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2023.4.4受難週祈祷会・火曜日ヘブライ人への手紙 5 章 1~10 節 マタイによる福音書 27 章 1~14 節 「大祭司キリストとユダの自殺とピラトからの尋問」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2023年4月15日
  • 読了時間: 8分

牧師 松矢龍造


今年の受難週祈祷会では、ヘブライ人への手紙とマタイによる福音書から、「大祭司キリストと受難」ということが、導かれています。今日の御言葉は「大祭司キリストとユダの自殺とピラトからの尋問」のことです。さて、人に接する上で、最も必要なことは、何でしょうか。今日の御言葉によれば、同情と忍耐ではないかと示されます。しかもその同情は、苦しみを共にすることによってこそ、真の同情となります。逆に、軽蔑や批判の中では、真の同情も取り成しも出来ません。

神の御子イエス様が、私たち人間に接する上で、大切にされたことも、愛に基づく忍耐でした。 また罪は犯されませんでしたが、人間の苦しみを共にし、従順を学ばれ、私たちに対する深い理解 による同情を寄せてくださいました。これが偉大な大祭司なるイエス様だと、今日の御言葉は、私たちに語りかけています。

多いときは、一週間のうち二回の葬儀礼拝があります。ある週の葬儀礼拝は、両方とも奥様の方が、夫を天に送り、お子さんたちと共に、葬儀礼拝に立ち会われていました。人は苦難や悲しみを通して、人の心を知る者となります。ご遺族の皆様は、親しい肉親を天に送ることを通して、他の人の痛みや悲しみを、受け留めることを学んでゆかれます。キリストも神の御子であられるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、ご自分に従順である全ての人々に対して、永遠の救いの源となられました。

大祭司は、神様と人との仲介者、仲保者です。必要なことは、神様と人の両方をよく知っているということです。加えて、神の御前で聖く、人の弱さに同情できる者でなければなりませんでした。旧約の大祭司は、すべて人間の中から選ばれ、罪のために供え物や、いけにえを捧げ、人々のために、神様に仕える職に任命されています。旧約の大祭司は、自分も弱さを身にまとっています。

「弱さ」と訳された原文の言葉は、「負債がある」あるいは「罪を犯したままになっている」とい う意味を持った言葉です。人間は皆、神様の御前に、罪という負債があり、そのままでは罪を犯し たままで、神様の御怒りの対象でしかありません。

エフェソの信徒への手紙 2 章 3 節、4 節「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じよ うに、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生 かし、あなたがたの救われたのは恵みによるのです。」

先の葬儀礼拝の一人は天野洋一兄でした。この人物は、親御さんが自死をされて、悲しみと寂し さの中で、教会に導かれ 16 歳で洗礼を受けられました。その孤独感から、人に当たることもありました。酒に弱いのに、酒に逃げる時もありました。そんな自分自身を、教会の中で一番落ちこぼ れと言われていました。しかしこの天野兄と接すると、信仰によって義とされる真髄を、この人か ら学び続けてきたような気がします。葬儀礼拝の中では、ロシアの文豪の一人ドフトエスキーの有 名な著書「罪と罰」のことを取り上げました。この作品の中に、飲んだくれの父親が登場してきて、娘を売春婦にさせている人物が登場します。この人物が亡くなる時に、天国に行くのは、娘のよう な、きよらかな心を持った者であり、自分のような者は、地獄に行くと言うのです。しかしこの私 を、神よ、憐れみたまえと祈ります。そのような心の貧しい者こそ、天の御国に入れて頂ける者なたちではないか。そうイエス様は、山上の説教で言われているのではないでしょうか。

どうして、心の貧しい者が幸いなのか。それはイエス様が、この心の貧しい者と、なお共にいてくださるからです。その罪を十字架で、ご自身が苦しまれ、傷つきながら負い、人々に仕え、仕えることによって、支配される王だからです。

もう一つ、主が共にいてくださったと思うことは、先日の国際ジャーナリストの後藤健二さんが殉職された日に、もう一つ別の方の死が報道されました。それはドイツの元大統領であったワイツゼッカー氏の死去されたことです。この方の二つの演説が有名です。一つは「若い人たちにお願い したい。他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。」も う一つは「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります。」

ヒットラーやイスラム国の残虐さに対して、一方では、敵意や憎悪を駆り立ててしまう危険があり、もう一方は無関心になってしまうことがあります。そんな両極端に流れてしまいやすい私たちの弱さに対して、この大祭司になるイエス様は、私たちの傍らに寄り添って、神様と人への愛と平和へと向かうように導かれる、永遠の救いの源なるお方なのです。

この大祭司なるイエス様のことを、6 節で「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。メルキデゼクとは、義の王という意味ですが、サレムの王、すなわち 平和の都の王でした。義と平和が象徴される王であり、その死は記されていないので、永遠に生きていると信じられていました。主イエス様も、永遠の大祭司であり、義と平和を十字架で造り出されるお方です。義だけを求めれば、人間の罪の全てを裁く必要があります。しかし平和だけを求め るなら、罪は裁かれず、世界に犯罪が広がって行きます。

