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2023.5.10 箴言 11 章 12~21 節「神様に従い慈善と誠実に生きる」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2023年5月17日
  • 読了時間: 7分

牧師 松矢龍造

神様に従い、慈善と誠実に生きる。それは、律法の精神である、心を尽くして神様を愛し、隣人を自分と同じように愛することの要素と言えます。これも願っても、肉の力では、出来ず、また長続きしません。かえって、神様に従わず、人に対して悪をなしてしまう。そのようにならないためには、自分の弱さや欠けや醜さを、悔い改めて、主イエス様の赦しを頂き、ご聖霊の力を頂く必要が誰にでもあります。神様に聴き従い、隣人に対して悪をなさず、誠実と慈善をもって、他の人を潤す歩みとなれますように。

先ず12節と13節「心ない者は友人を侮る。英知ある人は沈黙を守る。悪口を言い歩く者は秘密をもらす。誠実な人は事を秘めておく。」この二つの節は、隣人愛とプライバシーの尊重を教えています。そして隣人に関しての噂話は、慎ましまなければなりません。よく沈黙は金、雄弁は銀と言われます。他の人の欠点を見ても、軽蔑しないで、黙って、その人の存在を、ありのままで受け入れ、赦し、祈り、愛する人は、人生で、一番大切な英知を持っていると人と言えるのではないでしょうか。最近、神様の憐れみと恵みがなければ、私も同じようなことをしてしまう。いやもっと酷いことをしていたかもしれないと思うことが多くなりました。むしろ、私たちが、いつも、周りの人をけなし、自分はましだと思っていたとしたなら、これは危険です。私達自身も、大きな欠陥があると思わなければならないかもしれません。加えて、私たちは、その人のことを、どれだけ知っているのでしょうか。その人には、私たちの判断しきれないほどの深さ、尊さ、背負いきれない荷があることを知らないでいるのではないでしょう。

さらに人の中傷や悪口、軽蔑や噂話を共有することで、親密になったと思った仲間は、実にもろい関係であることを、わきまえていなければなりません。14節「指導しなければ民は滅びるが、参議が多ければ救われる。」民を治めるためには、立派な指導者と共に、彼を助ける助言者が必要です。大統領であっても、相談役が必要です。重要なポジションの人ほど、メンター・助言者が必要です。小さいながら私も、助言者によって、どれほど助けられてきたか分かりません。15節「他国の者の保証人となれば災難がふりかかる。手を打って誓うことを嫌えば安全だ。」手を打って誓うとは、保証あるいは誓う時の動作のことです。ここでは、借金の保証人になることに対する警告がなされています。借主が返せなければ、保証人が支払わなければなりません。それは財産を失うだけでなく、時に、返せなければ、貸主の奴隷とされることもあります。教会で、ある方のアパートの連帯保証人となるケースがありました。その際にも、賃料のみとして、火災などの責任を負うことがないように、その人に保険をかけて頂くなど、細心の注意が必要でした。その方は、身寄りのほとんどない教会員の方であり、連帯保証人にならないと、アパートを借りることができなかったので、やむなく保証人となりました。しかし、保証人になることは、細心の注意が必要です。

16節「美しい女は名誉をわがものとし、強い男は富をわがものとする。」美しい女と訳された原文の言葉は、人柄の良い女性、恵みに溢れる女性、心優しい人女性という意味でもあります。それは女性とは限りませんが、人柄のよい女性は名誉を得ます。

続く「強い男」と訳された言葉は、原文では「横暴な男」あるいは「残忍な男」という意味でもあります。これも男性とは限りませんが。横暴な者は、せいぜい一時、富を得るだけで、名誉を得ることは出来ません。

17節18節「慈しみ深い人は自分の魂を益し、残酷な者は自分の身に煩いを得る。神に逆らう者の得る収入は欺き。慈善を蒔く人の収穫は真実。」

真実な愛は、変わることのない愛です。慈善は、命につながります。知恵ある生き方は、正しい生き方であり、特に貧しく虐げられている人々に、正義と公正をもって接することが大切です。慈善の例としては、旧約聖書の士師記の時代に、未亡人となった、ナオミとルツが、モアブからベツレヘムに移り住んだ時のことです。ボアズは、自分の麦畑で、落ち穂ひろいをしていたルツに対して、大変親切にしました。それが、ダビデ王につながる祝福となる結婚にまで発展して行きました。

