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2023.4.9イースター・復活祭ヘブライ人への手紙 11 章 8~22 節「天の故郷、天の都」

牧師 松矢龍造


イースター・復活祭おめでとうございます。教会学校の子どもたちは、すでにイースター早天礼拝を捧げました。その後に、よく卵探しをします。その卵は、前日の土曜日に、ゆで卵にしてから、外側の殻に、色や絵を書いて備えたものです。このイースター・エッグの起源は、どこから来たのでしょうか。実はっきりしておりません。

一説によりますと、昔ペルシャ人が、死人を墓に葬る時に、卵を入れる習慣がありました。それは卵から殻を破ってヒヨコが生まれるように、やがて死人が墓を破って甦るということを期待したからと言われています。これが、いつのまにか、キリスト教に取り入れられ、主イエス様が、墓からよみがえられたシンボルとなったという説です。

他の説では、昔、ヨーロッパで大飢饉が起こって、食事もやっとのことで、御馳走なんかとても夢でした。母親たちは、せめて、わずかの卵でも、子どもたちに食べさせて喜ばせようと、色々考えました。そこで、卵に色をぬって、教会の庭の草むらに隠して、子どもたちに探させました。子どもたちは、大喜びで、卵を探し求めて楽しみました。これがイースター・エッグの起こりとなったというのです。

いずれにしましても、子どもたちから、大人に至るまで、キリストの復活や、死者の復活を、喜びの中で覚えることは、実に大切なことです。

今日の御言葉は、先週までありました 5 日間の受難週祈祷会においても受け留めました、新約聖書のヘブライ人の手紙から導かれました。新約聖書の復活信仰は、突然、天から降ってきたような、 信仰ではありません。旧約時代から語られ、信じられて来た、ある面で、地にしっかり足をつけた信仰です。

4500 年前の、アブラハムは、19 節にありますように「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」アブラハムは、創造主なる神様が、人々をよみ がえらせることが出来ると確信していたので、惜しまずに独り子なるイサクを、献げたと言ってい ます。

続いて、同年代位のヨブ記においても、19 章 25 節 26 節「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。」ヨブも復活信仰を持っていたことが分かります。

また詩編の作者も、16 編 10 節 11 節「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、 喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」

そして紀元 70 年後に成立する「ラビ・ユダヤ教」においても、広く共有される重要な信仰内容が、祈祷文として残されています。「あなたは全能であり、おごれる者を卑しめなさる。力強く、 そして暴れる者たちを、お裁きになる。とこしえに生き、死せる者たちを起こしてなさる。風を吹かせ、露をおかれる。生ける者たちを養い、死せる者たちを生かされる。あなたは瞬く間に、私たちに救いを生じさせる。あなたは、ほむべかな、主、死せる者たちを生かす方よ。」

そして使徒パウロが、その手紙で告白してゆきます。コリントの信徒への手紙一 15 章 20 節「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

アブラハムは、カルデアのウルという都にいましたが、そこから出るように、創造主なる神様から命じられました。ヘブライの信徒への手紙 11 章 8 節9節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。」

アブラハム、イサク、ヤコブと一緒に幕屋に住む生活は、まさに人生は旅であり、地上において、寄留者に過ぎないことの表われでした。そして約束の地カナンは、天にあります都の型、あるいは影でした。最終的に目指していたのは、天の故郷、天の都でした。

10 節「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」加えて 14~16 節「このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったか もしれません。

ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」

旧約時代の聖徒たちも、新約時代の私たちも、最終的に目指すのは、天の故郷、天の都、永遠の命なのです。それは、どの時代も変わりません。インドのネパールで起きた出来事に次のようなことがありました。ネパールは、ヒンズー教が国教で、キリスト教は、かつて禁止でした。しかし医療伝道をしている岩村昇さんなどの、宣教師の努力により、ひそかにキリスト教を信じる人々が起こりました。

ある時、その信者の一人に、欧州から来た学生が、「あなたは、どのようにしてキリストの復活を信じましたか」と尋ねると、彼は不思議そうな顔をして、「どのようにですって、私は聖書に書いてあるとおりに信じています。