義と平和が成り立つのは、イエス・キリストの十字架のみです。旧約の大祭司は、自分の罪を贖う必要があり、動物の血が流されました。しかし神の御子は、罪が一つもないお方なので、動物の犠牲の血を必要としません。また民の罪を贖うためには、旧約の大祭司は、動物の血をもって至聖所に行きました。しかし神の御子イエス様は、犠牲と捧げものとして、御自身の命と血を捧げられました。イエス様こそ、メルキゼデクに等しい永遠の大祭司です。

詩編 110 編 4 節「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(わたしの正しい王)。」人間は苦しみの中で、従順を学びます。また神学は、苦難と、祈りと、黙想によって生 まれると言われます。イエス様も従順は、苦難の中で学ぶべきものであることを示されました。代表的な苦難の一つは、ゲッセマネの祈りです。十字架の苦難の杯を避けたい。しかし神の御心がなりますようにと、血の汗を流して祈られました。自分中心から、神様中心の者になってゆくことが、 従順を学ぶということです。

ですから、私たちは、苦難の中で、神様は人に語られることを知る必要があります。しかしその御声を聞くためには敬虔で信心深くなければなりません。もし反抗的であるなら、心が発する叫びで、神様の声が、かき消されてしまいます。

主イエス様は、神の御子でありながら、真の人間となり、試練と誘惑を経験して、最後まで忍耐し、完全な者となられました。まさに最後まで、神様の御声を、自分の声でかき消すことなく、神様の全ての言葉を聴き、その言葉に完全に従われ、私たちの永遠の救いの源となられました。悪魔の力と罪と死の支配より、私たちを解放し、救い、永遠の滅びと裁きから、私たちを救い出される のは、このお方だけです。

私たちは、ヘブライ人への手紙 5 章 2 節にありますように、生まれながら無知な者です。真の神様のこと、真の自分の罪の姿、未来のことを知らない者たちでした。また神様との関係である霊的なことや、人との関係における道徳的なこと、そして有限の中で、永遠に関して無知でした。そんな無知で迷っている私たちの為に、キリストは自分がどうなっても、神様の栄光が現れ、人々が救われて欲しいと願われ、十字架の道を、ドロローサ・悲しみの道、苦しみの道を進んで行かれました。

私たちは、このキリストに倣いて、神様が苦難の中で教えられることを学ぶ心構えがありますでしょうか。ともすると苦しみはいりません。避けさせてくださいと叫ぶ者でないかと、自分のことを振り返ると思います。しかし主が教えてくださるほとんどは、苦しみの中で教えてくださるものです。

先の葬儀礼拝のもう一つは、五年前に天に召された青年会の松元恵一兄のお父様の葬儀でした。お父様の松元秀弥さんは、お母様が上北沢教会の教会員で、婦人会で活躍された方でした。またお父様は、賀川豊彦師から、直筆の掛け軸を頂いている人でした。世界の中で有名な日本人キリスト 者は、この賀川豊彦先生と、もう一人は内村鑑三先生です。葬儀礼拝の中では、内村鑑三先生のことを取り上げました。この内村先生が、真に復活信仰を学ばれたのは、娘さんのルツ子さんが天に召された時です。その娘のルツ子さんが葬られる墓の前で「ルツ子、バンザイ」と叫ばれた。キリ ストを信じて永遠の命を得て復活することを、最終的には、愛する娘の死という悲しみを通して、 キリストにある復活と信仰を学ばれたのです。私たちも、永遠の大祭司にして、永遠の救いの源である神の御子イエスと共に、苦難の中で、神様から真実な教えを学ぶ者でありますように。

イエス様は、12 弟子の一人、イスカリオテのユダの裏切りを通して、捕縛され、尋問され、死刑判決となってゆきます。イスカリオテのユダは、はたして苦難の中で、神様から学ぶことを選んだでしょうか。むしろそれを避けた一人です。

またポンテオ・ピラトも、苦難の中で、神様から学ぶことをしたでしょうか。結局、優柔不断の中で、自分は悪くないと、手を洗って見せて、結局イエス様を、ユダヤ当局と民衆に渡してしまいました。自分の保身の中で、苦難を選ぶことをしませんでした。

しかしこのイスカリオテのユダと、ポンテオ・ピラトの弱さと罪は、私の中に、私たちの中に、 歴然とあるのではないでしょうか。主イエス様は、苦難の中で、神様から学ぶことを避ける、私たちの為にも、苦難と十字架の道をまっすぐ行かれたのではないでしょうか。この大祭司キリストの受難は、私の為、私たち一人一人の為だったのです。この主の御前に、悔い改めと共に、御聖霊の力を頂いて、苦難を通して、神様から学んで行きませんか。お祈り致します。



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