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2023.5.14 ヨハネによる福音書 20 章 11~18 節「復活された主イエス様に最初にあった人」

牧師 松矢龍造

二度目にイスラエルに研修させて頂いた時は、8月の暑い季節でした。夏の日照りの中で、最近発見された、マグタラのマリアに関する遺跡があるということで、そこに連れて行って頂きました。出来れば日陰にいたいような、遺跡の現場で、しかもマグダラのマリアに関しは、正直、あまり興味もないのに、炎天下で研修することに、戸惑いがありました。しかし今回、ヨハネによる福音書の講解説教で、マグダラのマリアが登場する聖書箇所を説教する時となって、あの時、炎天下でも、その遺跡において研修しておいて、本当に、よかったなと、あらためて思いました。この女性は、初代教会にとっても、後に、この福音書を通して、この女性の弟子に触れる私たちにとっても、実に重要な意味を持つ人物です。

前回、福音書に記された復活の記事の類型には二つあるとお伝えしました。加えて前回は、「空の墓の出来事」を通して、間接的に、イエス様の復活を受け留めました。そして今回は、「空の墓の出来事」に出会ったマグダラのマリアに対して、もう一つ復活されたイエス様が、直接現れた「顕現の出来事」に関しても証人となった御言葉です。マグダラというのは、ガリラヤ湖の西の端の町のことです。このマグダラ出身のマリアであったということです。このマリアは、伝統的には、娼婦であり、この女性に対して、イエス様は、七つの悪霊を追い出し、赦し浄化されました。ルカによる福音書8章2節には「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と紹介されています。七つの悪霊とは、七は完全数の一つですから、完全に悪霊に取りつかれていて、人間の力では、悪霊を追い出すことは、不可能であったことを示しています。初代教会では、このマリアほど、イエス様を信仰的に愛していた人は、いないと言われるほどでした。マリアは、多く赦されたので、多く愛したのです。さらにマグダラのマリアは、イエス様の弟子たちと、もっとも親しい女性の弟子だったと考えられています。ある方は、このマリアを「使徒たちへ遣わされた使徒」とさえ呼んでいます。マグタラのマリアに関して、こんな詩が残されています。「マグタラのマリア、天使ミカエルの門で、マグダラが、激しく戸を叩いた。ヨセフの枝で黒鳥が歌った。『入れてやれ!入れてやれ!』『おまえは、あのイエス様の傷を見たのか』と天使ミカエルは言った。『おまえは、自分の罪を知っているか』。『もう日が暮れる。日が暮れる』と黒鳥が歌った。『入れてやれ!入れてやれ!』『わたしはあの傷を見ましたし、自分の罪を知っています』黒鳥は歌います。『そのひとは知っている。自分の罪を知っている。入れてやれ、入れてやれ』『おまえは、献げ物をなにも持たぬ。罪のほかには』とミカエルが言った。黒鳥が歌った。『その女は悔いている。悔いている。だから入れてやれ、入れてやれ』。黒鳥は歌いながら眠ってしまい、夜のどばりがおちはじめると、誰かが来て、ミカエルの門を開け、マグタラは、中に入っていった。」

どうして、復活されたイエス様は、第一にマグダラのマリアに、顕れてくださったのでしょうか。それは謎です。しかし少なくても言えるのは、マリアほど、イエス様を信仰的に愛した人は、いなかったと言われていることです。どうして、救い主を宿す女性が、ナザレのマリアであったのかも、最終的には謎であることに似ています。11節「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、」と始まっています。ペトロとヨハネは、空になった墓を見ると、家に帰りました。けれど、マグダラのマリアだけは、墓のそばに、留まりました。それは、主イエス様に対する信仰的な愛の深さの故でしょう。

「身をかがめて」と訳された原文の言葉は、「覗き込む」あるいは「心に見つめる」という意味でもあります。マリアは、空になった墓の中を、心を込めて、身をかがめて、切に覗き見たのです。

12節「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。」愛の故に留まったマリアに対して、白い衣を着た天使が、顕れてくれたのです。

マリアが天使を見たという時の「見た」は、身をかがめて見たという言葉とは、別のギリシア語が使われています。それは「気が付いた」という意味でもあります。イエス様の遺体が置かれていた頭と足の二つの場所に、天使がいた。それは、うつろな目ではなく、はっきりと天使がいることに、気が付いて見たのです。

