2023.4.3受難週祈祷会・月曜日_ヘブライ人への手紙 4 章 14~16 節_マタイによる福音書 26 章 69~75 節「大祭司キリストとペトロの否認」
- CPC K
- 2023年4月15日
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牧師 松矢龍造
起
今年の受難週祈祷会では、「大祭司キリストの受難」というテーマで 5 日間行うことが導かれました。今年はヘブライ人の手紙の中から、大祭司キリストのことが取り上げられています御言葉を受け留めます。加えて教会学校の早起きお祈り会と共に、世界中で用いられています日々の聖句・ローズンゲンでは、今年はマタイによる福音書が、受難週の聖書箇所を読んで行きます。
ですから月曜日から、ヘブライ人の手紙中から大祭司に関する御言葉と、加えてその日のマタイによる福音書の聖書箇所を含めて、御言葉を黙想し、祈り合います。
時々、この礼拝堂で、葬儀礼拝を執り行います。その前に、喪中の家に行きますと、多くの教訓を学ぶことが出来ます。宴会の家には、一時的な楽しみがありましても、人生の教訓を学ぶ機会は少ないです。
コヘレトの言葉 7 章 2 節「弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。」人生は短く、死は必ず誰にも来るものであり、今までの人生は、本当に生きるべき道のりであったのか。これらは、喪中の家に言って学ぶ教訓です。
そして親しい人を天に送る寂しさに、人間の弱さを覚えます。その弱さや悲しさを背負う人の傍らに寄り添うということは、大切でありながら、それは何と困難であるかと思えます。人間の同情には、限界があります。「あなたに、私の苦しみは分からない」と言われたら、何と答えることが出来るでしょうか。たとえ、悲しむ者と共に悲しむことが出来たとしても、その悲しみを喜びに変えることは出来ません。また他人を救うことも出来ません。悲しみを喜びに変え、罪と死から私たち人間を救いえるのは、偉大な大祭司、神の御子キリスト・イエス様だけです。
承
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではない」と言われています。弱さと訳された言葉は、原文では「無力」「病気」「患い」とも訳せるものです。肉体的な弱さや、病気、道徳的な弱さや、宗教的な信仰的な弱さの全てを言っています。
神の御子イエス様は、罪は犯されませんでしたが、あらゆる点において、わたしたちと同様に、試練や誘惑に遭われました。私たちの肉体と精神と社会性における試練と誘惑を、主イエス様はご存じです。そして信仰における迫害においてもです。日本にいますと、信教自由の中にありますが、外国では、時に、イスラム圏、ヒンズー圏、共産主義圏での迫害があります。
かつてイスラム国に拘束されていた日本人に、後藤さんという方がいました。この方は、キリスト者であり、ミッション・スクールである玉川聖学院で、証しをされて、多くの学生から慕われている人でした。拉致されて命の危険に連続に晒されていました。
イエス様が、あらゆる点においてと言われているのですから、拉致されている後藤さんの苦しんでおられる、その傍らで共に苦しんでおられるのがイエス・キリストというお方です。他者の苦しみの中に、自らも入り込み、その苦しみを自分の苦しみとして背負われるお方です。イザヤ書 53 章「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。」
罪が総攻撃をかける前に、敗れてしまうのが私たち人間です。これに対して、イエス様は、総攻撃を最後まで受けられた。しかも何も罪を犯すことなく。ですから、その霊的戦いは、すさまじいものであったと言えます。人間の誰よりも、最も苦しいところを通られたのが、偉大な大祭司である主キリストです。
転
試練と訳された言葉は、原文では「誘惑」とも訳せるものです。ですから、苦難ばかりでなく、あらゆる領域における肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢の試みを受けたということです。
人間の弱さということで、先ほどのイスラム国の拉致事件において、見えて来るもので確認しておきたいことがあります。それは、神様を愛することと、人を愛することを切り離してしまっているイスラム国の姿のことです。これに対して、対峙している側は、人への愛を語りながら、神様への愛を切り離して考えています。また一方、信仰と常識的理性を切り離しているイスラム国に対して、対峙している側は、常識的理性が、信仰と切り離されて考えられています。
ですから、どちらも解決が困難です。信仰と常識的理性、神様への愛と人への愛が結びつくことが出来るのは、大祭司なるキリストによってのみです。
イエス・キリストは、神様を人に近づけ、また人を神様に近づけます。それが偉大な大祭司です。旧約時代の大祭司は、民の罪を贖って、神様と人との仲介者、仲保者となる前に、先ず自分自身の罪の為に、いけにえと贖いが必要でした。これに対して、キリストは、罪が一つもないお方なので、自分自身に対する、いけにえと贖いが必要ありません。さらに人間の大祭司は、死にますと、次の大祭司が選ばれる必要があります。しかしキリストは復活された永遠の大祭司です。ですから主はよみがえりであり、命だから、私たちの悲しみを喜びに変え、罪と死、悪魔と悪霊の誘惑と攻撃から、私たちを救い出す、唯一のお方です。
だから、時宜にかなった助けを頂くようにと勧められています。キリストは、時宜、すなわち最善の時に、最善の方法で、私たちを助ける偉大な大祭司です。すべての時、全ての場所、全ての環境においてもです。
