御言葉には、何度も、神様に従う人と、逆らう者が、一節ずつ対比されて出てきます。私たちは、神様に従う人でありたい、逆らう者にはなりたくないと思います。しかし神様の憐れみと、ご聖霊の助けがなければ、私は神様に逆らう者となり、呪いを受け、人を害する者となってしまいます。キム・ヤンジェという方が、「敬虔の奥義」と題して次のように言われていました。「罪の誘惑に打ち勝つためには、『聖なる子ども』としてのアイデンティティを握りしめなければなりません。そして、神様の御言葉を毎日、心に蓄えなければなりません。罪は密かに進行し、私たちを死へと追いやります。罪の実体を知り、罪の進行を止める為には、神様の御前に、ひれ伏すこと以外に方法はありません。」
承
さらに続けて、こうも言われています。「御言葉の光で、心を照らし、神様の御前で、自分の罪を告白し、罪と戦わなければなりません。日々、御言葉によって、自分の欲や罪深い思いを取り除いていくのが、静思の時であり、罪を制御することが静思の時の適応です。
『無節制』を制御するために食事の量を少し減らし、『怠惰』を制御するために、運動を始め、衝動買いを制御するためにクレジットカードを家に置いて外出するなど、日常生活で、実践できる小さなことから始めればいいのです。そのような姿を見る時、周りの人々が『敬虔なクリスチャンは、このように罪と戦うのだなあ』と知るようになります。」
転
それでは、箴言10章23節からもう一度。23節と24節「愚か者は悪だくみを楽しみ、英知ある人は知恵を楽しむ。神に逆らう者は危惧する事に襲われる。神に従う人の願いはかなえられる。」私たちは、日々、何を楽しみにして生きているでしょうか。「楽しむ」と訳された原文の言葉は「笑う」という意味でもあります。愚かな者は、悪だくみをして、隣人が不幸になっていることを見て笑うのです。しかし英知ある人は、神様と人を愛して幸いになっていることを見て、微笑むのです。
さらに「悪だくみ」は、「戯れ事」と訳している聖書もあります。昔、ノアの洪水の時に、ノアの8人の家族以外の人たちは、洪水が来るというのに、戯れ事として、無視して、日常生活を続けていて、皆、水によって滅んでいきました。
またソドムの町に、神様の裁きによって、天から硫黄が降って来るという時に、ロトの二人の娘婿は、戯れ事と思い、ソドムの町から外に逃げることなく、硫黄によって滅んでいきました。創世記19章14節「ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、『さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ』と促したが、婿たちは冗談だと思った。」
新約時代で言えば、イエス様が、十字架に付けられた時、ただ往来する者や、祭司長たちは、戯れ事や悪だくみをしていました。マルコによる福音書15章29~32節「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』」不真面目な人間は、この世の最も厳粛な問題を、冗談扱いにしたり、悪だくみをしたり、戯れ事としてしまうのです。
続いて25節「神に逆らう者は、つむじ風の過ぎるように消える。神に従う人はとこしえの礎。」つむじ風とは、神様の裁きを表しています。イエス様は、この箴言の御言葉を念頭において、岩の上に建てた家と、砂の上に建てた家のたとえをなさったのではないでしょうか。マタイによる福音書7章24~27節「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
神様の裁きという洪水が来た時、神様に逆らう者は、つむじ風の過ぎるように、裁かれて、消えてゆきます。しかし、神様に従う人は、主イエス様という、とこしえの礎によって、支えられます。かつて台風が来た際に、プレハブの建物の屋根と本体をつなぐ直径4.5センチのボルトが締めてなかったということがありました。しかもかなりナットが省かれてもいました。ですから、普段は本体に屋根が乗っていましたが、嵐が来て、屋根は本体から外れ、ふっとんでいってしまいました。嵐の時に、それが分かるのです。しかし神様に従う人は、裁きという、つむじ風の中でも、とこしえに立つことが出来ます。主イエス様が支えて下さるからです。
26節「歯に酢、目に煙、主人に怠惰な召し使い。」歯に酢とか、目に煙とは、染みて神経をいらだたせます。怠惰であることは、主人にとっては、神経をいらだたせる召使となります。同じように、神様にとっては、私たち人間の怠惰は、愚かで不忠実な僕と写ります。
27節「主を畏れれば長寿を得る。主に逆らう者の人生は短い。」旧約時代は、長寿も知恵ある生き方に対する神様の祝福とみなされる面がありました。逆に、愚かな者は、神様に背を向け、律法に従わないので、短命に終わる面がありました。ただし、応報思想が、人生の本来とされますが、現実にはある面では、敬虔な人が事故や病気で早死にすることがあり、悪人が繁栄して長生きすることもあります。しかし無神論者や、悪人、神様を信じていない者は、通常、死を恐れます。けれど永遠の主なる神様を信じ、主を恐れ敬う人は、神様による救いを望み、死を恐れることなく、永遠の命を得ることが出来ます。
28節29節「神に従う人は待ち望んで喜びを得る。神に逆らう者は期待しても裏切られる。主の道は、無垢な人の力、悪を行う者にとっては滅亡。」神様に従って、破壊されていたエルサレムの城壁を再建したネヘミヤは、主を喜び祝うことこそ、喜びであり、力となると言いました。ネヘミヤ記8章10節「彼らは更に言った。『行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。』」そして主に自らを委ねて、示されたことを忠実に行う者に、主は願いをかなえてくださいます。詩編37編4節「主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」続いて30節「神に従う人はとこしえに揺らぐことなく、神に逆らう者は地に住まいを得ない。」ここで、地に住むとは、約束の地であるカナンの地に住むことを、おもいに意図しています。イスラエルの民にとって、カナンの地を得ることは、天の嗣業、永遠の命を得ることの保証と見られました。神様に従う人は、約束の地であるカナンに住み、そして永遠の都を与えて頂けます。
31節32節「神に従う人の口は知恵を生み、暴言をはく舌は断たれる。神に従う人の唇は好意に親しみ、神に逆らう者の口は暴言に親しむ。」
ここで「暴言」と訳された原文の言葉は、「邪悪」「ねじれごと」「偽り」という意味でもあります。隣人に対して、邪悪であり、偽り、ねじれ事を言う者は、神様の時に、裁かれます。「舌は断たれる」とは、悪しき者が滅びることを極言したものです。
結
神様に従う人と、神様に逆らう者の違いは、実によって分かります。経過がどのように見えても、最後にどんな実を結ぶかで、神様に従う人と、神様に逆らう者の違いが分かります。
冒頭のキム・ヤクジェという方の「敬虔の奥義」続きです。「欲や怒りが、心の中でうごめきますか。父なる神様が、私たちのために備えておられるものがあることを、信じられないために、私たちは、0.5秒さえ耐えられず、イライラし、怒りを爆発させます。
しかし、毎日、夜も昼も、御言葉を黙想するなら、以前は耐えられなかったようなことでも、少しずつ耐えられるようになります。御言葉の黙想を積み重ねていけば、霊的な力が蓄えられ、血の気がおさまります。これが、敬虔の奥義です。」
神様に愛されている皆さん、毎日、朝も昼も夜も、心の中で、ご聖霊によって、神様の御言葉を黙想し、神様の約束を信じて、神様に逆らうことなく、従ってゆき、祝福と人を潤す歩みとなってゆきませんか。
最後に、マタイによる福音書7章16~20節を拝読して閉じます。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」お祈り致します。

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