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2023.4.23ヨハネによる福音書 19 章 28~37 節「十字架による救いを成し遂げられたキリスト」

牧師 松矢龍造


今月の初めまで、受難節でしたが、ヨハネによる福音書の連続講解説教では、十字架の死の場面となっています。ラッセル・ムーアという方が「十字架の道への招き」という題で、次のように言われていました。 「私たちはみな、強く見られたいと思っています。そして、その強さの証拠として、世の中 で、うまくいっている姿だけを人に見せようとします。しかし、イエス様は、それとは正反対の生き方をされました。 そしられ、誤解され、さらに『敗北者』だと嘲られました。イエス様が選ばれた道は、堕落した世の道とは異なるものでした。私たちも最も魅惑的な力と、世俗的な繁栄という偶像を捨て て、十字架のイエス様と共に歩むとき、最悪の状況でも、最善の歩みを続けていくことができます。

力の道から離れて、愚かに見える十字架の道を、ともに歩もうと招いてくださるイエス・キリスト、この方と共に歩む者に、天の力と知恵が注がれます。」

使徒パウロも、主イエス様の十字架への道を次のように言っています。コリントの信徒への手紙一 1 章 18 節と 30 節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」

今日の御言葉は、主イエス様が、十字架上で、死を迎える時のことが記されています。午前 9

時に、十字架につけられたイエス様は、正午頃から、太陽が隠れて暗黒となり、そして午後 3 時に、息を引き取られる時が、近づいてきました。新約聖書では、十字架上のイエス様に関する詳細が省かれています。しかし旧約聖書の詩編に預言されているのはこうです。

詩編 22 編 15~19 節「わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。 犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」主イエス様は、この旧約聖書の預言通りに成就して行かれました。

それでは、28 節からもう一度。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」

十字架上にさらされた人は、非常な熱発の結果、たえ難い渇きを覚えると言われています。イエス様の渇きは、肉体上の渇きはもちろんですが、弟子たちの裏切りと離反という精神的な渇きも加わっています。また「十字架につけろ」と叫ぶ群衆の中で、社会的にも渇きます。そして父なる神様から見捨てられるという霊的な渇きは、耐えがたいものであったでしょう。

さらにマシュー・ヘンリーという聖書学者が、この時の「渇く」ということについて次のように言われていました。「イエス様が、もし十字架上で『私は渇く』という苦痛を忍んでくださらなければ、私たちは、死んで黄泉に落ちた金持ちと同じく、地獄の炎の中から『せめて、指先を水にひたして、私の舌を冷やしてください』と哀しみ訴え・哀訴する他なかったであろう。」

ルカによる福音書 16 章 24 節「そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』」 他の聖書学者も「キリストが渇かれたのは、私たちをして、とこしえに命の水を飲み、その霊魂に絶えず、渇きを覚えることがないようにするためであった。」 主イエス様が、私たちの罪の為に、また魂が渇かぬように、十字架上で、渇いてくださった。何という申し訳なさと、感謝でしょうか。

29節「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。」

主イエス様は、十字架に付けられた最初に、痛みを和らげる、麻酔的な葡萄酒は、飲まれませんでした。そして死を前にして、葡萄酒をいっぱい含ませた海綿が差し出されました。これは、ローマ兵が、十字架につけられた人が死ぬまで、待っている間に飲んでいた安い葡萄酒でした。イエス様は、最後に「成し遂げられた」と叫ぶ為に、飲むのではなく、口に含むことをされたのでしょう。 葡萄酒を含んだ海綿がヒソプに付けられていました。ヒソプは、きよめの為に用いられる植物です。詩編 51 編 9 節「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、よりも白くなるように。」 イエス様の十字架の血は、全人類の罪をきよめるためのものであることが、ヒソプに付けられていたことから、暗示されています。全人類の為の贖いが完了したことを、ヒソプにつけられたものを用いて、宣言されるのです。 30節「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」ここで「成し遂げられた」と訳された原文の言葉は、「完了した」あるいは「すべてが終わった」という意味でもあります。 ですから、イエス様が言われた言葉は、イエス様が、この世の命が終わっただけでなく、私たちの罪の犠牲となる為に、父なる神様が遣わされた目的が、成就し完了したということです。さらにいえば、私たちの人間の罪の贖いが、十字架で、血を流して完了し、成し遂げられたということです。