悩みの時、苦しみの日、行き詰まりの時、迷いの中で、暗闇や困難の中で、痛みと不安の中で、迫害や試練の時、誘惑と霊的不調の日も、転機に立つ時も、死の間際であってもです。
かつて教会であった天野洋一兄が、病院で危篤状態と知らせを聞いて、奥様と息子さん、私たち夫婦が駆けつけたことを思い出します。午前一時少し前でした。しかし零時 46 分に天に召されて行かれていました。ですから、息を引き取る時は、兄は一人であった。しかし復活されているイエス様は、天野兄の傍らで共にいてくださった。駆けつけて臨終の祈りを捧げた際に、拝読した聖書の箇所は、旧約聖書詩編 23 編の全体です。その中に「たとえ死の陰の谷を行くとも災いを恐れません。主が私と共におられるからです。」死の谷を行く兄と、復活された大祭司イエス様が、共にいてくださったのです。
加えて、天野兄続いて天に召された藤岡 和姉のことも思い出されます。76 年にわたる信仰の生涯は、まさにあらゆる時と場所で、主が支えてくださったことの証が、人生の歩みの中で残されていました。かつての週報の一面にも記したことがあります。「先日、天に召され葬儀礼拝を執り行いました藤岡 和姉は、96 歳で天に召される直前まで、主日礼拝を守っておられました。20 歳で洗礼を受けられてから、76 年間、『礼拝が自分を取り戻す唯一の場所』と言われ、主日の礼拝を大切にして来られました。
6 歳で母親が天に召され、結婚してわずか 3 年で、ご主人が召されました。その後、母一人、子一人の生活の中で、何度もヨブ記の言葉に励まされて来たそうです。『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこにかえろう。主が与え、主がとられたのだ。主の御名は、ほむべきかな。』会葬御礼にも記されています聖書の御言葉です。神の主権に、身を委ねて生涯を全うされました。
さらに戦後の物資が不足する中で、しかも母一人、子一人の生活苦の中で、『無くてならぬものは与えられると、神様の導きに従って今日まで歩いて来ただけ』と、御自身の信仰を振り返っておられました。
人が最後に残すものは、集めたものではなく、捧げたものだけだと言われます。いつまでも残るものは、信仰と希望と愛だけが、私たちの生涯の中心となりますように。それを支える一番の要は、喜びなる礼拝を主にお捧げすることです。信仰者の最後の姿に倣いたいものです。」
「時宜にかなった助けを頂く」ために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。この時、「めぐみ座」とはどんな場所でしょうか。それは自分の行いでは、受ける資格がないにもかかわらず、私たち罪人に与えられる神の愛顧の御座のことです。また弱さを持っている私たちが、キリストの御前に、朝に夕に、出ることが出来る恵みの座のことです。そしてキリストの十字架の血潮によって、そのままで、あるがままで、この存在が、受け入れて頂けるところの恵みの座です。別の表現では、罪の奴隷であった私たちを、イエス様は、友として、兄弟として、神の民として、受け留めて頂ける、恵みの座です。
ある方が、地上で悲しみの最も強く感じられる所は、天の玉座と言います。私たちの体には、末梢神経があります。そしてそれらの末梢神経なる小神経が集まるのは、大神経であり、それが集まるのは脳です。同じように、地上の様々な苦しみや悲しみが、最大に集まるのは天の座です。そこでキリストは、大祭司として、私たち全人類の痛みを知り、取り成していてくださっている。その恵みの座とも言えます。
葬儀礼拝が終わり、火葬場に向かい、幾日かして、遺骨を墓に納めます。ある方が、今この時間の真の意味と価値を即座に悟る場所として、墓は実に的確な教育の場であると言います。墓は、死と言う眼鏡・メガネを通して、命は、まさに今を生きていることであると悟る場所である。墓所は、今、この瞬間の価値と意味を悟らせてくれる。
しかし悟ったとしても、すぐに実践できる力まで、墓は与えてはくれません。人間の生き方を真に変え、人生の中で悟ったことを実践する力は、永遠の命、真の命であるキリストです。そしてキリストが遣わされたご聖霊様から、永遠に尽きることのない絶対不変の力、真理と命の力を頂くことが必要です。キリストとその御言葉、ご聖霊様とその命と力に預かることが、誰にでも要です。
ペトロの手紙一 3 章 18 節「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」
このキリストにある時、人の世の貧しさや、重荷、孤独が、私たちの同情心を育てます。さらに私たちがアダムのもとに立つなら、私たちも没落します。しかし偉大な永遠の大祭司なるキリストのもとに立つなら、サタンが没落します。
私たちの弱さを思いやることの出来るお方に、時宜にかなった助けを頂く為に、大胆に恵みの座に近づきませんか。
結
先ほどのペトロの手紙で、「キリストも、罪のために、ただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」
このことを先ず、深く受け留めた人物は、ペトロ自身だったでしょう。ペトロは、決してイエス様を見捨てないと豪語し、ゲッセマネの園では、祈らず眠りこけていました。そしていざイエス様が捕まり、十字架につけられるという判決のなされるイスラエルの大祭司の庭で、三度主を否みました。
人間の意志も、勇気も、信念も、何と弱く、無力なことでしょうか。そんな弱く醜い私たちを、全部ご存じでありながら、今も天の右の座で、十字架と復活の主イエス様は、私たち一人ひとりの為に、執り成しておられます。この恵みとご恩寵に対して、私たちは、何をもって、お応えすればよいのでしょうか。主の憐れみと、御聖霊の御助けを祈り求めましょう。お祈り致します。

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