2023.4.7受難週祈祷会・金曜日_ヘブライ人への手紙 8 章 7~13 節 マタイによる福音書 27 章 45~56 節 「大祭司キリストと十字架上での死」
- CPC K
- 2023年4月15日
- 読了時間: 9分
牧師 松矢龍造
起
宇宙と地球の創造主は、人間に律法を与えられました。その中心は、心を尽くして主なる神様を愛し、隣人を自分と同じように愛するという掟です。創造主なる神様は、もし人間がこの律法を完 全に守るなら、永遠の命を与えるが、逆に破るなら死を与える。そのように、創造主なる神様は、 初めの契約と約束を人間と結ばれました。
この古い契約は、私たち人間が何をなすべきかを語っています。加えて、この古い契約は、ヘブ ライ人と私たち全人類に対して、先ずこの契約に対して、完全に守ることが出来ない罪人であるという自覚を与えます。9節に人々は、契約に忠実でなかったのでと言われています。原文では「忠実でない」とは「しっかり留まらなかった」「ずっと留まらなかった」という意味でもあります。 ですから、初めの契約を守り通さなかったので、主は民を顧みなかったと言われています。すな わち、その不信仰と不従順に対して、義なる神ご自身は、非難と聖なる怒りを持っておられることを知らせています。
さらに最初の契約のもう一つの面は、救い主イエス・キリストにおける、新しく確実な契約と約束を与える準備としての機能があります。古い契約は、人間が何をすべきかを語りましたが、新しい契約は、神様が何をなさるかを語っています。古い契約は、モーセを通して、シナイ山において、石の板二枚に、律法が記されましたが、新しい契約は、神ご自身が、私たち人間の心に、愛の律法を書き付けられます。
承
古い契約では、人間に欠陥や罪があることを経験させます。そして新しい契約の必要性に気づか せます。ヘブライ人への手紙の著者は、旧約聖書エレミヤ書 31 章 31~34 節を引用して、そのことを確証しています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。
わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も、わたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」
転
それでは、人間の心に、律法が書き付けられるということは、どういうことなのでしょうか。 第一に、胸の中にある思いが、神の掟そのものとなるということです。詩編 37 編 31 節「神の教えを心に抱き、よろめくことなく歩む。」詩編 40 編 9 節では「わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み、あなたの教えを胸に刻みます。」とあります。
心の外側に律法がいくらあっても、外側にある規則集や原則集にすぎません。私たちの内側の心に刻まれなければ、罪の自覚は生じても、これを行う力とはなりません。
第二に、神の御心を行うことを、真心から願うようになるということです。律法が外側にある時は、刑罰を恐れるから、しかたなしに律法を守るという心でした。しかし心に律法が書き記されると、真心から、神様を愛するから、これを守るという心になるということです。ですから神様を愛するとは、御聖霊の導きに従って、神様の愛の掟を守ります。
かつて人類の初めであるアダムとエバが堕落する前は、この心があったでしょう。創造主は、彼 らにエデンの園の中央にある善悪を知る木を食してはならない。食べると必ず死ぬと言われました。アダムとエバは、当初は食べると必ず死ぬという刑罰を恐れていたのではなく、私は神様を愛するから、この善悪を知る木を食べないと、愛の故に、食べなかったのです。
ところが、食べてしまうと、刑罰を恐れるようになりました。けれど刑罰を恐れながらも、不信仰と不従順を続けるようになりました。そしてノアとのその家族以外は、洪水によって人類は滅ぼされた時代がありました。
さらに第三に、律法が心に記されるなら、ご聖霊によって、キリストの言葉を思い起こさせます。 そして心の良心を強め、私たちが何かをするときの動機や願いを導き、神様に従いたいと思わせて くれます。
第四に、神様に仕えることが、最大の喜びとなります。神の国と神の義を先ず求めることが、さらに増してゆき、神様の御心を行うことが、まったき平安となります。
第五に、全世界が主を知るようになって、「主を知れ」と教える必要がなくなります。イザヤ書54 章 13 節の預言では「あなたの子らは皆、主について教えを受け、あなたの子らには平和が豊かにある」とあります。
心に神様の愛の律法が書き記された一人の人物がいました。ヘンリーC.モリソンというアフリカの宣教師です。ヘンリーは、20 世紀の初め、アフリカで 40 年間、宣教活動をしました。その間、家族も健康も失い、年老いました。それでも 40 年間、宣教を続けることが出来たのは、心に愛の律法が書き記されていたからでした。
そして故国アメリカに帰ることになりました。彼が乗った船には、アフリカで像狩りをして帰国する、セオドア・ルースベルト大統領が乗っていました。
船がニューヨークの港に入り、大統領が降りるとき、レッドカーペットが敷かれ、軍楽隊のファンファーレが鳴り響きました。大統領一行が港から去った後で、ヘンリー宣教師は船を降りました。彼を迎えてくれる人は誰もいませんでした。
宣教師は夕焼け空に向かって、こう叫びました。「イエス様、これが 40 年間アフリカで、私の青春を、私の健康を、そして私の人生をささげた結果だというのですか。」そのとき、夕焼けの狭 間から語られる、静かな声が聞こえました。「ヘンリー、わが子よ、あなたは、まだ真の天の故郷 に帰っていない。あなたが真の天の故郷に帰って来る日、レッドカーペットではなく、黄金の道を敷いて、御使いたちのラッパの音とともに、わたしが、あなたを迎えに出よう。」心に愛の律法が書き記されるもの達は、愛の源なるイエス様の声と、その御思いに、心を集中させる者たちです。