19~21節「慈善は命への確かな道。悪を追求する者は死に至る。心の曲がった者を主はいとい、完全な道を歩む人を喜ばれる。悪人は何代経ようとも罰を逃れえず、神に従う人の子孫は免れる。」神様を信じて、正しく生活する人は、適切な食事や運動をし、休養を取るので、通常は長生きす

るので、その意味でも命に至ります。さらに神様から永遠の命を贈り物として与えられます。彼らは、死を恐れることはありません。

ヨハネによる福音書11章25節「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」

逆に、悪を追及する者は、永遠の死に至るだけでなく、地上でも、真の命を見失ってしまいます。仕返し、欲望第一、相手の心の痛みに気付かない。これらの行きつく先には、真の命はなく、はては永遠の死へと繋がって行きます。

旧約聖書、詩編37編34~40節「主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて、地を継がせてくださる。あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのを、わたしは見た。しかし、時がたてば彼は消えうせ、探しても、見いだすことはできないであろう。無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。背く者はことごとく滅ぼされ、主に逆らう者の未来は断たれる。主に従う人の救いは主のもとから来る。災いがふりかかるとき、砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる。主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」

最後に、キム・ビョンサムという方の「神様の心があるところ」という内容を受け留めます。「『ジェノヴィーズ症候群・傍観者効果』というものがあります。1964年、ニューヨークのクイーンズで、ジェノヴィーズという女性が、夜遅く暴漢に襲われて、殺されたのですが、それを見ていた目撃者が40人ほどいたにもかかわらず、みなが『だれかが通報するだろう』と考え、だれも警察に通報しませんでした。この出来事について、ラタネとダーリーという二人の心理学者は、『危機に陥った人を助ける個人の責任が、分散されたためだ』と考え、これを説明するために、実験を行いました。通行人が一人しかいない所で、一人の大学生が、てんかん発作を起こす演技をして、そこに通りかかる人々の反応を調査したのです。その結果、その学生が救助された確率は85%でした。しかし、通行人が5人いる状況では、救助される確率は、31%にとどまりました。『だれかがやるだろう』と考え、無関心になってしまうジェノヴィーズ症候群は、責任感を分散させ、いのちの重みを軽くしてしまいます。

今、あなたの前に、苦しんで倒れている人がいますか。その人に対する責任は、イエス様を信じている私たちにあります。私たちは、関心を持たずに、通り過ぎてしまうかもしれませんが、神様は、一人の人を尊いと思っておられます。私たちの無責任と、冷淡さゆえに、だれかが死ぬ可能性があるなら、私たちの関心と愛によって、だれかが生きる可能性もあるのです。神様のみこころがあるところに、私たちの心があり、神様の愛があるところに、私たちの愛があることを切に願います。」神様に愛されている皆さん、良きサマリア人は、敵対しているユダヤ人の人が強盗に襲われて半死状態にある時、自分にある機会と技術と財で助けました。しかし同じユダヤ人である祭司とレビ人は、その襲われて半死状態の人を見ても、道の反対側を通って、見捨てて行きました。良きサマリア人のような、主イエス様は、私たちが、弱く罪人であり、敵であっにもかかわらず、私たちの為に、十字架で、命を捧げられました。私たちの罪の身代わりとなって、義なる父なる神様からの、怒りと裁きを、全部御自身が受けて、死なれました。死にて葬られ陰府に下られたイエス様は、三日目に復活され、ご自身を信じる者たちに、罪の赦しと、永遠の命を与えてくださいます。そればかりでなく、慈善と誠実の実を結ぶように、ご聖霊様の賜物と力を求めるようにと言われています。私たちも、救いと共に、隣人を自分と同じように愛する慈善と誠実の業を、ご聖霊から頂いて、実行して行きませんか。お祈り致します。

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