2023.4.2 ヨハネによる福音書 19 章 1~16a 節「罪の全くないイエス様に十字架刑の判決」
- CPC K
- 2023年4月15日
- 読了時間: 10分
牧師 松矢龍造
起
私たちが毎週告白しています使徒信条の中に、主イエス様が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」たとあります。この名前が使徒信条の中に入れられた理由とし て、一番大きな意味は、イエス様の十字架は、歴史上の事実であることを、歴史上の他の人物を取り上げて、確証させるということです。
イスラエルに研修に行かせて頂いた時、必ず訪れる一つは、ポンテオ・ピラトなど、ローマ帝国の総督たちが、普段駐屯していた場所である、地中海に面したカイサリアです。ここで、考古学上の大発見の一つ、それはポンテオ・ピラトの名前が記された、遺跡が見つかったということです。現在は、その場所にレプリカが置いてあり、本物は、エルサレムにありますイスラエル博物館に保存されています。主イエス様が、ポンテオ・ピラトのもとで、一つも罪がないのに、死刑の判決を受けたことは、歴史上の事実であるということです。
承
この歴以上の確かな人物であるポンテオ・ピラトの言葉において、三度、イエス様に罪がないことが言われています。一つは、18 章 38b 節です。「ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。『わたしはあの男に何の罪も見いだせない。』」
二つ目は、今日の御言葉である 19 章4節です。「ピラトはまた出て来て、言った。『見よ、あの男を、あなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。』」
そして三つ目は、6節です。「祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ。十字架につけろ』と叫んだ。ピラトは言った。『あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。』」
三度、ピラトの言葉で、イエス様には罪がないことが強調されています。三度とは、ユダヤの文化では、完全数の一つですから、完全に、イエス様には、罪が全くないことが強調されています。それはまた、罪が全くないお方でなければ、私たちの罪の身代わりとなることが出来ないということでもあります。
転
それでは、今日の御言葉である 19 章 1 節からもう一度。「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。」
ローマ帝国では、死刑囚は、十字架につけられる前に、嘲られ、鞭打たれました。ピラトは、イエス様に罪がないのに、どうして鞭で打たせたのでしょうか。
ピラトは、イエス様の哀れな姿を民衆の前にさらすことで、訴える者たちの気持ちを満足させ、この一件に終止符を打とうとしたことが考えられます。それにしも、無罪の人を鞭打つとは、道理に反した、矛盾した行動です。
鞭で打たせるとは、犠牲者の上半身を裸にして、手を柱につなぎ、先のとがった三又の鞭で打つことです。加えて、この鞭には、通常、先の部分に、鉛のかけらが付いていて、打った背中 に、相当の深い傷がつけられ、かなりの苦痛を味合わせることが出来ました。鞭の回数は、犯罪の重大さによって決められていました。ユダヤ人の律法の下では、40 回まで認められていました。
申命記 25 章 3 節「四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない。それ以上鞭打たれて、同胞があなたの前で卑しめられないためである。」
続いて 19 章 2 節3節「兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った。」
兵士が、イエス様の頭に載せた冠は、パレスチナで育つ、とげのあるワレモコウの枝で編まれたものでしょう。茨の冠が、イエス様に頭に押し付けられますと、頭から血が流れます。しかも冠も、王として象徴的な色である紫の服をまとわせたことも、侮辱され嘲られたことの表われです。
そして平手で打ったとありますが、「打った」と訳された原文の言葉は未完了形であり、一度でなく、「打ち続けた」ということです。まさに侮辱され、屈辱を受け続けたということです。これらの痛みと、屈辱は、誰の為だったのでしょうか。私達一人ひとりの、一つひとつの罪の為です。
5 節「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った。」ピラトは、こんな哀れな人を、死刑にするつもりなのかという気持ちが込められているのでしょう。
6節前半「祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ。十字架につけろ』と叫んだ。」
ここで祭司長たちとは、最高法院に属する議員で、祭司職に就き、ファリサイ派や他の指導者たちに影響力を持つユダヤ教の教師でもありました。ローマ皇帝は、最高法院に、ユダヤ人に関わる習慣、特に宗教に関する決定権を与えていました。
そして下役は、神殿を守り、ユダヤ人指導者会議である最高法院が、民衆を統治することを助けた人々です。ですから、祭司長と下役たちは、ユダヤ人指導者たちの思惑を実行すべく、民衆を扇動して、イエス様を「十字架につけろ」と叫ばせたのです。
7節「ユダヤ人たちは答えた。『わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。』」ユダヤ人の指導者たちは、イエス様が、神と等しい者であると主張した為に非難しました。すなわち、この指導者たちは、イエス様を、神様ではなく、人間に過ぎないと思っていたので、死刑に相当する神への背信と、神への冒涜の罪を犯していると述べたのです。
8節「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、」。当時、ローマ皇帝は、自分自身のことを
「神の子」と民衆に呼ばせていました。初期のキリスト教徒が、ローマ皇帝ではなく、ナザレのイエス様そこ「神の子」であると告白していたことが、ローマ帝国から迫害される原因の一つでした。