心に律法が記されるという新しい契約は、単に時間が経過したので、与えられたのではありませ ん。動物の犠牲の血によって罪を贖なっていた時代には、古い契約のままでした。そのことは、私たち人間の罪を贖い救うための備えになっていましたが、罪と汚れを取り除くことは出来ませんでした。
契約が進展して、新しい契約となる為には、神の御子が、人間となって受肉し、十字架で私たちの罪の身代わりとしての血を流して死なれ、陰府に下られ、復活され、天の右の座に着かれることが必要でした。いわば神の御子イエス様が、ご自身の御業によって、この新しい契約を勝ち取って くださったのです。ですから新しい契約を保証するのは、罪の赦しと贖いのために捧げものとなってくださった、主イエス様ご自身です。
そしてこの御子イエス様が勝ち取ってくださった新しい契約を、私たちが信じて、イエス様を心の中に迎え入れる時、私たちの中に、ご聖霊が内に宿り、心の中に神様の真理の御言葉を書き記し てくださるのです。ですから新しい契約は、信仰によって義とされ、救われると告げます。行いに基づくのではなく、神様の恵みに基づく契約と呼ばれます。ある神学者は、このことを心に受け留めることが出来ることを「神の内的霊感」と呼んでいます。
すると古い祭司と大祭司、いけにえと儀式、それを行う幕屋や神殿は必要がなくなりました。で すから 13 節「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。」古い契約、すなわち旧約聖書にある儀式律法のみは、廃止されました。
もちろん旧約聖書の中の道徳律法は永遠に続いています。すなわちその要約は、心を尽くして神様を愛し、隣人を自分と同じように愛するということです。
神様が私たちの心に、真理の御言葉を書き記して下さることは、神様との真の和解をもたらし、 神様の愛の掟を守る力を与え、それは全ての人に開かれています。そして罪の赦しと永遠の命が与えられ、神の使命に生きるように私たちを霊的に、再創造してくださいます。このことは、神様が保証されていることです。
しかし心に、新しい契約が記されても、私たちが心と信仰を曇らせてしまうことがあります。日 本でも死亡率の高い病の一つは脳卒中です。脳の血管が塞がれれば、脳梗塞となり、脳の血管が破裂するなら、脳出血となります。脳ばかりでなく、私たちの体のどの器官も、血管が詰まったり、破裂したりするなら、健康に異常が生じます。同じように、神様と私たちの関係をつなぐ、霊的な血管が詰まったり破裂したりすると問題は深刻になります。霊的血管を掃除する上で、祈りは重要です。
ほっておいて積もった貪欲な心や欲望を、祈りを通して、ご聖霊なる神様に取り除いて頂ければ、 きれいになった霊的な血管を通して、神様の恵みが心に溢れてきます。
かつて主のもとに召されたドイツの元大統領でありましたフォン・ヴァイツゼッカー氏のことを 最後に取り上げます。ハイデルベルグ大学創立 600 年の記念式典の中で、信仰者として大胆に語られた時がありました。大学の自然科学の領域における業績をたたえたあとで、その科学者たちに、 次のような言葉を送りました。
「科学者の皆さん、今一度、天地万物を造り、支配される方への崇敬と謙遜を回復して頂きたい。」参列者は、その後に主の祈りを唱えました。幼い時、覚えた、祈りの言葉を久しぶりに思い出しつ つ唱えたが、こんなに感動して祈ったことはなかったと、新聞記者が述べています。
ヴァイゼッカー氏の有名な演説は「過去をあとから変更したり、なかったことにしたりすること はできないのです。しかし、過去に目を閉ざす者は、現在をも見る目を持たないのであります。」 戦後 70 年以上経過した日本です。過去と現在を正しくとらえ、また私たちも自らの過去の罪を、正しく捕らえて、新しい契約の大祭司、キリストの十字架の血潮による赦しに預かりましょう。そしてキリストの復活の力と、祈りと、ご聖霊によって、心に記された愛の律法を、日々行う歩みとなりますように。
結
主イエス様が、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で父なる神様に裁かれ、捨てられました。
「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれながらです。そして十字架の死を通して、神殿の聖所と至聖所を隔てている、神殿の垂れ幕が、上から下に向けて、神様によって真っ二つに裂けました。
旧約時代は、大祭司が年に一度、動物の血を携えて、至聖所に入ることしか出来ませんでした。しかし大祭司なるイエス様が、ご自身の全き罪のない血を携えて、至聖所に入られると、隔ててい た、神殿の垂れ幕が、真っ二つに裂かれました。それによって、私たちは、イエス様を信じて、父なる神様に、直接お会いすることが可能となったのです。
この父なる神様と直接交われることは、どんな特権よりも素晴らしいものです。大会社の社長や天皇や大統領と直接、はばかりなく、お会い出来ることよりも、はるかに素晴らしい永遠の祝福なのです。これは、ただ、ただ、主イエス様の十字架の死により、大祭司キリストの執り成しの故なのです。
この素晴らしい恵みと祝福に応えて、私たちも、ご聖霊様の力を頂いて、主の御心に、献身して行く歩みとなってゆきませんか。お祈り致します。

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