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2023.4.6 受難週祈祷会・木曜日_ヘブライ人への手紙 8 章 1~6 節 マタイによる福音書 27 章 31~44 節「大祭司キリストと十字架刑」

牧師 松矢龍造


この世界と宇宙が造られた際に、神は創造の一日一日の区切りにおいて「夕があり、朝があった」と繰り返し言われました。それは、どんな暗い夜があっても、やがて希望の朝が来るという意味でもありました。

私たちが地上において、経験していることよりも、さらに良きものが、天上で待っています。そのことを今日の御言葉では「更にまさった約束」と表現しています。迫害と苦難の中にいた最初のヘブライ人への手紙の読者たちをはじめ、現在の艱難の後に、必ず重い栄光と、さらにまさるものを望むように、何度も、この手紙を通して招かれたのです。

ヘブライ人の手紙の中には、いくつも「更にまさった」と出ています。「更にまさった希望」「更にまさった啓示」「更にまさった祭司」「更にまさった契約の仲介者」「更にまさった国」「更にまさった復活」「更にまさった犠牲」「更にまさった嗣業」。

使徒パウロもコリントの信徒への手紙二 4 章 16~18 節で次のように言われています。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光を、もたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」転

ヘブライ人への手紙の著者は、私たちに、地上の幕屋は影で、本体は天上の幕屋であると言っています。それはさらに優った真の幕屋であると。「影」と訳された原文の言葉は、「実体ではなく、実体の形を、大体の形で反映するもの」という意味です。

地上の幕屋は、天にある真の幕屋の写しです。地上の幕屋は人間の手で作られました。しかし天にある真の幕屋は、神様ご自身の手で造られたものです。現在、地上の幕屋は存在しませんが、キリストを信じた一人一人が、肉体の幕屋と言われています。私たち、お互いの人生の真の目的と使命は、地上のものからのみで判断するのではなく、私たち人間の真の目的や使命も、天にあると覚えるべきです。

すなわち私たちの人生の目的と使命は、天におられる神様の御心に沿うことが重要なことです。ですから、生涯も、日々の歩みにおいても、教会においても、天から、神様から、その目的と使命、計画と方法を受け留めることが大切です。そして神様の御心を、ご聖霊から頂く、愛と力によって、実現させて頂きます。

次に、天にある真の目的と使命を受け留めたなら、一つ一つ、神様の御前で、従順であることが必要です。かつて真の天の幕屋の写しを示されたモーセは、主が命じられた通りに、幕屋を建設しました。更にまさった恵みと救いを授かった者たちは、従順であることが、同じく大切なことです。イエス様は、私たちの人類の上に、これらが実現する為に、来て下さいました。ある神学者は次 のように言われます。「イエス様は、仮の世界と、真の世界の間にあって、本質に至る道、神に達する道を開き、両者を一致させ、神と人との間に和解をもたらし、真実の世界と、真実でない世界

との断絶を取り除いた。すなわちイエス様は、真実の命をもたらす唯一の方なのである。」

ですのに、地上にイエス様が来られた際に、地上の大祭司たちは、あなたは余計なことをするな。地上での祭司の営みは、我々がやることで十分ではないか。それなのに、あなたは余計なことをすると言って、主イエス様を十字架で殺したのです。

イエス様が地上に来られた際に、影なる地上の幕屋に仕える祭司たちが行っていることを邪魔した訳ではありません。イエス様は、神殿の敷地内に来られましたが、神殿の聖所や、至聖所には入られませんでした。イエス様が十字架にかかられたのは、真の天上の幕屋に、ご自身の罪なき十字架の血を携えて、入られたのです。そして天の右の座に着かれました。

天の玉座の右の座に着かれたのは、その座が、栄誉と権力の座であり、天と地を支配する場所です。同時に、私たちの罪の為に、執り成しをなされるのが、天の右の座です。

復活されたキリストは、天の聖所で、更にまさった大祭司として仕えておられます。迫害と苦しみの中で、キリスト教から、ユダヤ教に戻ろうとしている人たちに対して、キリストが更に優った大祭司として、天の真の幕屋でお仕え下さっていると励ましたのです。

復活されたイエス様は、今も天の右の座で、私たち一人一人の為に、執り成しの祈りを捧げ続けておられます。ローマの信徒への手紙 8 章 34~39 節「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

困難、問題、悲しみの中にありましても、十字架の主イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとして死んで、陰府に下り、復活され、昇天して、天の右の座に着かれました。そして永遠に、私たちを執り成して下さり、これによって、何ものも、キリストの愛から、私たちを引き離すものは、存在しないのです。