もしキリストが十字架におかかりなっただけなら、ヒンズー教の神様と、ちっとも変わりません。キリストは、よみがえって、目には見えませんが、今ネパールで、この私と共にいてくださるから、私は信じるのです」と答えました。通訳しながら、この話を聞いて、岩村先生は、非常に感動させられたと伝えられています。

続いてヘブライ人の手紙 11 章 11 節 12 節「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」

アブラハムと妻サラに子どもが与えられたのは、アブラハムが 100 歳、妻サラが 90 歳という高齢の時でした。人間的には、子どもを産める年齢は、とうに過ぎていました。しかし復活の主は、この肉体的には、子どもを産むことが出来ない、死んだも同様な体を用いて、息子イサクを与えら れたのです。

天地万物が創造され時、創造主なる神様は、無から有を生させ、何の種もないところから、人間アダムを創造されました。そして命の霊である、ご聖霊なる神様の息によって、人は生きた者とされました。この創造主は、死んだも同様な高齢のアブラハムとサラとの間に、息子イサクを与えられたのです。

アブラハムは、後に妻のサラが死ぬと、遊牧民として、唯一の所有地として、サラを葬る墓としての土地を買いました。すなわちマクペラにある洞穴がある土地です。約束の地カナンの中で、その土地しか得られませんでした。しかしその墓の土地を手に入れることは、天の嗣業を得て、復活 して、永遠に住まう天の嗣業を得る保証となりました。

13 節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であること を公に言い表したのです。」

さらに、イサクの息子のヤコブも、その息子ヨセフも、エジプトで召される際に、遺言として、 エジプトの地ではなく、約束の地であるカナンに葬られることを言い残しました。それでヨセフは、父であるヤコブをカナンの先祖の墓があるマクペラの地に葬りました。またイスラエルの民が、出エジプトして、約束の地に向かう際に、ヨセフの遺骨を携えて、約束の地カナンに葬りました。

22 節「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。」

アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフたちが、約束の地であるカナンに行けと言われた。それは、カナンの土地が、陸伝いで、ヨーロッパ、アジア、アフリカに行ける唯一の場所だったからです。神様からの祝福を、全世界に分かつ為です。そしてもう一つ、約束の地の嗣業を得て葬られること は、天の故郷、天の都に入れて頂ける、保証のしるしとなったからです。

希望が丘教会の教会であった一人、高久勝次兄は、晩年に主イエス様を信じて、天に召されて行かれた方です。召される数日前に、ご自宅を訪問いたしますと「天国に向かって一直線だ」と信仰の告白をされたことを今でも覚えています。

最後に、韓国にありますオンヌリ教会の主任牧師であった、ハー・ヨンジヨ先生の証しを受け留めます。「ある年の 12 月 25 日、大変喜ばしいことがありました。クリスマスを迎え、99 歳という高齢の男性が、洗礼を授かったのです。この方は、生涯教会にかよったことがありませんでしたが、イエス様について聞き、神様を信じることに決め、洗礼を受けたいと願われました。

その方は、韓医学の医師でした。多くの患者を診察した経験から、『イエス様を信じる人々は、死の病を患っても、死を恐れませんが、イエス様を信じない人は、治療すれば充分生きることので きる病でも恐れます。』と話されました。ご本人も、この世を去る時が来たと考えた矢先に、牧師から永遠の命について説明を聞きました。

この方は、『これこそ、まさに私が願っていたものです。私は、永遠のいのちを生きたいです』と告白し、イエス様を受け入れたのです。」

神様に愛されている皆さん、復活信仰は、突然天から降ってきたような抽象的な信仰ではありません。アブラハムより、4500 年以上も間、神の民であり、クリスチャンの信仰告白であり、旧約聖書と新約聖書において、確かに約束されたものです。あなたも、キリストの復活と、聖書の御言 葉から、復活信仰を固く持ち、御聖霊によって、復活の証人となってゆきませんか。

お祈り致します。


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