31節「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。」

ユダヤ教の安息日は、土曜日ですから、前の日の金曜日は、準備の日となります。安息日に、十字架から遺体を降ろすことは仕事になりますから出来ません。そこで、ユダヤ当局は、ローマ兵が、十字架刑の人の死を早める為に、足を折って取り降ろすことを、ローマ総督であるピラトに願い出ました。 ユダヤ当局は、安息日前に行うことに関してだけは忠実でしたが、罪の全くない神の御子を十字架で殺すという、大きな律法違反には、目も止めない矛盾ぶりです。方法には忠実でも、目的が的を外れている。まさに罪の本質を、隠しているに過ぎません。けれど、これが私達人間の罪と弱さと醜さなのです。

32節 33 節「そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。」

イエス様の足だけが折られなかったのは、既に死んでいたことと、聖書の預言の成就でした。さらに加えて、イエス様が、過ぎ越しのいけにえとしての小羊であり、無罪性と義人の死を強調するものでもあったことでしょう。

34 節「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」わき腹を刺すことは、心臓を射貫いて、確実に死んだことを確認することです。医学的には、心臓から、血と水が分離して出てくるのは、死んだ確実な証拠だと言われています。 さらに血と水が流れたことは、信仰的、霊的な意味があると言われています。一つは、血は、

罪と罪責感からのきよめであり、水は、御言葉によって罪人の汚れがきよめられるということだとするものです。二つ目に、血は、罪からの救いを意味し、水は、イエス様の犠牲によってのみ与えられる新しい霊的な生命の象徴である。三つ目に、血は、義と認められる義認であり、水 は、聖く変えられる聖化であるということです。 四つ目に、主イエス様のわき腹から、血と水が流れ出た事実が、霊的な注ぎとつながっていることを示すというものです。ゼカリヤ書 12 章 10 節「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」 憐れみと祈りの霊は、刺しぬかれたイエス様の血と水が流れて、与えられるということです。35 節 36 節「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』いう聖書の言葉が実現するためであった。」 旧約聖書の預言の一つである民数記 9 章 12 節「翌朝まで少しも残してはならない。いけにえの骨を折ってはならない。すべては過越祭の掟に従って行わねばならない。」

イエス様の十字架は、あくまでも主が無罪であり、私たちの罪の身代わりとしての「いけに え」であったことの成就であることが強調されています。主イエス様は、まさに私たちの罪を取り除く、神の小羊なのです。この尊い犠牲に対して、私たちは、何をもって応えたよいのでしょうか。

最後に、キム・ウンホという方の「受けた恵みに報いる人生」という内容を受け留めます。「聖歌に『救い主はわがため』の 4 番にこのような歌詞があります。『ささげるもの、すべては、イエス様の手より出ました、ささげます、ゆだねます、今私の身を、神様の御手に』。

この讃美の歌詞のように、私たちの全ての恵みは、神様から与えられました。召しを受け、救われたことは、実に驚くべき恵みです。2 本の足で歩くことが出来、喉の声帯を使って讃美することができるのも、同じく神様の恵みです。私の血管は 98%まで塞がってしまいましたが、手術により命を取り留めました。これもやはり、神様の恵みです。

時には棘も恵みであり、失敗もつまずきも恵みです。恵みを知った者は、いい加減に生きることができません。その恵みが、空しいものにならないように、ほかの人よりも多く労苦します。愛は赦しと比例します。多くの罪が赦された者は、より多く愛し、赦された罪が少ない者は、少しだけ愛します。

忠誠も受けた恵みに比例します。恵みを多く受けた者は、より多く忠誠を尽くします。そしてより多く労苦します。しかし、真に恵みを知った者は、自分の労苦を言い表したり、献身ぶりを誇ったりしません。その恵みに感謝し、主のためにもっと多くのものを献げようとします。今のあなたは、どうでしょうか。どのように歩んでいますか。より多くの労苦や献身や忠誠によっ て、あなたが受けた恵みを証ししましょう。」

神様に愛されている皆さん、イエス様の犠牲の愛に応えて、私たちも、多く罪が赦された恵みに感謝して、ご聖霊によって、労苦と献身と忠誠へと向かいませんか。お祈り致します。

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