ですから、ピラトは、ユダヤ人指導者たちから、イエス様に対する訴えが「冒涜罪」と聞いた時、ローマ皇帝に対する大反逆罪という訴えと同じ意味になることを感じて来ました。そしてそれを放置することは、自分の身の安全を脅かすものになると恐れ、自己保身に心が動いていったのではないでしょうか。
ユダヤ人の律法では、最も重大な犯罪で死刑にあたるのは、神に対する冒涜罪です。またローマ帝国にとって最も重大な犯罪で死刑にあたるものは、ローマ皇帝に対する大反逆罪です。ユダヤ人指導者たちは、ピラトに対する脅しとして、この両方を結びつけようとしたのです。
9「再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。」イエス様は、実に落ち着いたままでした。イエス様は、真実と父なる神様のご計画と、御自身が審判されている理由の全てをご存じでした。
そして沈黙を続けられました。それはイザヤ書 53 章 7 節の成就でした。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」
続いて、10 節 11 節「そこで、ピラトは言った。『わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』イエスは答えられた。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。』」
この審判の間中、主導権を握っていたのは、ピラトでも、ユダヤ人の宗教指導者でもなく、父なる神様から真に権限を与えられていた、イエス様こそ、主導権を握っていたのです。ピラトは揺らぎ、ユダヤ人指導者たちは、憎悪と怒りを表しており、主導権を握っているとは思えませ ん。むしろ、実際に、神様の御前で裁かれているのは、イエス様ではなく、ピラトと宗教指導者たちでした。
そしてイエス様を、ピラトに引き渡した者の罪は重いとあります。引き渡した者とは、誰なのか。それは、イスカリオテのユダであり、大祭司カイアファであり、悪魔であり、ユダヤ人の中の悪しき人であり、そして私達、神様の御前で罪人である、私であり、私達自身ではないでしょうか。
12節「そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。『もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。』」
ピラトの心は、イエス様を釈放しようと努めましたが、ユダヤ人の圧迫と脅しの中で、自己保身と利益に傾いて行きました。そして自分の決意を翻してしまいます。
13節「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた。」
ヘブライ語で「ガバタ」とは、敷石という意味と、「高台」という意味でもあります。このガバタの場所は、実際には、正確な意味や場所は不明とされています。おそらく判決を下すガバタ
は、神殿の北西にありますアントニヤ城塞の一部にあります、敷石で出来た高台と思われます。そこで通常、ピラトは、裁判の席に座して、宣告しました。
ところが、その同じ場所に、ピラトは、イエス様を裁判の席に座らせたということならば、イエス様は、裁かれる身でありながら、力と権力の座に置かれたことになります。ですから、イエス様こそが、裁きを下す、力と権力の座にあることを、暗示しているのではないでしょうか。
14節「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、『見よ、あなたたちの王だ』と言うと、」。過越祭の準備の日とは、金曜日のことです。「正午」と訳された言葉は原文では「第六番目の」となっています。これがローマ時間なら、午前 6 時を意味し、ユダヤ時間では、正午となります。他の福音書では、イエス様が、十字架につけられたのは、午前 9時から午後 3 時までの間とされています。
ヨハネによる福音書は、むしろイエス様が裁かれ、十字架を宣告され時刻の頃に、過ぎ越し祭の子羊が屠られ、翌日の過ぎ越しの食事のために用意されたことと重なることを意図したのではないかと考えられます。なぜなら、ヨハネによる福音書 1 章 29 節で、イエス様のことが「世の罪を取り除く、神の子羊」と言われていたからです。過ぎ越しの食事の子羊が屠られる、まさにその時に、世の罪を取り除く神の子羊が、屠られることが決定したと告げたかったのだと思われます。
15 節「彼らは叫んだ。『殺せ。殺せ。十字架につけろ。』ピラトが、『あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか』と言うと、祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた。」
祭司長たちは、神様に仕えるはずであるが、イエス様の死刑をピラトに宣告させる為に、便宜上、ローマ皇帝への忠誠を表しました。この祭司長たちは、彼らの存在する理由をまったく失ってしまいました。彼らは、人々を神様に導く任務があったのに、彼らのメシア・救い主を殺す為に、ローマへの忠誠を主張したのです。
結
16 節「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。」ピラトは、せっかくの機会に恵まれていながら、罪の為に、その機会を棒に振ってしまいました。そして意志弱行の中で、ユダヤ人の極悪重罪を遂行する道具に使われることになってしまいました。
ピラトは、己の心の中に、確固とした信念を欠いていました。そのために、自ら、境遇の奴隷となり、ついに終わったのです。けれど、ピラトの弱さと罪は、私の、私たちの、まさに弱さと罪ではないでしょうか。
イエス様は、私たちのこれらの弱さと罪の為に、十字架への道行に向かわれたのです。黙々 と、私たちの罪を全部背負って、カルバリの丘へと向かわれるのです。今日から、今年の受難週となります。明日から五日間の受難週祈祷会を通して、私たちの罪と、イエス様の犠牲の痛みの愛を、御言葉と祈りとご聖霊によって、深く黙想し、受け留めて行きませんか。
最後にイザヤ書 53 章3~6 節を拝読して閉じます。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」お祈り致します。

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