天から来られたキリストが、地上に来られて深く根を下ろして、私たちの為にして下さった、極限の愛の御業を見れば、天において、私たちの為に主イエス様がなして下さっている御業が見えて来ます。

私たちは、地上においては、旅人、寄留者です。ですから地上のものに執着してはならないのです。地上のものは、天上の影なのです。天にこそ、真の住まいがあります。

ロシアの文豪の一人トルストイの話しの一つに「人はどれだけの土地がいるか」というものがあります。貧しい一人の農夫がいて、自分の土地を手に入れることが唯一の願いでした。村長が彼に言います。「あなたが一日歩き回った土地を千ルーブルでぜんぶ売ってあげよう。ただし、条件がある。日が暮れるまでに出発点まで戻ってこなければならない。」

農夫は夜通し、よく眠れませんでしたが、日が昇ると、すぐ出発しました。土地はよく肥えていました。眠気が押し寄せ、横になりたくて仕方がありませんでしたが、行けば行くほど肥えた土地が出てくるので、戻るのが惜しいと思いました。いつの間にか日が沈み始めました。農夫は疲れ切っていましたが、力を振り絞って走りました。ついて出発点に戻って来た彼は、力尽きて倒れて死んでしまいました。死んだ農夫に必要な土地は、彼が葬られる墓とする所だけでした。この地上に執着して、欲に心が奪われると、天の本質を忘れ、間違った方法で、自分の空しさを埋めようとします。多くの人が、お金と名誉こそ、自分を守ってくれると考えますが、真に守ってくれるのは、イエス・キリストのうちにある真の命だけではないかと、ある神学者が指摘していました。

イエス様は、はるかに優れた、さらにまさった契約の仲介者になられました。地上の幕屋も神殿も、天にある真の礼拝の場と比べると、不完全なものです。この不完全な地上から、天の真の世界に、私たちは、イエス・キリストを通して、断絶を取り除いて頂いて、入れて頂こうではありませんか。神様と天の本質に接近出来るのは、唯一イエス・キリストにおいてのみです。

王は政治の世界の存在です。大祭司は、宗教と霊の世界の存在です。キリストは王にして大祭司です。さらにキリストは、宇宙と自然界の主であるのに、私たちの為に仕える僕ともなられました。このキリストは、動物の犠牲の血ではなく、御自身の血を携えて、天に行かれました。旧約の動物の犠牲の血は、神の御子イエス様の犠牲を指し示す型、また影です。実体なる天の幕屋に、神の御子イエス様の血潮こそ、私たちをきよめて、贖い、救う、唯一の実体です。

このキリストにある、より優れた約束と希望に生かされて歩みませんか。ロシアの有名な短編小説であるゴーゴリの「外套」に登場する下級役人の話です。この人物は、要領も処世術もない人でした。彼の唯一の人生の目的かつ夢は、高価な外套を一着買うことでした。彼は、大変な節約生活をした末、夢にまで見ていた高価な外套を新調します。しかし、官庁副課長の夕食の招待を受けて帰る途中、その外套を追いはぎに取られてしまいます。

絶望に陥った彼は、外套を探してくれるように警察署長に陳情し、有力者にすがりついて頼みますが、冷遇されるだけでした。しまいに、彼は長く患った末、死んでしまいます。その後、彼が通っていた道には、寒い冬が来ると幽霊が現れ、「私の外套、私の外套」と叫ぶという小説です。

ある神学者は言います。この短編小説に登場する人物が「外套」と言うかわりに「私のお金」「私のマンション」「私の株」「私の地位」という叫びが聞こえないかと言います。

「私の外套」というかわりに「主イエス」と告白するなら、私たちは本当に確かな、真の幸せに導かれるのではないでしょうか。よりすぐれた約束と希望なるイエス様に、いつも私たちの心を集中する歩みとなりますように。

優れた王にして大祭司、私たちの救いの為に十字架につけられたイエス様と分からず、信じない大勢の人たちがいました。兵士たちは、侮辱しました。またキレネ人シモンは、イエスの代わりに十字架を負わされた意味が最初、分かりませんでした。そして通りかかった人々は、イエス様に対して、「自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と侮辱しました。

加えて、祭司長たちも律法学者たちや長老たちも一緒に、イエス様を侮辱しました。さらにイエス様と一緒に十字架につけられた強盗たちも、最初イエス様をののしりました。

これらの中に、自分自身も、私自身もいたのではないでしょうか。この私たち一人ひとりの罪の身代わりとなって、主イエス様は、十字架刑となって、磔にされたのです。この苦難、苦しみ、痛みは、誰の為であったのか、ご聖霊と御言葉によって、深く受け留めて、悔い改めの実を結んで行きませんか。お祈り致します。


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