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2023.4.5受難週祈祷会・水曜日ヘブライ人への手紙 7 章 26~28 節 マタイによる福音書 27 章 15~30 節「大祭司キリストと死刑判決」

牧師 松矢龍造


20世紀最高の物理学者は、アルバート・アインシュタインと言われています。この方が人生には 2 種類の生き方があると言いました。「一つは、奇跡のようなものはないと信じる人生であり、もう一つは、すべてのことが奇跡であると信じる人生である。私が考える人生は、後者である。」皆さんは、奇跡はあると信じる人生でしょうか。それとも奇跡のようなものはないと信じる人生でしょうか。

続いて、ある神学者は奇跡に関して次のように言われます。「現代人は、日常生活の中で戦慄を感じることを知らない。本当に重要なことは、奇跡自体ではなく、奇跡を見る私たちの目である。」キリストが復活された史実性を、リトル・イースターと呼ばれる毎日曜日に確認します。そして特に毎年、イースター・復活祭で受け留めます。さらに必要なことは、私たちが復活の奇跡に対して、どのような心の目で見るかです。今日の御言葉が私たちに語りかけているのは、復活して永遠に完全な者とされておられる神の御子を、大祭司として見るということです。

ヘブライ人への手紙の中には、いくつも、「とこしえ」あるいは「永遠」という言葉が愛用語の ように出てきます。5 章 9 節「とこしえの救い」6 章 2 節「とこしえのさばき」9 章 12 節「永遠の贖い」9 章 14 節「とこしえの御霊」9 章 15 節「永遠の資産」13 章 20 節「永遠の契約」。これらの「とこしえ」あるいは「永遠」は全て、復活された永遠の大祭司キリストを基にしています。

私たちが、もしキリストから心の目をそらすなら、そこは「とこしえ」あるいは「永遠」から遠ざかってしまいます。ヘブライ人への手紙の最初の読者は、迫害の中で辛いなかにありました。ともすると心がキリストから、この世のつらい現実に移ってしまいがちでした。そんな中で、「とこ しえ」あるいは「永遠」は主キリストにあると、私たちの心を何度も引き寄せようとしています。

ヘブライ書と共に、「とこしえ」や「永遠」を愛用語にしているのはヨハネによる福音書です。そのヨハネ福音書 5 章 39 節で、イエス様はこう言われています。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」ヨハネ福音書 17章 3 節にも「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあります。

イエス様が私たちの罪の身代わりとなって十字架につけられ復活されたので、私たちの過去、現在、未来の全ての罪が赦される道が開かれました。もっといえば、地上に来られたイエス様は、紀元前と紀元後と歴史を分けられました。その紀元前の人々と、紀元後の人類の全ての罪を、永遠に 贖い救う道が開かれたのです。

イエス様は、神でありながら、人となられました。そして真の人間でありながら、御聖霊によって生まれ、原罪を持っておられません。また罪を一つも犯さず、全ての誘惑に打ち勝ち、まったく罪のない人間でした。あらゆる試練や誘惑を受けても、汚れを一切知らないお方です。

しかも罪人なる私たちから離れることなく、私たち罪と汚れがある人間のただ中に来てくださいました。私たちの罪や汚れに触れても、御自身は汚れることも、罪を犯されることもなく、むしろ私たちの罪の為に、極みまで仕えてくださいました。

昔と今と変ることがないものが三つあります。一つは神様のきよさが変ることはありません。さらにもう一つは、人間の罪深さも減ることもありません。ですから、三つ目に、昔も今も、仲保者なる大祭司が必要であるということです。本来、きよい神様に対して、罪と汚れがある私たち人間 は、軽々しく近寄ることの出来るお方ではありません。

ですから聖なる神様と、汚れた人間の間に立って執り成す、仲保者なる大祭司が必要です。旧約 聖書の大祭司は、罪と汚れによって隔たっている神様と人との間に立って、毎日、聖所にて、罪の身代わりとしての犠牲の動物の血を携えなければなりませんでした。そして毎年、年に一度、大祭司は、先ず自分の罪のために犠牲の血を携え、次に民の罪と汚れのために犠牲の血を携えて、至聖 所に入りました。神様は聖なる方であり、軽々しく近づけなかったのです。

毎日、毎年というのは、その犠牲の血が不完全であるということを示しています。しかしキリストが来られた時、動物の血ではありません。ただ一度、罪のまったくない御自身の体を十字架で捧げ、私たち人類の全ての罪と汚れを贖う、完全な贖いの血を流してくださいました。

イザヤ書 53 章 9 節にこうあります。「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、彼は自らを償いの献げ物とした。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。わたしの僕は、 多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。彼が自らをなげうち、死んで、罪人 のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、こ の人であった。」

人を罪から救うという神様の誓いの御言葉は、イエス・キリストによって成就されました。その贖いの血は、一回性と永遠性と完全性でした。これによって、律法が成就しました。また神様の義が満足となりました。そして神様の聖に適合した霊的十全性となりました。

最初のアダムが造られた際に、土から造られ、鼻に命の息を、ご聖霊なる神様によって吹き込まれて生きる者となりました。今度は、イエス・キリストが、ご聖霊の息を向きこまれて、私たちを霊的に新たに生まれさせることがお出来になります。

イエス・キリストを神の御子・救い主と信じるなら、イエス様は、私たちを霊的に再創造してく ださいます。すると第一に、新しい命に生かされ、自分の自我の罪に死んでゆく者となります。自分の思いではなく、神様の御心がなることを求めるという意味で、自我の罪に、日々死に続けます。 もし私たちの肉体が生きていても、自分の思いのみによって生き、神の御心に生きていないなら、 それは霊的に死んでいると同じ生き方となってしまいます。自分の肉の思いだけを生きるなら、隣人を傷つけ、自分自身を傷つけ、神様の御名を汚す歩みとなります。

