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  • 執筆者の写真CPC K

2023.4.30 ヨハネによる福音書 19 章 38~42 節 「キリストの墓は聖墳墓教会へ」


牧師 松矢龍造


主イエス様が、十字架につけられ、葬られ、復活された場所は、ゴルゴタの丘とされています。そこには、現在、聖墳墓教会が建てられています。この聖墳墓教会は、ゴルゴタの丘と、キリストの墓を保存する為に、AD335年に、コンスタンティヌス大帝によって、建てられました。世界最古の王立の教会の一つです。現在の教会堂は、だいたいにおい

て、十字軍時代に再建され修復されました。聖墳墓教会内にありますイエス様の墓は、当時の典型的なユダヤ式、岩洞窟で、復活聖堂・アナスタシスと呼ばれるドームの真下に位置しています。その周囲の壁に沿って、カタコンベ式墳墓が発見されており、アリマタヤのヨセフの墓と考えられています。この聖墳墓教会が、イエス様の墓として一番有力ですが、その近くに、園の墓と呼ばれる場所もあり、イエス様が葬られ復活されたと言われるもう一つの場所があります。

一度目のイスラエル研修の際は、その場所で聖餐式を行ってくださいました。人類の始めは、エデンの園でしたが、私達人類の救いの為に血の汗流し、祈られた場所は、ゲッセマネの園であり、そして十字架と復活された場所も、園の墓でした。キリストにある園には、命と希望があります。ギリシア正教会では、聖墳墓教会のことを、復活教会と称されています。キリストの遺体が、十字架から降ろされた場所は、現在は、赤大理石が置かれおり、ここでご遺体に香油を塗ったとされています。そこには、絶えず今も、オリーブオイルが、点滴のように落ちるようになっており、その油を、小瓶に入れて、本国に持ち帰る巡礼者が大勢います。その油を、病気の人や、怪我をした人に塗ると、癒されるという伝説があります。確かに、ここにイエス様の聖なる遺体が置かれたと思うと、厳粛な思いとなります。さらにすぐ横の壁には、イエス様のご遺体が、運ばれて墓に葬られることが、モザイク壁画として描かれ、壁に掛けられています。イエス様が、墓に葬られたことは、イエス様の死が、蘇生ではなく、私たちの罪の贖いの為に、確実に死なれたことの証明ともなっています。使徒信条の中にもイエス様が「死にて葬られ」と、私たちは、毎週の日曜日の礼拝において、確認していることでもあります。

それではもう一度38節「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。」

このヨセフは、エルサレムの北西約32kmの村であるアリマタヤの出身で、裕福だったので、イエス様のご遺体を適切に埋葬するゆとりがあったことでしょう。マタイによる福音書27章57節「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。」

通常、十字架で処刑された者は、そうした犯罪人を葬る墓に納められます。しかしイエス様は、犯罪人の墓には、葬られませんでした。その日は、ユダヤ教の安息日である土曜日の前の準備の日である金曜日です。イエス様が十字架で息を引き取られたのが、午後の3時であり、翌日の安息日が始まるのは、夕方の6時ですから、3時間以内に、ローマ総督であるピラトから、遺体を降ろして、墓に葬る許可を取って、実行しなければなりませんでした。

アリマタヤのヨセフは、イエス様の遺体を取り降ろしたいと願い出ることは、自らをユダヤ教や議員から除名されたり、迫害を受けたり、暴行を受ける危険に身を晒すことを意味していました。十字架に処せられた者を、親類縁者ではない、アリマタヤのヨセフに引き渡したのは、ピラトが、イエス様の無罪を確信していた証拠のであるかもしれません。

ピラトが許したのでとありますが、「許した」とは原文では「認める」という意味でもあります。遺体を取り降ろす許可である共に、犯罪人の墓ではない所に葬ることを認めたということでもありましょう。