13節「天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』」マリアは、まだ死人の中に、イエス様を探していたのです。そしてイエス様のご遺体を、誰かが取り去ったと思い込んでいました。

14節「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」どうして、マリアは、最初、復活されたイエス様だと、分からなかったのでしょうか。

一つの理由は、まだ薄暗かったので分からなかった。また涙で、見えなかった。さらにイエス様が、死んでしまったという事実が余りにも強烈であったので、イエス様が、復活されて姿を現すとは、思いも及ばなかったからでもあります。さらに四つ目の理由として、神様が、適切な時まで、分かることを止められていた、ということかもしれません。

いずれにせよ、肉の目では、栄光の体を、認識することが出来なかったということです。

15節「イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは、園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』」

マリアは、復活されたイエス様を、園丁だと最初思いました。イエス様の姿は、地上にいる間は、まさに謙遜、謙卑な姿をしておられたのではないでしょうか。それは、神様の栄光に固執することなく、私たちの救いの為に、へりくだられたからです。

16節「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」マリアが、イエス様だと分かったのは、見たからでなく、主イエス様の声と言葉で分かったのです。生前に、「マリア」と呼んでくださっていた、あの慈愛に満ちた声に触れたからです。

マリアは、イエス様だと分かると「ラボニ」と言いました。「ラボニ」とは、自分の先生を親しく尊敬して言う言葉です。私達も、復活のイエス様が分かるためには、肉の目で見るのではなく、私たちの主の御言葉を聴くことによって、信じる信仰と霊の目で分かるのではないでしょうか。イエス様は、今も、私たちのそばに、ご聖霊によって、おられて、あなたの名前を呼んでおられます。イザヤ書43章1節「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」17節「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上ると。」』」マリアは、イエス様との関りがなければ、生きていけないと思っていたでしょう。しかしイエス様は、最初にマグダラのマリアに現れて下さったのに、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。それは、父なる神様のもとに帰ろうとする、復活されたイエス様の業を、妨害するなということではないでしょうか。

そしてもう一つは、マリアの使命は、イエス様にすがりつくのではなく、使徒たちに、復活されたイエス様にお会いしたことと、イエス様のメッセージを伝える使命が与えられていることを、なしてほしいためであったのではないでしょうか。イエス様が、マリアを通して伝えて欲しいことは、「わたしの兄弟たちのところに行って」とあります。イエス様を見捨てて逃げた弟子たちを、なお「わたしの兄弟たち」と言ってくださる、イエス様の愛です。

また父なる神様を「私の父と」と言われていることに加えて「あなたがたの父である方」とも言われています。父なる神様も、イエス様を見捨て逃げたペトロたちに対して、なお「あなたがたの父である方」となって下さる。父なる神様のご恩寵と恵みを伝えて欲しいと。

18節「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」ここでマリアが「わたしの主を見ました」と言った言葉は、先のマリアが見たという原文のギリシア語とは、別の言葉になっています。「認める」あるいは「経験する」という意味でもある言葉となっています。復活のイエス様だと、識別して、洞察して、経験して、はっきりと見た。それを証しし、主からの御言葉を伝えました。私たちも、御言葉とご聖霊によって、復活されたイエス様と出会い、確信して、隣人に対して、イエス様の復活の証人として、遣わされ、それぞれの場所に置かれています。

私たちは、日常の中で、復活されたイエス様が、御聖霊様によって、共にいてくだるのに、気がつかない時があるのではないでしょうか。私たちが、気が付いていなくても、復活されたイエス様は、世の終わりまで、私たちと、ご聖霊によって共にいてくださいます。

ならば、他の人から聞いた復活の証言ではなく、自分自身が、御言葉とご聖霊によって個人的に復活の主と出会い、御言葉と共に確信することが重要です。そして祈りつつ、隣人に証しして行きませんか。復活されたイエス様の事を、個人的なことに、止めておいてはなりません。

イエス様を信じる者たちは、「あなたがたの父」と言われているように、霊的な養子ではありますが、神の子どもとされています。その恵みの中で、祝福の基、復活の証人、平和の使者として、ご聖霊の力を頂いて、用いられて行きませんか。お祈り致します。

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