かつて、フイリッピンに 20 年に渡って、1 万 4 千人を買春した罪で捕まった日本の元校長のことが報道されていました。また故意に子どもたちが歩いているところに車を突っ込む人のことも報道されていました。そして神様に創造された隣人を、自分と同じように愛さないなら、私たちもまた、自分の思いのみに生き、神様の御心に沿って歩まない者となります。

主キリストの血によって贖われ、ご聖霊によって再創造された者たちは、自分の自我の罪に死に続けて、キリストの思いに生きる者たちです。ガラテヤ書 2 章 19、20 節「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。

キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わた しを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

第二に、キリストによって再創造された者は、自分のためではなく、他者の為に生きます。祭司は、自分のためではなく、他者の為に生きるものたちでした。すなわち他者の罪の為に、神にとりなし、贖いの血を携え、神様の祝福を分かつ人たちでした。

もっと言えばイスラエルの民が、神様に先ず選ばれたのは、イスラエルの人々が、自分たちのためではなく、他の民族と国のために生きるためでした。そのように生きる時、健全な国家、祭司の国となり得たのです。そして霊のイスラエルなる教会、すなわち私たちも自分自身を、他者に与えることによって、自分が真に存在してゆきます。これらは神がイスラエルと、新しい霊のイスラエルなる教会に与えられたご計画です。旧約の祭司は、祭司としての祭服を着ていました。新約の祭司であるキリスト者は、キリストの義の衣を着させていただいて、さらに主の御心に忠実に歩むという麻の衣を着て、その使命を果たしてゆきます。

第三に、キリストにあって再創造された者達は、キリストの三つの職である、王、祭司、預言者 の性質を頂きます。すなわち隣人に対して、悪巧みをせず、善を計り、罪から自由にされる王の性質を頂いている者となります。神様に対しては、聖なる者、人に対しては、悪をせず、むしろ善にして愛を注ぐ者となります。

またキリストに執り成す祭司の性質、そしてキリストの言葉を分かつ預言者としての性質が与え られます。その中には、和解と平和の福音を分かち合うことが含まれます。

真の積極的な平和主義とは、戦争がないという状態はもちろん、貧困や差別や偏見がない状態を目指すことだと、本来定義されています。隣人が弱さを覚えている時に、キリストの恵みの愛に促 されて助けます。肉体的に弱さを覚えている人、精神的に弱さを覚えている人、道徳的に弱さを覚えている人、信仰的に弱さを覚えている人が、私たちの周りにいないでしょうか。

マルコによる福音書 10 章 45 節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とあります。イエス様は、王の王、主の主でありながら、私たち人類の罪の為に、仕える僕の中の僕となられました。

キリスト者なる私たちも、罪に支配されない王であると同時に、隣人の為に仕える僕でもありま す。このようなキリストの性質に預かる為に、神の御言葉に生かされ続ける日々が重要です。20 世紀最大の伝道者であるビリーグラハムという博士が次のように言われました。「私たちに起きる問題の 90%は、みことばである聖書を読まないために起こる。」また信仰と祈りの人であり、孤児を数千人養ったジョージ・ミラーも言います。「私たちの霊的な生活の活力は、私たちの生活と考え の中に占められている聖書の割合による。」逆に聖書を否定した人物にチャールズ・ダーウィンがいます。人が猿から進化したと主張したダーウィンは、キリスト教の創造論に一番大きな被害を与 えた無神論の科学者です。しかし最近、ダーウィンの生誕 200 年を迎え、彼の進化論に対して、新たな研究が活発になされています。その中でも注目されている内容は、「ダーウィンは基本的に無 神論の観点から『種の起源』を書いたのではなく、神様を否定もしなかった。ダーウィンは被造物 が最初に存在して生命が生まれたことは、神様がしたことであると、はっきり言っている」という 主張です。

いずれにせよ、ダーウィンの進化論は、これまで創造論を否定し、進化論の火種を提供する道具として使われてきました。そして無心論者たちは、ダーウィンの進化論を使って創造論を攻撃し、 聖書を否定してきたことは事実です。しかしダーウィンが死ぬ前にイエス様を受け入れたというこ とを聞いた人たちは怪訝に思いました。1882 年 9 月、ダーウィンの直筆の手紙には次のような内容が記されていました。「私は今、しっかりとカルバリの十字架を見上げることができるようにな った。」ダーウィン博物館に保管されている彼の聖書には、次のみことばに線が引かれています。

ヘブライ人への手紙 6 章 1~2 節「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」皆さんは、 奇跡を信じない人生ですか。それとも奇跡を信じ、キリストにある永遠の確かさに生かされますか。

ポンテオ・ピラトは、イエス様の無罪を認めて、恩赦によって釈放を試みます。しかしユダヤ当局によって先導された民衆の声は、囚人バラバの釈放でした。そして民衆は、イエス様を「十字架 につけろ」と叫び続けました。ピラトは、自らの保身の為に、イエス様の死刑判決を許してしまいました。宗教改革者の一人、マルチン・ルターは、「奇跡とは、私がイエス様を信じることができるようになったことである」と言いました。囚人バラバが釈放される。それは奇跡です。また弱さと罪と汚れに満ちたこの私が、悔い改めてイエス様を信じて、罪が赦され救われる。これも奇跡です。そして私たちの隣人が、悔い改めて、主イエス様を信じる奇跡が、さらに起こされると信じて、 ご聖霊様によって、主イエス様を証しし、宣教して行きませんか。お祈り致します。


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