今まで、ユダヤ人たちを恐れて、キリストの弟子あることを公に出来なかったアリマタヤのヨセフです。しかしイエス様の十字架の死を通して、イエス様の犠牲と愛に触れて、自分自身は、この先、どのような目にあってもよいと、献身の思いを表明したのです。イエス様に、霊的に出会った人たちは、イエス様の為に感謝と献身を表してゆきます。39節「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。」ニコデモとアリマタヤのヨセフも、ユダヤ70人議会の議員です。かつては、ヨセフと同様、ユダヤ人を恐れて、イエス様の弟子である信仰を隠してきました。「ある夜」と記されているのは、そのことを表しています。しかしニコデモの信仰は、成長して行ったことが分かります。先ずヨハネによる福音書3章1節2節「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』」ニコデモは、最初は、イエス様のことを、神様のもとから来られた人間の教師と思っていました。それが、7章50節51節となってゆきます。「彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。『我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』」公に擁護する側になっていったことが分かります。そしてイエス様の十字架の死後は、共に葬る為に、身の危険も顧みずに、公に出てきました。ニコデモが持参した没薬と沈香を混ぜた物は、百リトラ・約33kgでした。一人の人間を葬るには、かなりの量です。このような多量の香料を持参して来たということは、イエス様の葬りを、王の葬りであるあることを示す意図があったと思われます。これはニコデモが、今、イエス様を信じると表す、信仰の告白とも言えます。そして二人の行動は、ユダヤ人たちの判断や、その罪から、はっきりと訣別する勇気ある行動でした。しかしイエス様が、生前、大衆に仕えおられた頃に、排斥された主の側につこうとしなかったことが悔やまれます。ぐずぐずしていたことによって、この二人は、生前に、キリストとの尊い霊的な交わりを、どれほど多く失ったことでしょうか。実に残念です。

40節「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」遺体は、通常、亜麻布で包まれました。そして芳しい香料や軟膏が塗られることもありました。死体の顔には、布がかけられました。33㎏の香料が塗られたのですから、そうとう手厚い葬りの為の準備となったことでしょう。それらはイエス様の十字架による、犠牲の愛に迫られての奉仕でした。

41節「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。」この新しい墓は、おそらく議員ヨセフの私有地であり、当初は、たぶんヨセフが自分の為に設けておいた墓であったでしょう。この園の墓は、ゴルゴタ付近であったので、安息日前に、ご遺体を整え、埋葬する作業を終わらせることは、十分出来たでしょう。

ある方がこう言われます。「キリストの墳墓は、旧世界の埋葬所にして、新世界の揺籃であった。

42節「その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」これは、イザヤ書53章9節の成就でもありました。「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。」十字架につけられた時は、盗賊と同じとみなされましたが、墓は富める者と共に葬られる場所となりました。キリストの生と死と復活とは、人類の歴史の上に、絶大な転機となりました。そしてキリストにあって死にて葬られたキリスト者の墓は、永遠の命に至る門と見なされます。

通常、遺体の葬りは、親類縁者または、親しい友人の仕事でした。しかしイエス様のご遺体を、十字架から取り降ろしたのは、12弟子でもなく、イエス様の家族や親族でもありませんでした。アリマタヤのヨセフであり、ニコデモでした。イエス様を信じて、イエス様の言われることを行う者たちは皆、主イエス様の家族です。この神の家族は、イエス様の犠牲の愛に迫られて、御聖霊によって、感謝と献身を表してゆく者たちです。

十字架に付けられたイエス様の姿をまのあたりにして、信仰を告白した者たちは、少なくても四人いました。先ず十字架に共につけられた犯罪人のうちの一人です。ルカによる福音書23章40~43節「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』

そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。

二人目は、ローマの百人隊長です。マルコによる福音書15章39節「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て『本当に、この人は神の子だった』と言った。」

そしてアリマタヤのヨセフとニコデモの四人です。ヨセフとニコデモのように、隠れた弟子たちが、この希望が丘の街にも、私たちが遣わされ、置かれている場所の隣人の中にも、いるのではないでしょうか。

私たちも、主の十字架の愛に迫られ、ご聖霊によって、勇気ある、愛と犠牲の行動をしてゆきませんか。そして十字架と復活の主イエス様の、生ける証人とされてゆきましょう。お祈り致します。

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